読めないバカを気にする大バカだった話
今はそれを「感じの悪い感想&間違った解釈」だと思うようになったけど、かつて「SNSにはどうしてこんなに読解力のない人間ばかりがたくさんいるんだろう」と思って悩んでいたことがある。
Twitterでよく喋るタイプの人なら、似たようなことを思った経験があるんじゃないかな。
俺はそれについて、今はとてもシンプルな考え方をもって割り切るようにしていて、そのおかげでかなりさっぱりした気持ちでSNSを嗜めていると思う。
この快適さを誰かに共有できたらいいなと常々思っているので、今回はそんな話をしていこうと思う。
▶︎そもそも自分は「誰からも100%読み取れるように」書いているのか?
思ったことを思ったように書くのは簡単だけど、書いたことを正確に読み取ってもらうというのは簡単じゃない。
それは相手の純粋な読解力のみによらず、単純に「文章を書く」ということの巧拙にも大いに左右されることで、巧くやろうと思えば手間もかかる。ましてや、人生の片手間に適当な塩梅でやっているSNSという場所で、自分がそれをきっちりとこなしているのだろうかと考えると、そんなことはないな、と。
俺はそう思って、SNSにはどう足掻いても「あって50%程度の出来」で投稿をアウトプットしているのだと自覚するようになった。正確に読み取ってもらえるかどうかという点においては、実は元からそれくらいの「分」しかないという意味で。もちろん60%70%と、より高い精度でそれを目指したいときはそれなりの手間をかけるけど、どんなに頑張っても100%には及ばないと思う。
というより、自分がアウトプットしたものが100%の出来だなんて思うこと自体に、デメリットこそあれどメリットはないという考えが強くなったんだよね。そんなことを思ってしまうと、相手の読解力や価値観を疑うしかやることがなくなってしまうでしょ。それが自分を不自由にするってことには気付かないとダメだよね。
自分の発言が相手に正しく伝わらなかったから不快だという感情だけで人間の読解力というものを語らない、俺はそう思うようにした。
▶︎人は「読みたいように読む」し「言いたいように言う」生き物
かくいう俺自身もそうなんだけど、多くの人間は「読みたいように読む」という習性を抱えていると思う。読みたいようにというのは、読んでいるときの状態などによって捉え方が異なるということ。
たとえばだけど、忙しいときに人に話しかけられるのと、暇なときに人に話しかけられるのとでは、まぁ前者のほうが「鬱陶しい」と思いがちだよね。話しかけてきた人が「好きな人」なのか「嫌いな人」なのかでも何を思うかは変わってくると思う。起きていることは全く同じなのに。
それと似たようなことが、多寡はあれど「SNSで他者の投稿を読む」というときにも常に起きていると俺は思っていて、そんな中で「ちゃんと書けばちゃんと伝わる」なんてことを信じるのは違うかなって。前項で「100%には遠く及ばない」と言ったのは結局そういうことで、俺たちは相手がいつどんなときに読むかまでは絶対にコントロールできないんだよね。
更に、SNSとなれば「反応」や「返信」という相手からのリアクションがあるわけだけど、そこでは「読みたいように読んでから言いたいように言う」という行動が為される。100%は伝わらないアウトプットをしているのはお互い様だから、今度は自分がそれを「読みたいように読む」という流れになる。
そう考えると、たった1往復のやりとりでも、実際はコミュニケーションがかなり荒い精度で進んでいるってことがよくわかると思う。すれ違うのは当たり前なんだよね。その状態で2往復目、3往復目と進んでいくと当たり前のようにぐちゃぐちゃになるんだけど、SNSでレスバしてる人って、大体そうなってるのにやめないからみっともないんだと思う。
人間の読解力云々以前に「たまたま伝わらなかった」という可能性を俺たちSNSユーザーはちゃんと考慮するべきだと思うし、それができないと疲れちゃうよねって。
読みたいように読んでもらって、言いたいように言ってもらっておきましょ。自分もそうしてるって自覚することが大事。
▶︎悪意の判定
とはいえ、その「読みたいように読む」「言いたいように言う」という行為の流れの中で、他者に悪意をぶつけるのはNGだよね。
あえてハッキリ言うけど、それをNGだと思えていない人はただのカスなので、そもそも接触する必要が一切ないと俺は思う。たまたま伝わらなかったにしろ読解力が足りなかったにしろ、やりとりの中で相手をバカにしたり貶したりする人とのコミュニケーションは本当に時間の無駄でしかない。
先述した通り、俺はある程度のことは割り切っているけど、わかりやすく悪意のある言葉をぶつけられると、それには普通にイラっとはする。そこから先はその感情をいかに増幅させないかに切り替えるしかないんだけど、これができないとSNSは辛いと思う。
自分の言葉が伝わっていない可能性を感じたら、自分の文章を補足することまではできるけど、それに留まる。留まるしかない。だけど、喧嘩腰に来られたらもう何もしない。俺はそれを徹底してる。
そういう気持ちを増幅させることに自分自身が自分自身の行動で加担するときに限って、相手の読解力がないというワードに頼りたくなるんだよね。「伝わる」という前提を持つと、人はそうなってしまうんじゃないかな。
同時に、自分が誰かに話しかけるときに「悪意があるように思われてしまうこと」は避けたいから、言葉を選ぶことには慎重でいたいと思ってそうしてる。あくまでも人生の片手間にやってるのがSNSなのでミスることもあるかもしれないけど、気をつける分にはデメリットもないので。
▶︎変えられるのは自分の捉え方だけ
これを分かってない人は詰んでる。
「どうしてSNSにはこうも読解力がない人ばかりなのだろう」と嘆いたところで、SNSにいる人の読解力は上がらないからね。なのにずっと困り続けるんですか、と俺は思う。
もちろん人間だから、イラっとするとかモヤモヤするとかっていう、感じるものは変わらないと思う。ただまぁ、感じるだけ、だよね。パッと消化できるかどうかは全部自分にかかってる。それだけの話。
あとこれは極端なケースの話だけど、「自分の思うことを思う通りに誰しもが不思議とわかってくれる快適なSNSライフ」を送れないことが人生そのものの不幸だと思ってる人は、そもそもの自分の人生を見つめなおしたほうがいいんだろうな。
舌が味を感じなかったら美味しい料理は作れないし、足を怪我したら走れない。それと同じで、土台に理由がある人にはできないことってものがある。気の持ちようでどうにかできる場所に、まず自分が立たないといけないんじゃないかなと俺は思う。
インターネットに救われる人っていうのは、えてしてインターネットを理由に行動を起こした人であって、インターネットに入り浸ることを人生の目的にした人じゃない。
まぁとにかく、解決方法は1つしかないってことだよね。テメェ自身がなんとかなるしかない。
▶︎総括
イライラしてる暇があったらまずは良い人生をやることなんだろう。自戒。