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無能すぎた時期と適性の話


社会に出たばかりの頃の俺は呆れるほど無能だった。

たまたま性に合うプログラマーとして働くことができたからなんとかなってはいたものの、そうでなかったら冗談抜きで路頭に迷っていたと思う。
俺が無能から脱出できたのは、自分の適性を見つけることができたからだと今は思っていて、本記事ではそのあたりのことを書いていこうと思う。



単純な作業ができない


それが苦手だと気付くまでにかなりの時間がかかってしまったのだが、俺は本当に単純な作業ができない。理解を深めた今であれば、単純な作業に必要なものを知っているので問題なくこなすことはできるのだが、単純な作業に向いている人にはそもそも「単純な作業を理解する」という過程など必要がない。やればできるから「単純な作業」なのだ。

では単純な作業に必要なものとはなんだろうかという話で、俺はそれを「目の前の作業に集中する」「要求通りにこなす」などの「余計なことを考えない力」に尽きると思っている。

当時の俺で言うと、たとえば「この通りにやってもらえたら100点満点です」という作業について、100点が取れるようになった後すぐに120点150点を取ろうと考え始めてしまうこと。これが本当に良くない。

教わり始めの頃は、何もわからないおかげでただ100点を目指しているので問題ないが、100点が取れるようになると「ありもしない次のステップ」に進もうとする。結果、余剰の20点や50点に気が取られて100点が取れなくなる。俺は数えきれないほどそういった失敗を繰り返した。

やる気は満々で、決して手を抜いて仕事を疎かにしようと思っているわけではないので、ミスをするたびに尋常じゃないくらいに凹んでいたのを覚えている。

ただ言われた通りに、言われた通りの時間で、言われた通りの方法でこなせばそれでよくて、それ以外のことは何も必要がないし、何もないほうがいい。そういった作業や業務プロセスはこの世に無数に存在する。

当時の俺はそういったことを全く理解できておらず、仕事というものを十把一絡げにして「効率化すべき」「品質を高めるべき」と意気込んで空回っていたので、本当にミスが絶えなかった。

そういった正確な指摘をしてくれる上司もどこにもおらず(普通いないと思う)、俺はただただ「こんなはずじゃない」とだけ思いながら仕事をしていた。

今では理解しているが、いわゆる末端の作業員に求められるのは「設定された成果目標を達成すること」のみである。余計なことを考えない人たちはそれが当たり前のようにできるし、そういった人たちのほうが圧倒的に多数派であると思う。

ただ、中には俺のように「常に何かを考えてしまう」という人間がいて、そういった人間が目の前の単純な作業に向けて「集中力」「注意力」を発揮することは実は難易度が高いのだ。

俺がそれに気付き、正確に認識したのは、絶えずミスを繰り返した末に嫌気がさして最初の会社を辞め、プログラマーとして別の会社で働き始めてだいぶ経ってからだった。

適性の存在



単純な作業すら満足にできなかった俺が「自分が無能である」と結論付けずに「あの仕事は向いていなかった」と思えたことは、結果的に功を奏した。ポジティブとはいいものだ。

まだ問題を正確には捉え切れていなかったが、未経験分野であるプログラマーとして働き始めると「余計なことを考える暇がない」という状態になったが故にミスが本当になくなった。

物覚えが良かったことと、頭を使う時間と手を動かす時間の比率が俺に合っていたこととが相まってあっという間に戦力レベルになったが、そうしていわゆる及第点を取れるようになった後も全く問題が起きることがなかった。

これは、前の職場では邪魔になっていた「効率化」「高品質化」などへの意識が、1か月いくらの人月商売で成果物を納品するというプログラマーにとっては常について回る課題で、むしろ必要不可欠ですらあったことに由来していたと思う。

更に言えば、常に「本当にこれでいいのか?」と疑う習慣がついたことによって、かつてはただの「正解」だと思っていた「100点のライン」は「及第点」であると考えるようになって油断しなくなったことも大きかった。

周囲の人間がそういった考え方を持つ人間ばかりだったので自分もそうなっていっただけではあるが、自分という人間が仕事という領域で成果を出すにはその思考が必要だった。そうして必要な材料が揃わないと成果は出ないし、それゆえに自信も持つことはできない。自信が持てないと次の成果も出しづらくなる。高卒で世に出た「社会ナメプ」の俺が、早い段階でそれに気付けて負のスパイラルから抜け出せたのは本当に幸運だったと思う。

当時仕事を教えてくれていた上司は俺の考え方から俺の性質を見抜いていたので、過去の俺の無能ぶりを話すと「過ぎたるは及ばざるが如し」と言ってくれて、お世辞ではあったと思うが、俺にはその言葉が本当に救いになった。

小さな会社だったこともあって上流工程に参加するのもかなり早かったが、俺の適性に合っていたので成果も常に順調だった。その頃から今に至るまでの約15年、俺は自分の仕事ぶりでストレスを感じたことが一度もない。

その時はまだざっくりとした「向いている/向いていない」でしかそれを捉えられていなかったのだが、少しずつ「適性」という概念への解像度が高くなっていくのを実感していったのはその辺りの時期だった。

人を動かす立場になって



動かすと言っても直属の部下ではなく、外注のプログラマーに仕事を投げるという立場になったときのこと。そこに来たときに俺は初めて「このポジションが向いてる」と強く実感した。

というのも、これまではインプットからアウトプットまでがほとんど自分だけで完結していたので気にならなかったのだが、人を動かすようになると他者のそれを考慮する必要が出てくる。俺はそのあたりの汲み取りや予想や調整が、誰に教わるでもなく人よりも上手くできたのだ。

仕事を振った相手が良い結果が出せていないとき、その原因を突き止めて結果が出るように促すこと。他者の理解度を上げること。チームの齟齬や不都合を見つけていち早く修正すること。起きた問題を解決する案を生んで実践すること。そういったものが全て自分の得意分野だった。

特に何の壁も感じることなく成果を得られることができていたことを当時は不思議に思わなかったが、ここは誰しもが壁を感じるフェーズと聞いて自分の適性を確信するに至った。

俺は単純に下っ端のポジションがあまりにもヘタクソなだけだった。これを理解してからは、意識を変えることで単純作業もミスなくこなせるようになった。

元々自分が持っていた、ひたすらに最善策や次善策や予防策を考えるという習慣も、采配側に回ってそれそのものが仕事になると他の点に支障をきたすようなことがなくなる。

単純作業すらできなくて無能ぶりに苦しんでいたはずの俺が、単純作業をやらなくなるごとに力を発揮できるようになって、単純作業を一切やらなくなったところでそれが全開になった。

仕事には普遍的な難易度というものがあって、いわゆる単純作業というものはそこでは当たり前にイージーな扱いになるが、根本的にそれをこなすのが向いていない人間というのは確実に存在するのだと身をもって言える。

どうにも仕事でミスが多い人、いませんか?
そのミスの数々が、自身の適性と仕事スタイルの不一致による歪みの表れである可能性はそれなりにあると思う。細心の注意を払うだとか反芻するだとか、それで解決しないのは実は必然なのかもしれない。


自分にとってどれほど重要か


たとえばプロスポーツ選手でも、自身の成績は振るわなかったがコーチとしては非常に優秀で、有名選手の育成で数々の功を挙げる人がいたりする。プレイヤーにもコーチにも、それぞれに才能や適性がある。

そういったものを自分の中に見つけることができるかどうかで、人生の約3分の1を占める労働・仕事というものに対しての手応えは変わってくるし、その手応えは人生の幸福度に当たり前のように影響してくると思う。

勿論、現金な話ではあるが、その仕事で十分すぎる報酬を得られているのなら、手応えのなさを無視することも有意な選択ではあると思う。
また、俺のように業種ではなく組織のポジションに関する適性が手応えのなさの原因なら、年を重ねるのを待てば解決することもあるだろう。

ただ、原因はよくわからないが仕事が上手くできなくて、自分が無能であるとしか思えなくて悩んでいることが致命的な問題と化している人に関して、「適性」という、解決に向けて見つめるべきファクターがあるということは伝えたい。

「どんなポジションで仕事をするか」「どんな業種に就くか」「どんな人の下で働くか」「1人でこなすか」など、様々な適性があると思うし、何が自分に向いているかを掘り下げるには時間もかかるので、そんな目に見えないものを理由に人生のルートを変える機会もそう多くは設けられない。

それでも、そこが自分にとって最重要ポイントなのかもしれないと思う人は、適性という概念を念頭に置いて、先のことを考え直してみてもいいと思う。

俺自身がそういった気付きを得られたことで大きな得をしたと思っている人間なので、同じような人は他にもきっといるはずだ。

総括


本記事はざっくりと俺の経験と意見を述べたに過ぎず、これといった正解を出したものではないが、文章の断片にでも、誰かが何かを考えるきっかけや材料が含まれていれば良いなと思う。

もうちょっとバシッと答えが出せればいいんだけどね。俺にもまだ経験が足りないということで。

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