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ウイスキーを女性に喩えるシリーズ #8(ロイヤルロッホナガー)

『人間は賢くなったかわりに、もっと大切ななにかを失った。』


僕には彼女がいない。

だけど、僕は不倫をしている。

相手は僕より10歳うえで、
小学生の息子が2人いる。

旦那もいる。

そしてもちろん、
僕たちがそういう関係にあることは、
彼らは知らない。

これは、夜に咲く月に秘密を誓った、
ふたりだけの美しい体験記である。



僕たちは、はじめからこのような関係だったわけではない。

子育てだとか、親同士の馴れ合いだとか、
彼女はそういうのがどうも苦手らしく、
僕はその愚痴をひたすら聞く役割だった。

相手が吐き出す毒を、
めのまえで僕がのんであげる。

僕は、人の愚痴を聞くのが好きだった。

元来、僕はそういう毒味の仕事を
買って出るような性分らしい。

彼女との会話は、明るい話題もあったけれど、
それは全体のほんの一部だったようにおもう。

大半は、救えないほどに暗く、闇にまみれるようなものだった。



彼女はときおり、自分の家族の話をした。

子供のことは愛しているし、
教育は大変だけれども、日々、子供から学ぶ意外な発見がある。

子供はもともと苦手だったらしいけれど、自分が産んだ子となると別のようだ。

そして、旦那のことも、等しく愛していると言っていた。
一応ね、と付け加えて。


しかし、ときに彼女は冷たい廃墟のように無機質な言葉を吐き出す。

「私、明日死んでも後悔はないの。旦那や子供たちを残して自分だけ消えたとしても、それはそれでいいとおもっている。だって、死ぬってそういうことでしょう」

僕は彼女のこういう一面を知って、なぜそういう考え方になったのだろうか、と純粋に興味をもった。

こういう価値観に、善いもわるいもない。

他人の目を配慮して変えてしまえるような言動は、そのひとが本来もっているコアな感情ではない。

背後からナイフで突き刺されようとも自分はこういうスタンスです、と言え切れるくらいに芯が通っているものこそ、そのひとの本質なのだ。



そうして彼女は、どんな感情も映さない黒い水のような目をして、自身の過去について話しはじめた。


〜・〜・〜・〜

彼女は、代々つづく老舗菓子屋の一人娘だそうだ。

裕福だったから、欲しいものはだいたい手に入る。
世間的には、甘やかされて育った、というのだろう。

でも、欲しいものが簡単に手に入ってしまうから、それらが自分にとってほんとうに大事なものなのか、わからなくなってきたらしい。

なにかを手に入れるために、必死で努力することもない。

手を伸ばせば届くくらいの、安い欲求。安い熱量。

それらがつづくと、もはや、彼女にとっての「欲しいもの」は、どれもつまらないもののようにおもえた。

「欲しい」という欲求は本来人間にとって前向きな感情であるはずなのに、彼女にとってはそれがマイナスの概念であった。


『もう、なにも欲しくない。』


そうやって彼女は、こころの温度をすこしずつ失っていった。



高校に入ってからは、わるい男たちとの付き合いが増えた。

法律も彼女を縛ることはなかった。

タバコ、アルコール、セックス。

昏い螺旋階段を降りていくように、彼女は自暴自棄になっていった。


はじめての経験は、好きな人とではなく、無理やりされたのだという。

当時、家族にはとても言えなかった。

数少ない友人のひとりにそのことを打ち明けたが、
「それは、あなたがそういうそぶりを見せたのがわるいんでしょ」
と返された。


彼女を心配してくれるひとはいなかった。

〜・〜・〜・〜


僕は、黙ってこの話を聞いていた。

話が終わると彼女の目には少し光が戻っていたが、それでもまだ、大部分は闇に支配されているようだった。


「この話をひとにするなんておもわなかったわ」

僕は言葉を返す代わりに小さく頷いた。

氷のように冷え固まった彼女のこころを溶かしてあげたいとおもったけれど、この氷は、外側からの熱では溶けないようにおもえた。


「だけど、あなたは私と同等かそれ以上に、この世の中を諦めているように見えるわよ」

「そうでしょうか。僕なんて、なにも考えずに生きていますよ」

「いや、あなたの場合、考えすぎなくらい考え込んだ後、その上で考えないようにしているんだとおもう。考えて、期待して、裏切られるのがつらいから。いっそのこと、考えることも、だれかを信じることもやめてしまおうってね」

「なるほど、、」

心当たりが、なくはなかった。

たしかに僕はだれかを信じようとする力がよわい。
なにかを失うくらいの覚悟で努力するなんてことも、いつしかできなくなってしまった臆病者だ。


「僕たちは、おたがいに孤独ですね」

「たしかにそうね。ひとは孤独だから、他人にぬくもりを求めるんだわ」

「そうすれば、自分が孤独でないと思い込める。ほんとうはわかっているのに、気づかないふりをしているんですね」

「ほら、やっぱり。そういうことを言うのは、私のような人間と同じ人種よ」

そういってから彼女は、化粧室にいってくる、と立ち上がった。



このバーは、置いているウイスキーの種類が豊富だった。

照明のしぼられた薄暗い店内でひときわ明るくスポットライトを浴び、自分が主役であることが疑いのないように堂々とボトルが立ち並んでいる。

ウイスキーはよく「時間を呑むお酒」と表現されるが、たしかに、同じ蒸留所のものであっても、熟成年数によってまったく異なる風味になる。

同じ環境、同じ素材、同じ能力であっても、時間がそれらに与える影響は想像する以上に大きい。

人間もウイスキーも、似ているとおもった。



バーテンダーに会計をお願いして、カードを渡した。

こういうのは、女性がいない間に済ませてしまうのが自分のポリシーだった。

格好良くおもわれたいとか、スマートさを出したいとか、そういう客観的な考え方ではなく、自分勝手なこだわりのようなものに近い。



おもっていたより早く、彼女が戻ってきた。

彼女が椅子に座ったあとに、ウェイターがカードのサインを求めにやってきた。

「あら、ここは私が出すのに」

「僕もいちおう男ですし、ここは出させてください」

紙にペンをすべらせながら、カードと領収書を引き抜いた。

「まだ若いのに、こういうことはどこで覚えるのかしら。じゃあ、次の場所は私が出すわね」

そういって僕たちは席を立ち、店を出ていった。



「すこし遠いからタクシーで行きましょう」

そういって、彼女はタクシーを止めた。


「どこにいくんですか?」

「うーん、それは内緒。でも、さっきのようなお洒落なバーではない」

バーの化粧室から帰ってきたあたりから、彼女の香水の匂いがつよくなっていた。
首筋は、淡いピンクに染まっている。


「今夜はけっこうな量、呑んでましたね。酔ってないですか」

「ちょっとクラクラするかも。でも今日はそういう日なの」

そう話しているうちに、タクシーは目的の場所に着いた。

夜はもう深く、真円に近い月が目隠しするように雲に覆われていた。



元麻布は、すこし歩けば六本木や麻布十番など賑やかな街につづいているのだが、このあたりは閑静な高級住宅街となっていて、落ち着いた雰囲気の一帯である。


「ここは、ホテルですか?」

「よくわかったわね。完全紹介性だから一般の客は入れないんだけど、旦那の知り合いがオーナーをやっていて、一度だけ来たことがあるの」

闇に溶け込むような黒い外観で、監獄のように夜に沈んでいる。

しかし、建物の中に入ると印象は一転し、白い大理石の床だった。


「お願いがある。さっきのバーで話をしていて、突如決めたことなんだけど、」

暗い窓に灯がともったようだった。
彼女の大きな黒目が、値踏みする表情に冴えている。



「もしいやだったら、断ってくれて構わない。帰るためのタクシー代も渡します。今夜、私と寝てくれないかしら」




断る理由はなかった。

僕は、彼女の痛みをわかってあげたかったし、誰にも見せない彼女の深淵を知りたいとおもっていた。

「わかりました」

と一言だけ応えて、ふたりエレベーターに乗りこんだ。



音もなく、エレベーターが地上を離れていく。

不思議なくらいに僕は平然とした気分だった。

しかし、彼女のほうは、火照るように体温が上がっているようだった。


香水は、トップノートにはじまり、時間の経過にともなって徐々に重い香りへと移っていく。

そしてそれは、体温が高いひとほど、その推移が早い。

彼女の汗の匂いと香水が混ざって、狭いエレベーターのなかを満たしていた。

そのときの彼女が急にかわいらしくおもえて、僕は後ろから彼女を抱きしめた。

彼女の心拍数に引っ張られるように、僕の心臓のペースも上がっていった。



エレベーターが開くと、僕たちはどちらからともなく手を繋いで歩き出した。

おたがいに、手が汗ばんでいる。

ハンドクリームと汗のぬるぬるが混ざり合って、アメーバの新種が生まれるようだった。

部屋が近くなるほどに、歩調が早まっていく。


彼女が部屋のカードキーを差し込んでいるとき、僕は彼女の頰にキスをした。

ドアがひらく。

僕たちは部屋のなかへ入り、まだ扉が閉まりきらないうちに、深い口づけを交わしていた。


身体を寄せ合いながら、もたれるようにして、
ベッドに近づいていく。

さっきまで硬い大理石を踏んでいた靴が、今度はやわらかい絨毯に沈む。

ベッドに辿り着いた頃には、ふたりはすべての服を脱ぎ捨てていた。

身体に触れるシーツと彼女のなめらかな肌は、温度帯のちがうクリームのようだった。

片方はひんやりとしていて、もう片方は溶けたロウのように熱い。

ふたりは、なるべく広い範囲で肌が接触するよう、おたがい探り合うように身体を動かして密着しあった。

熱を帯びた肌同士が密着すると、それらの境界線は体液に溶けてしまい、ふたりでひとつの輪郭を共有しているようである。

そうして僕たちは、いのちの温度を上げていった。


・・・・・・


いままで経験した中で、もっとも本能的で、野生的なセックスだった。

そこには喜怒哀楽や羞恥心、猜疑心のような感情が存在せず、文字や言葉など、人間同士のためにつくられた文明の概念さえもない。

ただ、そこで無数に生まれてくる感触や快感を、限りなくピュアな発見として脳が処理していた。



あとから思い返すと、なんと自由で開放的な時間だったのだろう、とおもう。



身をもってこのような世界を経験したのは、僕の人生においてとても大きな出来事だった。

それまでの固定観念とか、えらく窮屈な「社会」というシステムだとか、長い歴史とともに蓄積されてきた偉大なる文化さえも、すべて吹き飛ばしてしまうようなインパクトがある。


こんなにも広く、深く、宇宙のように果てしない領域に、たったふたりの人間が身体を寄せ合うだけで到達することができるのだ。


生きてるって、おもしろいなとおもった。


僕は一生、この日の出来事を忘れないだろう。


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しがらみを溶かして、失った過去を取り戻す。
ロイヤルロッホナガー セレクテッドリザーブ。

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