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Ambivalentな主権者の私

 小説家大江健三郎(以下、大江)が亡くなった。いつその訃報が届いても不思議はなかったのかもしれないが、2023年は著名人の訃報に触れる機会が多い気がするのは気のせいではないのだろう。恐らく、亡くなっているのは著名人ばかりではないのも間違いない。

 大江は「日本人」としては2人目となるノーベル文学賞の受賞者となり、1994年12月当時、ストックホルムでのスピーチで「あいまいな日本の私」と題された講演を行った。因みにこの年は1970年に国内の高齢者(65歳以上)が人口の7%を占めるようになってから約四半世紀を経て倍の14%を超えた年でもあった。この大江のスピーチの表題の形式は、後に様々にパロディとして使われてきたと思う。例えば、筆者が思い出すのは美術家の森村泰昌の個展「エゴオブスクラ東京2020―さまよえるニッポンの私」である。

 上述の文学賞受賞からまもなく、大江は文化勲章の選出は辞退した。「戦後民主主義」との言葉を当時使っていたとも聞くが、正確なことは確かめられていないのでここで明確に記すことは避けておきたい。それにしても文化勲章の辞退は、他にも例はあったのかもしれないが、数は少ないと思うし、他国からの文学賞は受賞したけれど、母国の文化勲章は辞退したことは大江の一つの姿に思える。一作家の意地といったところだったのだろう。他にも、フランスの核実験に抗議して先の文学賞受賞後に、フランスで計画されていた自らの著作を広く紹介するイベントにも参加しなかったことがあったと思う。1人の作家としては貴重な機会を核実験に抗議して自ら放棄したのだろう。

 大江の「あいまいな日本の私」との講演に触れて、文芸評論家の柄谷行人(以下、柄谷)は、"ambiguous" の単語に言及して次のことを述べていた。

 この講演がわかりにくいのは、「あいまいな」という言葉自体があいまいであるからだ。「あいまいな」は、英語でいうと、vagueという意味とambiguous(両義的)という意味になる。しかし、この二つを区別することは難しい。両義的とは二つの意味を持つという意味であるから、結局、あいまいという意味になる。だから、私はむしろ、ambiguousに対しては、ambivalent(両価的)という言葉を対置するほうがよいと思った。両価的は、両義的と似ているように見えるが、実は、反対語である。たとえば、両価的な判断においては、日本は美しいか、美しくないかのどちらかである。川端は「美しい日本」を選び、「美しくない日本」を排除する。したがって、彼の姿勢は「両価的」であって、「両義的」ではない。別の観点からいえば、「美しい日本」とは、倫理的・政治的な次元をカッコに入れることで成り立つ。しかし、それによって小説が存在するわけではない。逆に、それは小説の終わりをもたらす。
 それに対して、大江氏のいう「あいまいな日本の私」とは、「美しい日本」とともに「美しくない日本」を事実性として認める「両義的」な姿勢を意味する。これは大江氏のスタンスの表明であると同時に、いわば、「小説」の存在理由にかかわることだ。そのことは、この講演の最後に、彼の師であった、西洋ルネサンス文学と思想の研究者、渡辺一夫のユマニスムに立脚したいという言葉に示されている。「小説」は、ラブレーに代表されるような、ルネサンス文学に、いいかえれば、両義的なものをすべて包摂するような姿勢に始まるといってよい。(後略)
(「大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人」(講談社)序文「大江健三郎氏と私」より)

 手元に原著がないので確認できていないが、上記に続け柄谷は以下述べていたと思う。

 川端が「美しい日本」といったのに対して、大江氏が「あいまいな日本」といったとき、何を意味していたのか。一口でいうと、それは、日本が「美しい日本」であると同時に、「美しくない日本」であるということ、そして、自分はそのいずれもふくむ日本にあることを認めることから始める、という意味である。
       (前掲書 序文「大江健三郎氏と私」)

 大江の著作として広く知られる「ヒロシマ・ノート」に触れると、1963年頃に大江が初めて被爆地広島を訪れ、当時から「戦後民主主義」という言葉を使用していたことが理解できる。1994年12月に日本からストックホルムに赴き、先の講演を行った大江にとっては、「ヒロシマ・ノート」のもとになる旅で被爆地を訪ねた頃から、1人の「戦後」の文学者として、その拠り所に変わるものは何もなかったのだろう。筆者の知る限り、その大江の「戦後民主主義」を痛烈に批判したのは文芸評論家の加藤典洋だった。大江が文化勲章を辞退するに当たって、引き合いに出した大岡昇平が1972年に日本芸術院会員の辞退の理由と、大江の文化勲章辞退の理由は質的に異なっていたことを冷静に指摘していた。

 ところで、1963年は大江の第一子として誕生した光が生まれた頃でもある。筆者が大江文学についてはほとんど触れてこなかったため、その価値を評価はできないのだが、「個人的な体験」が記されるのはそれ以降のことだろうと思う。恐らくほぼ同時に、1人の小説家の経験として「ヒロシマ・ノート」と「個人的な体験」を記すに至る経験はなされ、それらの著作が世に現れたのだと思う。一方で、ほぼ同世代の西尾幹二(新しい教科書をつくる会に携わったドイツ文学者)は、大江とはかなり距離のあるものがあったと想像される。大江のノーベル文学賞受賞から30年が経過しようとしているが、2022年に日本の高齢化率は29%を超え、大江の文学賞受賞時から更にそれは倍になった。

 最初に上述の文学賞受賞が囁かれていた「三島由紀夫」は、1925年1月の生まれで大江とは約10歳年が離れていた。この年齢差はこじつけになるかもしれないが、近衛文麿と裕仁の年齢差とほぼ同じになる。そのことにはこれまで私は気がつかなかった。大江が四国の森に囲まれた村に生まれた頃、当時の貴族院では勅撰議員であり、憲法学者でもあった美濃部達吉の天皇機関説が、大江の生まれた約20日後に貴族院の菊池武夫議員によって批判されていた。それから更に約1年後に、陸軍青年将校等の軍事蜂起2.26事件が起きた。

 「三島由紀夫」を名乗った平岡公威は、敗戦後1946年2月14日南原繁の発案で設けられたと伝わる憲法憲法研究委員会が旧帝国大学法学部に誕生した頃に帝大法学部の学生だった。大江が初期の小説「飼育」で知られる様になったのはそれから12年後、「戦後」戌年が再び巡ってきた頃だった。小説家三島由紀夫は既に「金閣寺」を1950年7月2日に起きた火災事件を下にして上梓していた。小説家として、大江と三島由紀夫がいわゆる文壇で同時期に活動していたのは12年程に過ぎないから、干支が1周するくらいの年月に過ぎなかった訳である。それから更に干支が2周する年月を経て、川端康成に次いで先の文学賞の受賞者となった。

 これを記す間にある新聞の社説に目を通すと、そこでも大江健三郎の死に寄せて記され、「ヒロシマ・ノート」に次いで、返還前の沖縄を訪れて「沖縄ノート」が記され、先の文学賞受賞後には「あいまいな日本の私」の講演を「芸術の治癒力で人類全体の癒やしと和解にどのように貢献できるか探りたい」と締めくくっていたことが紹介されていた。

 大江の文化勲章辞退に際して批判した加藤典洋は生前最後に出版された図書に次のことを記している。

 私が、アメリカの日本におけるプレゼンスの異様さに強い印象を受けたのは、いまから36年前、1982年2月、三年数ヶ月のカナダ滞在をへて日本に帰ってきたときのことです。そのとき私はなぜ、いつから、日本の社会は対米従属という現実と正面から向きあいたくない心性を育てることになったのか、という問いと向かいあいました(『アメリカの影』)。また、日本の護憲派、改憲派双方の相対立するあり方に、両者の抱える問題を一望のもとに見はるかす場所を作り出すことの必要性を感じ、そこから出てくる課題について考えたのは、95年1月のことです。最終的に、そこで私は、問題克服の第一歩として憲法9条の選び直しの国民投票が必要ではないかと書きました(『敗戦後論』)。(『9条の戦後史』499〜500頁)

 加藤典洋は「戦後」の団塊の世代に当たり、大江よりも干支で一回りほど若かった。憲法9条ばかりではないとしても、大江や柄谷とは「日本国憲法」を巡っては立ち位置が少し異なっていた。それはどちらが正しく、どちらが間違っているということではないのだと思う。政治学者の丸山眞男は、終戦間近の1945年3月に2度目の招集を受け、陸軍船舶司令部に当初二等兵として配属され、広島で原爆の投下を経験していた。昨年他界した三宅一生も広島にて同じ原爆体験をしていた。それから約半年後に、丸山眞男は旧帝大に誕生した憲法研究委員会の委員を務めた。後に「8月革命」として、日本国憲法を制定したのは国民であるとの説が憲法学上成立するのは、丸山眞男の憲法研究委員会における発言がもとになったと伝わっている。

 ポツダム宣言受諾から約2ヶ月後の10月10日、幣原内閣は婦人参政権を閣議決定し、その19年後に東京オリンピックは開催される。最後の聖火ランナーは広島の原爆投下の日に生を受けた19歳の青年坂井義則さんであった。詳細に目を通していないから、間違ったことを記すかもしれないが、「ヒロシマ・ノート」は最初の東京オリンピック後に出版され、それについては何も記されてはいないようだった。まるでそのイベントがなかったかのようでさえあった。大江が日本を代表する作家として偉大なのはそうしたところなのだろうと思う。少なくとも、普通の人ではない。

 「広島出身の…」総理大臣が実は1923年にも内閣を担っていた。広島出身の総理大臣加藤友三郎は在職中に他界し、外務大臣を務めていた内田康哉が、原敬の暗殺時に続いて内閣総理大臣を臨時で兼任していた時に関東大震災は発生する。直ぐに薩摩出身の山本権兵衛が総理大臣経験者だったからなのか、第二内閣を震災発生後に組閣するが、その年の瀬には虎ノ門事件が起き、摂政宮裕仁親王の命が狙われ、責任をとって間も無く第二次山本権兵衛内閣も退陣を余儀なくされる。さて、それから一世紀が経過しようとしている。戦争被爆国の被爆地出身の内閣総理は、国連で既に発行も実現した核兵器禁止条約の批准を避け、核兵器保有国と非保有国との現実的な橋渡しを唱える。この日本政府の態度は一貫して大江とは異なっているのは明瞭である。

 ambivalentな日本政府を結果的に支持している主権者の私は、この現実とどのように対峙すべきなのだろうか。加藤典洋が晩年述べたような、憲法9条の選び直しは、米国追従に終始する自公政権の下では、ちょっと危険な気もするが、小沢一郎も言及したような国連中心の安全保障体制へと、国家体制をパラダイムシフトする時期を迎えているとも思う。しかし、その政治選択はなかなか実現されない。敗戦国の再建のために「牧師として生きる決心をした」と語っていた加藤常昭の預言のような呟きに触れると、日本国憲法から「象徴天皇」を削除することも、少なくとも国民的に議論される必要があると思う。

 筆者の言葉で表現すれば、象徴天皇を憲法改正によって日本国民に統合することは、日本列島の民として、あるいは「戦後百年」の政治課題として、主権者に問われているのだろうと思う。終わりに、小説家大江健三郎さんの訃報に接して、衷心よりご冥福をお祈りします。お疲れ様でした。ありがとうございました。

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