学術論文に潜むゾンビ ゾンビアリ
私はゾンビの論文を探し求めている。本物のゾンビを扱う(と仮定しても矛盾しない)論文を探している。しかし私の要望を満たす論文は少なく、ヒットする論文はゾンビを何かの比喩として扱うものかホラー映画の分析のどちらかだ。
だがそのお陰で、各学術分野におけるゾンビのがどのように扱われるか知見が溜まってきた。そこで、今後のゾンビ研究者のために、溜まった知見を以下の記事にまとめている。
短く説明できるものは上記記事にまとめてあるが、長く解説を書きたいものは別記事にまとめることにした。この記事では、ゾンビアリについて解説を書いておく。
ゾンビアリ
英語表記:"zombie ant"
何かに寄生され、その寄生体に操られるアリのこと。ゾンビに喩えられる所以は、宿主が寄生体の思うがままに支配され感染を広げる様子が、ゾンビ映画の感染者が人間を襲い感染を広げる様子を彷彿とさせるからである。これは私のゾンビ比喩の分類におけるケース2、「被支配者」に該当する。アリを支配する寄生体には、真菌類や吸虫(ヒルの仲間)と呼ばれる寄生虫が報告されている。
これ以降のリンク先では、アリのアップや菌糸が張ったアリの死骸、寄生虫などの写真が多数載っているため、苦手な人間はうかつにリンク先へ飛ばないように注意していただきたい。
真菌に操られるゾンビアリ
まず、寄生体が真菌類であった場合について説明する。
良く知られているのは、Ophiocordyceps(オフィオコルディセプス)属の真菌類がダイクアリ(Carpentar ant)とも呼ばれるCamponotus(カンポノトゥス)属のアリに寄生するケースである。中でもタイワンアリタケ(学名Ophiocordyceps unilateralis)とCamponotus leonardiについて報告した論文が有名であるが寄生とコントロールの機構の研究によく使われる。
タイワンアリタケに寄生されたダイクアリは、巣穴を出て放浪し、昼頃に植物に登って葉や枝の先に強く噛みつき、そのまま息絶える。といっても餓死や寿命で死ぬわけではなく、タイワンアリタケの菌糸が体中に張り巡らされて体組織を失うことが死因である。葉に嚙みついたアリは死後も決してアゴを放すことはなく、安定した苗床となる。アリの中で育った菌は最終的にアリの外殻を突き破って子実体(しじつたい)を出し、子実体が育つと、先端にある子嚢(しのう)から胞子が吐き出され、近くを通るアリたちにまた寄生する。このとき、アリは葉の裏側や枝にさかさまになって嚙みつくため、胞子は効率よく地上のアリたちに降り注ぐ。こうしてゾンビアリを操ることでタイワンアリタケは繁殖し、生息域を拡大するのだ。
気になるのは真菌類がアリをどう操っているかだが、まだわからないことが多い。安易に想像されるのは真菌が脳に達して直接操るという手法だが、実際は異なるという。そもそも真菌が脳に達したからといって思うがままにコントロールできるというのも、考えてみれば不思議な話なのだが。
どうやら真菌が生体分子を宿主の体内で分泌することでアリに異常行動をとらせるらしいのだが、これも詳しい原理はまだ解明されていないようだ。
また、アリが葉に噛みついた後に息絶えることはdeath grip(デスグリップ)と呼ばれ、その機構についての研究も多い。
オフィオコルディセプスによるアリのゾンビ化は、Alfred Russel Wallaceによって1859年に発見され、1886年出版の論文で報告された。
…と知られているが、そのような記録は存在しない。
まず、上記のWikipediaの引用の通り、Wallaceが1859年にオフィオコルディセプスを発見した件については参考文献がつけられていない。この件の出典を探したところ、David P Hughesらの2011年の論文にその記述があった。
"body snatching extended phenotypes"は良い訳を知らないのでGoogle翻訳のまま「スナッチング拡張表現型」としたが、「体を乗っ取られて普段とは異なる動きをするようになること」という意味である。「表現型」という言葉が専門用語なので、興味があれば調べていただきたい。
この論文の参考文献[30]にその事実が記載されているというのだが、Wallaceの収集物にオフィオコルディセプス・ユニラテラリスが寄生した二種のアリがあったと書かれているに過ぎない。
ただし、上記引用は2014年にFungi誌に掲載されたSusan Goldhorの記事『The Mycological Theatre』からの孫引きである。こちらの記事はWallaceの半生を追う記事で、記事後半にてWallaceが発見者だというHughesらの記述の裏どりを行っている。裏どりを進める中で、期待した証拠が空振りに終わった落胆や、第一発見者だった可能性はないとは言えない(記録がないだけ)という願望が見え隠れし、そして「彼は英雄ではあったが弱点もあったのだ」と記事を締めくくり、ついに証拠が見つからなかった悔しさを吐露する。記者のWallaceへの尊敬と事実を認めなければならないというジレンマに研究者としての矜持を感じさせ、とても良い。読みごたえがある。
さて、ここから本題に入る。オフィオコルディセプスとアリとの関連は1800年代から知られていたが、いつから"zombie ant"という表現が論文にも使われるようになったか報告したい。
まず、初めて"zombie ant"という表現が使われた論文は2000年に出版されたDDoS攻撃に関する論文であった。DDoS攻撃とは、複数のPCをウイルス感染させて制御下に置き、サーバに集中アクセスすることでサーバをダウンさせるというもので、制御下に置かれたPCは"zombie computer"などと呼ばれる。そのゾンビPCが、この論文ではアリの軍団になぞらえられているのだ。しかし当然、オフィオコルディセプスは関係ない。
次に、初めて学術論文で寄生されたアリをゾンビに喩えたのは2007年12月のことであった(論文は筆頭著者D. C. HenneのResearch Gateで全文閲覧可能)。しかしこの論文ではタイコバエがヒアリに寄生することを指して"Zombie fire ant"と呼んでおり、真菌類は関係ない。ちなみに、タイコバエはヒアリに卵を産み付け、ふ化した幼虫はヒアリの頭を切断し、その頭の中でさなぎになって羽化していくのだそうだ。聞くだけでおぞましい…。
そして、真菌類によるゾンビアリの登場は2年後の2009年10月まで待たなければならない。Science Scopeという学術雑誌に、「Parasite causes zombie ants to die in an ideal spot(寄生体はゾンビアリを理想的な場所で死なせる)」というタイトルの短い記事が載ったのだ(記事の一部はProQuestで閲覧可能)。ただし、「短い記事」と呼んだ通り、掲載誌自体は学術雑誌ではあるものの、掲載されたものは"Editor's Roundtable"と呼ばれる編集者コラムのようなもので、査読付き投稿論文ではなかった。
その後、"zombie ant"という表現は2011年5月2日のHarry C. Evansらによるオフィオコルディセプス・ウニラテアリスとカンポノトゥス・レオナルディの関係を報告した投稿論文まで待たねば出てこない。
脳を操る点をもってゾンビと形容していることから、ゾンビの理由が「真菌に侵されて死人のようだから」ではなく、「真菌に支配されているから」あるいは「宿主の行動を変化させるから」であることが伺える。
コラム記事と査読付き投稿論文とでは、科学雑誌においてはやはり格が異なるように思われるので、2011年のEvansらによる論文を真菌に侵されたアリを"zombie ant"と表現した初めての論文としたい。ちなみに、Wallaceが最初の発見者だと唱えたHughesはこの論文の責任著者になっているため、Hughesらのグループが"zombie ant"という表現を使い始めたと言っても良いかもしれない。
また、Hughesらのグループは2009年9月(電子版は7月)にもゾンビアリに関する論文を発表しているが、こちらでは"zombie ant"という表現は使っていない。ただしタイトルの"life of a dead ant"(死んだアリの一生)は「死んでいるのに生きている」と言いたげだ。その一方で、この論文を紹介するScientific Americanの記事では"zombie ant"という表現が使われている。
つまり、こういうことではないだろうか。2009年にHughesらがゾンビアリを発表した際には、"zombie ant"という表現を使う発想か度胸はなかった。しかし、Harmon記者が論文の紹介記事で"zombie ant"という表現を使い、それを気に入ったためにHughesらは"zombie ant"という表現を使うに至った、と。全くの想像ではあるが、発想の連鎖が研究者の性にも思えるし、キャッチーな名称をつけて耳目を惹くしたたかさが備わっててもいいじゃないかとも思う。
なお、"zombie ant"以前のゾンビアリを扱う論文には"body snatchers"という言葉が見受けられる。明らかに1956年公開のSF映画『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』に影響を受けた表現であり、ご丁寧に映画の原題である"Invasion of the Body Snatchers"をタイトルに入れた論文まで存在する。ゾンビブームを巻き起こしたロメロ監督の『ゾンビ』が1978年公開であることを考えると、文化の世代交代が感じられないだろうか。
ここで、今さらだがOphiocordyceps unilateralisやCamponotus leonardiという名前について説明しておく。まず、この世の生物はリンネ式階級分類という分類方法を参考にして学名がつけられている。その分類法を用いると生物は順に細かくなる八項目で分類される。
ドメイン(Domain)
界(Kingdom)
門(Phylum)
綱(Class)
目(Order)
科(Family)
属(Genus)
種(Species)
たとえば、人間は「真核生物ー動物界ー脊索動物門ー哺乳綱ー霊長目ーヒト科ーヒト属ーヒト(ホモ・サピエンス)」である。
ドメイン(Domain):真核生物
界(Kingdom):動物界
門(Phylum):脊索動物門
綱(Class):哺乳綱
目(Order):霊長目
科(Family):ヒト科
属(Genus):ヒト属
種(Species):ホモ・サピエンス
ただし、各項目には細分がある。たとえば、「目」には巨目、上目、大目、中目、目、亜目、下目、小目の順に細かくなる小分類が存在し、人間には上目:真主齧上目、大目:真主獣大目、目:霊長目、亜目:直鼻猿亜目、下目:真猿型下目、小目:狭鼻小目が充てられている。ただ、私のような素人には分かりにくいので、小項目は省略して記載したい。
次に、Camponotus leonardiだが、現行のアリの分類ではCamponotus leonardiという種は存在しない。2016年2月出版の論文でアリ科の分類が改訂され、Camponotus属の亜属だったColobopsisが属に昇格されたことに起因し、Camponotus leonardiはColobopsisi leonardiに変更になったのだ。
ということで、Colobopsis leonardiの分類は次のようになる。「族」は必要に応じて入ったり入らなかったりする項目である。
ドメイン(Domain):真核生物
界(Kingdom):動物界(Animalia)
門(Phylum):節足動物門(Arthropoda)
綱(Class):昆虫綱(Insecta)
目(Order):膜翅目(Hymenoptera)
科(Family):アリ科(Formicidae)
族(Tribe):カンポティーニ族(Camponotini)
属(Genus):コロボプシス属(Colobopsis)
種(Species):Colobopsis leonardi
Google scholarで2016年以降を指定し、"Camponotus leonardi"と"Colobopsis leonardi"の検索結果を比較したところ、"Camponotus leonardi"でヒットした論文・記事は、65件中(2023/12/16時点)三件を除いてすべてゾンビアリに関するものであり、残り三件はアリの生態に関するものであった。そのうち二件は"Colobopsis leonardi"と記載・併記されており、残りの一件はそのまま"Camponotus leroanrdi"と書かれていた。一方、"Colobopsis leonardi"の検索結果では、25件中(2023/12/16時点)八件のみがゾンビアリに関するもので、残りすべてがアリの生態に関するものだった。また、ゾンビアリに関するものもどちらかと言えば、アリの行動表現型の研究が多く、真菌の侵食の研究は少ない印象を受ける。
つまり、アリの生態の研究者はアリの正確な分類を論文に表記する一方、ゾンビアリの研究者のうち、真菌がアリを蝕み操る仕組みを研究する者は、過去の真菌に関する論文を参考にするためか、そのまま"Camponotus leonardi"と表記する。そして、ゾンビアリのアリの行動表現型を探求する者はどちらかと言えばアリの生態研究者に近いため、"Colobopsis leronardi"と表記できるのだろう。
ちなみに、日本語で容易にアクセス可能なゾンビアリに関する書籍である、小澤祥司著『ゾンビ・パラサイト』や成田聡子著『したたかな寄生』は、これらはDavidらの論文をベースにしているため、"Camponotus leonardi"と表記している。
次に、ゾンビアリ菌であるOphiocordyceps unilateralisの分類は、「真核生物ー菌類ー子嚢菌門ーフンタマカビ綱(Sordariomycetes) ーボタンタケ目(ニクザキン目とも。Hypocreales)ーオフィオコルディセプス科(Ophiocordycipitaceae)ー Ophiocordyceps ー Ophiocordyceps unilateralis」である。
ドメイン(Domain):真核生物
界(Kingdom):菌類(Fungi)
門(Phylum):子嚢菌門(Ascomycota)
綱(Class):フンタマカビ綱(Sordariomycetes)
目(Order):ニクザキン目(Hypocreales)
科(Family):オフィオコルディセプス科(Ophiocordycipitaceae)
属(Genus):オフィオコルディセプス属(Ophiocordyceps)
種(Species):Ophiocordyceps unilateralis
Ophiocordycepsが属、unilateralisが種を指す。もちろん、同じOphiocordyceps属に分類される近種はOphiocordyceps xxxxxxxxという名前がつけられる。以下の通り、新種が発見された場合も同様である。
種名の後ろにある"sp. nov."は「新種」という意味。sp.はspecies(種)の、nov.はnova(新しい)の略語。
また、オフィオコルディセプス属にはアリ以外にもセミや蛾、トンボにコガネムシに寄生する種も存在する。このような昆虫に寄生する菌類を昆虫寄生菌、昆虫病原菌などと呼ぶ。一方、寄生された昆虫は虫でありキノコでもあることから虫草類と呼ばれる。特に冬に虫の身体を蝕み、夏になると子実体が顔を出すような真菌類は冬虫夏草と呼ばれる。この名前は聞いたことがあるのではないだろうか。ただし、漢方薬にも使われるのは蛾の幼虫に寄生するOphiocordyceps sinensisのみであり、それ以外は冬虫夏草とは呼ばれても薬にはならないようだ。
ちなみに上述の『したたかな寄生』では冬虫夏草をCordyceps sinensisと表記しているが、農研機構によればOphiocordyceps sinensisが正確な表記である(Cordyceps sinensisと表記しているページもあるけど…)。これはカンポノトゥス・レオナルディと同様に、昔はCordyceps sinensisだったが2007年の分類改訂でOphiocordyceps sinensisになった(日本語の解説論文はこちら)。とはいえ、Cordyceps属には「冬虫夏草属」という和名がついているのだ。なのに冬虫夏草が冬虫夏草属に属していないのは罠以外の何物でもない。
ゾンビアリはゾンビ論文を探している最中によくヒットするが、ゾンビセミやゾンビトンボ、ゾンビ蛾などは全くヒットしない。アリに限定するのも寂しいというだけの理由でゾンビキノコと呼ぶことにしていたのだが、論文でよく見るように"zombie-ant fungi"(ゾンビアリ菌)に限定した方が正しいのだろうか。ゾンビセミにもなかなか強そうな響きがあるとは思うのだが、なぜ注目されないのだろうか。英語圏にはセミがあまりいないとか?
吸虫に操られるゾンビアリ
次に、寄生体が吸虫である場合について説明する。
吸虫はDicrocoelium dendriticumという肝吸虫が扱われることが多い。和名は槍型吸虫。寄生先はCamponotus属以外に、Cataglyphis属やFormica属のアリがあり、ゾンビアリ菌よりも幅広い種類のアリに寄生する特徴があるようだ。
槍型吸虫の生物分類は次の通り。
ドメイン(Domain):真核生物
界(Kingdom):動物界(Animalia)
門(Phylum):扁形動物門(Platyhelminthes)
綱(Class):吸虫綱(Trematoda)
目(Order):斜睾吸虫目(Plagiorchiida)
科(Family): 二腔吸虫科(Dicrocoeliidae)
属(Genus):Dicrocoelium
種(Species):D. dendriticum
AntWikiでも槍型吸虫に言及した記事があったので、引用しておく。
真菌も肝吸虫も、同じようにアリを植物に登らせるという点が同じであることは興味深い。脳を乗っ取って操るというよりは、高いところに登りたくなるような化学物質を分泌していると見た方がよいのではないだろうか。
肝吸虫によって操られるアリを初めてゾンビアリと呼んだのもHughesらのグループであり、2011年の論文で言及している。と言っても、オフィオコルディセプス以外を原因とするゾンビアリを紹介する文脈であり、吸虫に寄生されたアリを中心に取り上げてゾンビアリと呼んだわけではない。だが、同じ意味合いで宮中に寄生されたアリをゾンビと呼んでいることは間違いない。すなわち、「被支配者」として。
補足だが、引用文中のワラギアリはFormica属のアリの一般的な呼称で、例えばFormica polyctenaという種のアリはPandora myrmecophagaやPandora formicaeという真菌類に寄生される。パンドラ属の真菌類にもオフィオコルディセプスのような宿主を操る例が確認されているが、とり殺した後は毛皮のような真菌が全身から生えるという点で異なる。また、パンドラ属の研究事例はオフィオコルディセプスに比べて非常に少ない。
それでは槍型吸虫をメインに扱った論文で、初めて"zombie ant"の表現を使用したのは何かというと、まず2015年11月27日に承認されたMelissa A. Beckによる博士論文にこの表現が出てくる。
博士論文だけあって各章がそれぞれ査読付き論文になっているのだが、"Where are the zombies?"で始まるタイトルの第二章は論文になっていないようだ。その章とイントロにしか"zombie"の単語が出てこないのだが…。
面白いのは、彼女に続き、同大学院(the School of Graduate Studies of the University of Lethbridge)の修了生たちが"zombie ant"の表現を使って学位論文を提出することだ。たとえば、2016年4月19日に受領されたNatalia D. Phillipsによる修士論文、2017年5月9日のBradley van Paridonによる博士論文、2017年6月7日のZachariah W. Dempseyによる修士論文、2019年4月16日のSarah E. Unrauによる修士論文などだ。同じ研究室の後輩なのだろうか。
しかし、この中の誰も投稿論文で"zombie"という単語を使っていない。Paridonのみ2020年にやっと共著で"zombie-ism"という表現を使ったのみで、あまり言いたくはないが、真面目な論文で"zombie"の単語を使うのはやはり気が引けるのだろうか。
査読付き投稿論文で初めて槍型吸虫の寄生をゾンビに喩えたのは、2016年5月9日に出版されたSophie Labaudeの論文においてだった。2011年のHughesらの論文を引いたがゆえに"zombie"で検索に引っ掛かったのはそれ以前もいくつかあったのだが、本文中で"zombie ant"と言及しているのはこの論文が最初だった。
また、2018年にsteemitというSNSにて槍型吸虫の寄生をゾンビ化と呼ぶ記事がchappertron氏によって執筆された。ただし、もちろん査読付き論文ではないし、上述のような学位論文ですらない。にもかかわらずなぜ紹介したかというと、この記事は私がしているのと同じように、学術論文に出てくるゾンビをまとめていて、親近感がわいたからだ。
しかし、Hughesらが2011年に槍型吸虫の被害者を"zombie ant"と表現してから2023年12月の現在まで、槍型吸虫とアリの関係について言及した記事や論文は約669件存在し、そのうち約64件、つまり10%程度しか"zombie"という単語を使っていない。ほかの寄生生物を併せて紹介する論文もあるだろうから、実際にはもっと少なく、10%を切ると思われる。一方、オフィオコルディセプスでは、2011年以降に限れば1330件中601件で、半分近い数の論文で"zombie"という単語が使われている。
これは個人的な憶測だが、槍型吸虫の研究者たちは"zombie ant"という表現をむしろ嫌がって使いたがらないのではないだろうか。
オフィオコルディセプスやパンドラという真菌と槍型吸虫とは、寄生したアリを巣から連れ出し植物に登らせ、「死の噛みつき」で自身を固定させるという点では同じである。しかしそこから先には大きな差がある。真菌はアリをとり殺し、「いかにも死体」という見た目に仕上げる。オフィオコルディセプスはアリのうなじ辺りから細長いキノコを伸ばし、パンドラはアリの全身を菌で覆う。そのような見た目も相まって「ゾンビアリ」という表現は本当にふさわしいと思う。ゾンビと言えば、グロテスクだったりボロボロの格好をしていたり、腐ったりするものだからだ。一方、槍型吸虫のゾンビアリは、最期を誰にも看取られることもなく牛や羊の腹の中に納まる。何というか、なんとなくゾンビという単語がしっくりこない。
あとは、若手が業界に入ってこないから、年配の研究者は"zombie"と言いたくない、とか。論文の件数が倍近く差を空けられているので、業界の体力のに差があるはずだ。
アリじゃないゾンビ
ゾンビアリについては以上だが、もっと範囲を広げ、寄生による行動表現が型の変化をゾンビと呼んだ最初の論文を探した。それは、2009年1月のFrederic Libersatらの『Manipulation of Host Behavior by Parasitic Insects and Insect Parasites』(訳:寄生昆虫および昆虫寄生生物による宿主の行動の操作)論文による。
この論文ではスズメバチとゴキブリ以外にも、Cordyceps属(Ophiocordyceps属とは別)とアリ、槍型吸虫とアリなど、様々な寄生生物を網羅的に扱っている。また、上記文章からも、無抵抗で従順≒被支配者としてのゾンビのイメージが伺える。
おわりに
以上、ゾンビアリについてまとめた。ゾンビアリそのものについては上の方で紹介した小澤祥司著『ゾンビ・パラサイト』や成田聡子著『したたかな寄生』、英語だが有志による解説記事やナショナルジオグラフィックの記事の方が参考になるだろう。
だから私は、「なぜゾンビなのか?」「いつからゾンビなのか?」というゾンビに対する興味をベースにして解説記事を書いてみた。「なぜ」の方は比較的早く見つかったが、「いつから」の調査に非常に時間がかかった。しかも厳密さや情報の更新、調査の再現性を重んじたばかりにゾンビから大きく離れた分野に大きな労力を割いてしまった。文字数も2万字に届きそうだ。
引き続き「ゾンビ」という観点から解説記事を執筆し、ストックしていきたい。ただ、次は文字数は長くとも1万字におさまるようにしたい。
参考にしたサイト
本田技研工業株式会社『虫を操って世界を救う?奇妙な菌類「冬虫夏草」のお話』(子供向けの解説記事。写真も多く、わかりやすい)
ウィキペディア『冬虫夏草』(漢方の話の方が多い)
Wikipedia 『Cordyceps』(英語版ウィキペディアの冬虫夏草のページ)