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矛盾の行方
横井庄一(1915年3月31日-1997年9月22日)と丸山眞男(1914年3月22日-1996年8月15日)。2人が同時代を生きたことは知らなかった。2人には従軍経験があり、横井庄一はサイパンで四半世紀以上結果的に1人残されて帝国陸軍軍人として生きた。帰国にあたってはその間の行為に恩赦が出される経過を経て日本に帰国できたようである。恩赦を与えたのはマルコス大統領だったようだ。
堀川惠子の著作「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」で、丸山眞男が2度目の招集で陸軍船舶司令部に配属されて、1945年8月6日にヒロシマでウラン型原子爆弾の投下された瞬間を経験していたことを初めて知った。丸山は敗戦と共に翌月には除隊となって、1946年2月14日に東京帝国大学憲法研究委員会の委員となっている。
Wikipediaによれば、丸山眞男が所属した憲法研究委員会の会長を務めた宮沢義俊は、委員会で丸山が提示した「八月革命説」を、丸山の承諾を得て「八月革命と国民主権主義」として論文発表している。(1946年5月号「世界文化」)
同じく、Wikipediaによると、「古関彰一(日本の法学者)によれば、1946年に宮澤が当初の自説から大日本帝国憲法の根本的な改正の立場に転じたのは、マッカーサー草案の予想外の内容を知った宮澤が当時東京帝国大学の総長であった南原繁にそれを知らせ、南原が東京帝国大学という組織として、GHQの方針に素早く適応して、組織の政治的立場を確保する行動をとったことに伴うものだったとされる」とある。
宮沢義俊は、美濃部達吉の後継者であり、1935年2月に始まる天皇機関説事件のにおいても、批判の的の1人であったようで、当時の状況において美濃部の様に積極的な発言はしていなかった…と聞く。1945年10月発足した幣原内閣の下で、松本蒸治国務大臣を委員長とした憲法問題調査委員会が、10月25日に設置され、宮沢義俊はそこで松本試案と呼ばれる大日本帝国憲法の改正案にも携わったとの話もある。しかし、それは昭和天皇の人間宣言なる官報による詔勅が出された後に、昭和天皇に上奏されたが、新憲法の根幹とはならなかった。GHQにも2月8日に報告されたようだが、その1週間前に毎日新聞に「憲法問題調査委員会試案」なるスクープ記事が掲載され、それを受けた世論の反応をGHQは分析し、2月3日にマッカーサーはGHQ民政局長に憲法改正案の作成を指示し、日本政府による改正案に見切りをつけた…とされている。
このGHQ改正案が完成したのが2月12日と伝えられていて、翌日、松本蒸治と吉田茂の両大臣にそれは手交わされ、真偽の程は定かではないが宮沢義俊もそれについて間もなくそれに触れ、その後南原繁に伝えられ、2月14日に東京帝国大学憲法研究委員会が設置されることになり、宮沢義俊が委員長に就任する経過があったと想像される。
横井庄一が日本に帰国するのはそれから26年後のことになり、宮沢義俊が丸山の了解を得て唱えた八月革命は、「1945年8月のポツダム宣言受諾により、日本において革命が起こり、主権の所在が天皇から国民に移行し、日本国憲法は新たに主権者となって憲法制定権力が移行した国民が制定したと考える学説」を指すようだが、ヒロシマで原子爆弾の投下を経験した丸山眞男からこの元になる発想が語られた…というのは不思議と腑に落ちるものがある。しかし、三四半世紀経て、閣議決定で悲劇的な元総理大臣経験者が死亡する銃撃事件を受けて、法的根拠もなく「国葬」が決定される状況に遭遇すると、八月革命なるものが取ってつけたような学説であったようにも思える。
横井庄一は、敗戦を知らずに戦後四半世紀余りを経て1972年2月2日帰国した。彼がどの様に受け止めてたかは知らないが、帰国して2週間余り経った2月19日から あさま山荘事件 が起きている。「三島由紀夫」を名乗った小説家は既に1年余り前に他界しており、後を追うように日本初のノーベル文学賞受賞者の川端康成が4月16日に命を絶っている。矛盾の上に、国民主権や平和主義、基本的人権の尊重が新憲法で担保されることになった…が、新憲法施行から四半世紀を経て沖縄が返還され、7月7日に田中角栄内閣が発足し、9月29日田中角栄と周恩来が共同宣言に署名して「日中国交正常化」とされる政治イベントが台湾を脇に置き起きた。
横井庄一も、丸山眞男もそれから四半世紀余りを生きたが、阪神淡路大震災を経て、野党に政権を譲った自民党が再び政権を担い、橋本龍太郎内閣が普天間基地の返還を駐日大使と合意してから間もなく他界したことになるようだ。矛盾の上に新憲法も、天皇や皇室も存続し、戦勝国の英国女王として生涯を送ったエリザベス二世の国葬は明日執り行われる。日本の主権者は、政府が決めた「国葬」に反対する者が多数を占める。さて、これからどうなることやら…。