「好き」でいること
友人が悩んでいた。彼女と上手くいかないようだ。
「相手が、自分にとっても俺にとっても、一緒にいないほうがいいんじゃないかって、考えているみたいなんだ。」
少し掠れた声が、耳につけたイヤホンの奥から聞こえてきて、しばらくの間、じっと耳を傾けながら返事ができないでいた。自分も昔、同じようなことがあったから。だから、何て声をかけたらいいか、言葉を選ぶことが咄嗟にできなかった。
私は、手元にあったダージリンのミルクティーをすすった。お湯を入れたばかりの紅茶は、ゴクゴク飲むにはまだ、少し熱かった。
私の経験を思えば、そのような迷いを持ったときはまさに、今の相手と一年間付き合って、「関係性の継続が、二人にとって良いものなのかを確かめるべきタイミング」だった。つまりは、平たく言っちゃえば「倦怠期」だったのだと思う。あの頃の自分も、「お互いのために」いないほうがいい、と思っていた。お互い、存在がストレスになる。だから、離れたほうが気持ちよく過ごせるんだと、そう感じた。
相手の負担になる、と感じるほど苦しいことはない。そしてそういうときは少なからず、自分も相手を負担に思ってしまっていたりする。自己嫌悪に陥って、これもこれでまた、苦しい。
結局、好きであるってどういうことなんだろう。人と人の相性って何で決まるんだろうか。ふたりはなんで一緒にいるんだろうか。
そんな言葉が堂々巡りして、自身が他に何も考えられなくなったことがあったから、イヤホンの先のきっと彼も今、似たような苦しみの中にいるんだろうな、と思った。そう思うと、迂闊に励ますことも、笑い飛ばすこともできなかった。
相手を好きであること、つまり、「愛する」ことは、究極的には相手を「信じる」ことなのだと、ドイツの哲学者であるE. フロムは著書『愛するということ』に記している。相手を相手として信じることこそが、愛なのだ、と。
わかるようでわからないその定義を、私なりに噛み砕いてみると以下になる。
1) 相手が相手であること、そしてその相手の存在があるがままであることを信じる(=相手の中の変わらない絶対的な本質の存在を信じるとともに、相手が相手でいる、ということを確かなものとして受け止める)
2) 相手をあるがままに受け入れて、その相手のあり方を受け入れる自分自身を、揺るぎないものとして信じる(=相手に対して向き合い続けるであろう自分自身の意思を信じる)
つまり、信じるのベクトルが、相手と自己の二方向に働いている状態こそが、誰かを「愛している」状態なのではないか、そう考えている。
きっとあの頃の私たちも、今の彼らも、双方のベクトルのバランスが崩れている状態なのだ。少なくとも彼女のほうは、自己のベクトルが揺らいでいるに違いない。彼の方は「価値観」「習慣」といった根本的な部分で悩んでいたため、おそらく両ベクトルがバランスを崩していた。相手に譲れない部分が彼にはあったし、彼女のありのままの行動を受け入れられない部分があった。
結局相性だからなあ。私はつぶやいた。
双方のベクトルが上手く働くのは少なくとも、
自分が「無理なく」相手が相手であること、そしてその相手の存在があるがままであることを信じられて、
自分が「無理なく」相手をあるがままに受け入れて、その相手のあり方を受け入れる自分自身を、自分が「無理なく」揺るぎないものとして信じられる
といった場合だと思う。キーワードは「無理なく」。
そして、無理かどうかというものは、理性や工夫でどうにかできるものではない。本質的な相手との相性がものをいうのだ。
人を好きでいる、って難しい。
もっというと、相手と好き同士でい続ける、ってなかなか難しい。
やっぱり最終的には、「無理なく」信じられる、好きでいる、が最強なわけで。
「二人が、『無理のない』付き合いができるかどうかをもう一度考え直したほうがいいし、きっと最後は相性だから、考えてどうにもなることじゃないんじゃないかなあ。」
見方によると、冷たい反応になってしまうけれど、私はそう言葉を紡いだ。
「そうだよな。結局、そう、相性、なんだよな。」
彼は、自身言い聞かせるようにゆっくりつぶやいた。
紅茶は、とっくに冷めていた。三口くらいで、飲み干した。茶葉のパックをずっと入れっぱなしにしていたせいで、思ったより濃い茶葉の味が口いっぱいに広がった。
「苦い」と思った。
彼の恋路が、上手くいくことを願ってやまない。
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