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性濁 手記5
自ら望んだパラレルワールドに生きるなら、それも、良いのかもしれない。
富裕層が庶民と交わりたがらないのと同じように、ハイエナから食い散らかされてしまわないように、注意深く、慎重に、パラレルワールドに住まうように。
私たちには、パラレルワールドが必要なのだ。
会わなくなる人もいる、その理由が、合わなくなったからというひともいる。ただ会わないだけの人もいる。理由も、用事も、あったりなかったり。在る、かの人達と、会わない世界線に居ると決めることに、そんなに罪悪感や絶望を感じることなんてないのだ。
そうすれば、お互い自由だ。
私と彼を繋ぐものなんてもうない。
ああ、私は自由だ。
何を表現しても、彼には関係ない。彼の家族にもなんの関係もない。
私はパラレルワールドに住んでいる。彼らとは違う世界にいるんだ。あっちの世界に人がたくさんいたとしても、こっちの世界にもほら、気付けばたくさんいるよ。だから大丈夫。
*
私にとって原家族(生まれ育った家族)が大切なものであるはずがなく、それはイコール自分が大切なものであるはずがないということであるらしい。三島由紀夫も伊藤野枝も、ああいう自暴自棄な最期を迎える作家は、私と似たような境遇に育っている。
母の手で育てられていない。父も母も尊敬していない。それゆえ世の中に対して尊大である。世の中に対して、やけに距離感が近すぎる。それはやっぱり、父母と近くなれなかった故なのだと思う。東洋人なのに。
===
不遜
隣と下にしか
人柱がいないから
私はきっと
不遜なのです
紙の上
それ以外では
微塵子のよう
よるべがなくて
吹き飛ばされて
しまいそう
紙の向こう側で
許し合いたい
おかあさん
私も上から連なって
いたいのです本当は
生まれてきてごめんなさい
でも
あたし東洋人だから
===
矮小だから倭人と呼ばれた、日本人の中でもとりわけ小さくて、運動神経が悪く、鈍くさい。私はいつもオドオドしている。小動物には危険信号が出やすいのだ。ワーキングメモリが小さいのは、器質的なものなのか、情動のせいなのか?
そんな小動物みたいな私にも理想はあって、まあるく完璧な満月みたいに満たされた状態。その状態に、「幸せな原家族」というアイテムがどうしても欠かせないようなのだ。どうしてだろう?
*
母原病に、夫原病、毒親育ち。この国が急激に物質的に満たされた、高度経済成長期以降から流行った精神疾患。そりゃあ、そうだ、互いに関係し合っているもの。
では、「子原病」はどうだ?所謂、支配力の強さなのだ。
例えば、子どもが生まれてしまったことで起きる、抗えない変化。
あるいは出来が悪い子ほど可愛い、という捻れや調教。
若いうちの苦労は買ってでもしろという、謂れのない突き放し。
あるいは18年間もの間、親に保護されなければならない、「法原病」もあるだろう。親よりも賢くても、そこから抜け出すことはできず、葛藤は強まっていくばかりだ。
そういうの、全部ひっくるめて時代のせいだ、
とか言うのかもしれない。世代間にはいつも大きな違いがある。「最近の若者は」とは常にある言葉だ。
あるいは「地原病」もあるだろう。その地に合わないこともあるし。
要は環境だ。
ただし「性原病」は、どの時代もどの地域でも、ほぼほぼみんなが罹るものだ。たとえ性愛も恋愛もしない人であっても、性的存在であった母親との十月十日と、産道をくぐる母子関係はある。
病とは、うまく付き合っていくほかないのだと思う。良くなったり、悪くなったりしながら、寛解していくものだ。もちろん再発もありえる。完全に治癒してしまったら、それは他人っていうんじゃないだろうか。まだまだ、元彼や昔寝た男は、今でも私の胸の中をざわつかせる力を持っている。
*
結婚すると急に、他人から幸せだと見なされるようになった。愛することは、愛されることより豊かだと、上野千鶴子先生は言う。
だけど、愛されることのほうが、愛することよりもレアなきもするんです。
そもそも愛するってなんでしたっけ。
愛を請わない、いやむしろ要らないと頑なに主張し続ける私に、匙を投げた夫も、
私を御せない父も、兄も。
「父兄」が匙をなげたなら、私はずうっと家出しているしかない。神待ち少女である。
いい歳して、白髪混じりの頭でさ、。
愛してくれる、大切にしなければいけない家族を、私は裏切り傷つけた。ここに私の居場所はないと覚悟しているのに、夫はここに居てもいいと言う。私は訝しく思いながらも、夫の母性や父性に甘んじている。
しかし、手懐けられない、誰にも。「私の人生にはそういうの、ないから」ってずっと前だけ見て、痩せ我慢。私は、世の中を睨みつけて、世の中と戯れながら、書くしかないのである。
それが私にとって、幸せなのか、幸せでないのかは別として。愛されるだけの大人になりきれない人間って。
私という玩具と、世の中っていう玩具が、戯れているだけ。
*
乙(おと
ほんとうに大切なものは文章になんかできないらしい。ほんとうのことは歌の中にあるらしい。
言葉にできない本音は歌になっちゃうらしい。
音にしか、ならないらしい。ああ。
いや、音にもならずに、ぐっと飲み込まれるだけらしい。
其れ、それでいいの?
日本人、
其れ、そのままでいいの?
「そのままがいい
僕が君を守るから」
みんな、勘違い。
勘違いしちゃったまま、
死んでくの?
ああ。
あの世でまた会いましょう
あの世を信じて逝きたいから。
あの世を信じて永遠の眠りにつきたいから、
あの人も待ってるって、
きっとあの世ではお友達になれるね。
残していく子は
いい子でいてね。
いい子でいてよ、
ダメなものはダメだって、
きちんと言える勇気をもつ子に
*
喰われるのが怖かったのだ、ずっと。食うか、喰われるか、生存競争の中で、意地とプライドをかけた闘いを、父兄とずっとしてきた。
弱い側にいるのも、父兄の軍門に下るのも、ありえなかった。
*
*
ずっと恐れてたことが今年起きた。娘が、母が出て行ったときの私の年齢に達した。
(なんでこの子はこんなに1人ではできないんだろう。私はこの歳にはとっくに1人でやってたのに)。
だけどあれ、あの洗濯物はどこから帰ってきたんだっけ。
ああ、おばあちゃんだ。
私には、おばあちゃんがいた。
私はいま、母じゃなくて、おばあちゃんなんだ、きっと。
母をまったくコピーできなくなってからというもの、私は祖母をコピーするようになっているようなのだ。家事のやり方はすっかり変わった。手の込んだ綺麗な料理を作るのは難しくて、身体が拒絶する。
食なんてそもそも、栄養が摂れて空腹が満たせれば良いんだ、完全栄養食品さえあればいいんだ。企業が、顧客のために開発してくれた立派な食べ物だ。私はそれで全然構わない。作ってまで食べたくない。できれば何も食べたくない。たまにスイーツが食べれればそれでいい。だけど、目の前に食べ物があれば見境なく、食べてしまう。お腹はいっぱいにならない。なる前に、気持ち悪くなる。
*
気持ち悪い。
性的トラウマを考える上で、とても重要な言葉だ。
生理的嫌悪感が消し去れないからこれだけ苦しんでいる。ジャニー喜多川の例を見れば明らかで、加害者が死んでもその嫌悪感は消し去れない。この嫌悪感は、きっと一生つづくと確信していた。
だけどもし、この世界にはいなくて、何も関係ない人なのだとしたら。私の世界が半径2メートルの手触りのある存在たちだけだとしたら。
嫌悪感の、身体に侵襲してくるような感覚は消せる。身体の中にまでは入ってこない、皮膚の表面に、まとわりついている程度のものだ。
私の
世界は
半径
2メートル。
私に見えるのはせいぜい6メートル先まで。
*
存在ごと消えてほしい人なのに、ヴァギナが反応する。その認知的不協和が、自分を傷つける。自分の尊厳を傷つけ続ける。セクシャリティを侮辱し続ける。拷問だ。
認知的不協和はあちこちへと飛翔する。そのこと、それにまつわること、彼にまつわること、すべてを避けようとするあまり、思考や発言は思いもよらない飛び方をする。
「貴女のことが好きだから、そうしてしまったのよ」と、あの時期から2年経過して、20歳を超えて、そばにいなかった母の助言を新たな軸にして、私はあの出来事を判断し、少しだけ赦すことに成功した。それまで、半径2メートルの現実世界で、そんな風に感じたことは、一度もなかった。
でも私は、その時から、物語を書き換えはじめた。お兄ちゃんは私のこと、女として好きだったんだ、と。
しかしその童話は、40歳を迎えたころ、当事者からの「素直で真摯な」激白によって根底から否定されることになる。
私が魅力的すぎたからではないのだ。私が、無防備で、馬鹿そうで、踏み潰したくなる存在として、半径2メートル内にいたから起きたことだった。
お互いに、人ではなかった。獣でもなかった。
ただの物体だった。
そのことが、認知的に不協和だと私の性(生)は不満を唱えるのだ。
こんなに身体に溜まっていく。だからこうして、常に吐き出している必要がある。
それが迷惑だったとしても、事実であるなら、言うだけ言わせてくれないか。吐かないと私の身体に蓄積していくから。
女の性を、軽く見ないでほしい。
*
詩
性濁より
*
*
この人も、この人も、知らないのだ。私の家庭におこったことなど。私と彼の関係など。
私たちの、母に対する複雑な感情も。
「お母さんがなんだかんだ好きで大切」であるという前提の、みんなが信じる主流のストーリーに、私はまったく馴染めない。
家族、とか絆とか、全然わからなかった。
家族を持った今ならやっと一応わかるけれど、ずっとわからなくて世の中に疎外されて、宇宙人みたいに、外の世界から、みんなのことを見てた。
臨床心理士の資格を取ると、そんな自分のことすらも、外の世界から見れるようになった。
「君は病んでるけど、それをメタ認知できてるからいい」。哲学を専攻している高学歴リスナーに認めてもらった。アンナ・ハーレントを薦められた。
ずうっと少女だった。今でも。ただ眺めて微笑んでいるだけ。いや、ほくそ笑んでいるだけ。
快楽主義、刹那主義。いつだって必然かのようにそうしてきた。父兄の軍門にはくだらなかった。世の中には適応できなかった。
もし私に、女の子だけでなく男の子が産まれていたら、息子には監視カメラをつけただろう。もし男の子しか生まれていなかったとしても、近親相姦になって親子で病んでいたかもしれない。発狂していたと思う。
よぉい
地獄に
私を
引き摺り
おろした
天国に
いたわたくしを
きょうだいのなかで
ただひとり
天国にいることは許されないと
わざわざ引き摺り下ろしてくれた
こっからのスタートだ
*
オーフィリア
傷から卒業する。慰み者が、水上(すいじょう)へと出る。水に浸かってぽっかり口を開けていた娘の死体は、起き上がるのだ。
死んでいたことで美しく?秩序を保っていた世界に、私達、慰み者が目を覚ますということは、この世の秩序を壊すということだ。
娘も、女である。女には生物としての弱さゆえ、野生の知恵が授けられている。女が果実の匂いを嗅ぎ回って、あれ、と気づいたとき、男たちはやっと自分の道を見つけられるのだ。あれ、と気づいた女の果実を横取りすることでしか、力を得られない弱い男性たちがいる。何もかも、お膳立てが必要なのだ。
己を制御することを知らない男達だ。もしくは、ぽっかり開いた女の口に、ただ吸い込まれてしまっただけのことで、己など彼らには初めからなかったのだ。可哀想に、お母さんに殺されず生き延びてしまった男たちは、行き場がわからず慰み者を必要とする。ほんとうは行き場が無くて死にたかったのに、生きなければならないと勘違いしたからだ。おまえに居場所なんてない。もともと死ぬはずの命を、お母さんの情けで生かされてしまっただけだ。弱い母は、おまえを殺す決意ができなかったのだ。出来損ないのおまえを。
もう、生きる道は見つかったか?私が先に見つけた果実は、美味しかったか?
===
*
性濁より詩
===
おばあちゃんは晩年、大腸から出血して血便が出て、いつも貧血を起こしていた。だけど何度も検査しても、血のでどころを、現代医学をもってしても特定することはできず、ただ輸血して延命する対処療法しかなかった。祖母は何度輸血しただろう。父は、輸血によっておふくろの命を長らえさせることに、きっと嬉しかったに違いない。別れた嫁が、もしここにいたら、宗教上の理由で、輸血で救うことはできなかっただろうし。
お母さんはいつも、輸血拒否のカードを首から下げていた。普段は見えないけど、一緒に温泉に行くと脱衣所で必ず見える。
母は信仰心を父に受け入れられなかったために中学1年生のときに家を出て行って、私は18歳になるまでは母と会うことを父に禁じられた。
私はいよいよ、おばあちゃんの末娘になった。
私が生まれなければお母さんが殴られつづけることはなかったのに。父に殴られたことがない私を、母が愛せるはずがなくて、私は今は母に与えるばかりの存在だ。香りの良いハンドクリーム、米、漫画、トイレットペーパー。忠実な娘を演じられるようになったのは、母が明らかに老人になってからだ。認知的整合性がとれたのだ。私より弱い存在には優しくするもの、だと。
兄も、母に対して葛藤がある。ケアする性ではない彼にとって、母が老婆になったからといって心変わりすることはないようで、むしろ、母のお金に影響を与えうる、自分の財布を守ることで精一杯なようだ。妻子がいること。それは自分の手の中にあるものだけは必ず守るということ。その思いが強い故に、それ以外への出資は狭まる。責任感のある彼らだからこそそうなるのだけど。
セキニンカン。
セキニンカン。
私も、責任感がつよいねって、学校でも会社でもよく指摘されたものだったけれど…。妻は帯びてないけれど。
それでも、私はパラレルワールドに住んでるから、大丈夫。大丈夫だよ。