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イスラエル考

 イスラエル🇮🇱のことをよく知らなかった…。2023年10月7日のハマースによるイスラエルの奇襲テロ攻撃以降のことが一つの考える契機に私の場合はなった。これまでも地中海に接する死海を含む旧約聖書に「カナン」と呼ばれる地域で、ユダヤ人とアラブ人の間に、21世紀に入ってからは「ガザ」と呼ばれるパレスチナの自治地区でイスラエルによる壊滅的な軍事攻撃が繰り返されてきていたことは知ってはいた…。

 世界史で、20世紀初頭のサイクス・ピコ条約、フサイン・マクマホン協定、バルフォア宣言と矛盾する約束が国家間などで結ばれて今日に至ることをさらりと教わった気がするものの、何やらごちゃごちゃしてよくわからない…常軌を逸する争いが治らないことには理解が及ばない…そんなところがあったのかもしれない…と反省はある。何の足しにもならないとは思うが、改めて主にWikipediaを通して知ることが多かったけれど、他にも立山良司の著作もわかりやすい図書に思えたが、その全てに目を通せているわけでもないのに現段階で記せることを記しておくことにする。

 不十分なものに終わると思うけれど、とりあえず、写真の3人の人物について記しておくとする。1925年4月1日、エルサレムにヘブライ大学のキャンパスが開校されたという。イスラエルの北東に位置するMount Scoupsにつくられ、それを記念して撮られた一枚の様である。英国外相を務めたArthur James Balfour, 1st Earl of Balfour(1848.7.25ー1930.3.19)、つまりバルフォア宣言のバルフォアが真ん中に立つ人物である。バルフォアの右隣、少し右斜を向いている人物はEdmund Henry Hynman Allenby(1861.4.23ー1939.5.14)大英帝国軍人、左隣はHerbert Louis Samuel, 1st Viscount Samuel(1870.11.6ー1963.2.5)イギリス委任統治領パレスチナの初代高等弁務官を務めた人物になる。

 Katowiceと呼ばれるポーランド南部の都市がある様で、Wikipediaによると1884年にイスラエルにヘブライ人の大学を設立することが、その地で持たれた会議において提案されたようである。ユダヤ教の研究者市川裕によれば、ポーランドはユダヤ人ないしはユダヤ教の広がり検討するときに重要であるとのことで、東欧ポーランドに移り住んだユダヤ人の暮らしは例えれば「屋根の上のヴァイオリン弾き」の世界とのことだった。イスラエルにヘブライ人の大学を設立する提案がなされた会議がポーランドで開かれたのは、ひょっとすると、そのようなこととも関係あったのかもしれないが、ナチスドイツの誕生後にホロコーストの対象とされる歴史も経験することになったようである。

 1921年に渡米したAlbert Einsteinアルベルト・アインシュタイン(1879.3.14ー1955.4.18)は、このヘブライ人の大学設立のため資金の援助を求める講演に協力してもいた…と、ある。Albert Einsteinはこの年、保留され受賞は翌年伝えられることになったそうだが、ノーベル物理学賞を受賞している。エルサレムに大学が開学するのはそれから4年後になる。最初の学長Chaim Azriel Weizmannハイム・アズリエル・ワイツマン(1874.11.27ー1952.11.9)は、Balfourにロスチャイルド卿に書簡を書くように働きかけたシオニストで、のちに建国されるイスラエルの初代大統領も務めた。その死後、Albert Einsteinに二代目の大統領就任が要請されたようだが、断っている。

 1894年10月15日に陸軍参謀本部の大尉であつたAlfred Dreyfus(1859.10.9ー1935.7.12)が反逆罪で逮捕され、ユダヤ人である故にスパイ容疑の冤罪の被害に遭ったドレフェス事件としてこのことは知られている。Dreyfusはアルザス地方のMulhouseと呼ばれる地方に織物業を家業とした家庭に生まれ、1871年に父親がフランス国籍を取得していた。事件が起きたのはその父親の死の翌年のことだったようだ。1906年7月12日に最終的にはスパイ容疑の冤罪について免責を受けている。Theodor Herzl(1860.5.2ー1904.7.3)がこのドレフェス事件にショックを受け、ウィーンで「ユダヤ人国家」との書物を1896年に出版し、その翌年にスイスのバーゼルで最初のシオニスト会議が開催されている。イスラエル建国はその約半世紀後になる。

 偶然かもしれないがHerzlが他界した年にJulius Robert Oppenheimer(1904.4.22ー1967.2.18)がニューヨークで生まれている。Albert Einsteinの長男にあたるHans Albert Einstein(1904.5.14ー1973.7.26)もこの年に生まれている。カリフォルニア大学バークレー校の水理学の教授を長く務めたらしい。調べるうちにわかってきたのは、1942年頃から動き出したマンハッタン計画に携わったRichard Phillips Feynman(1918.5.11ー1988.2.15)も、小説「ライ麦畑でつかまえて」で知られるJerome David Salinger(1919.1.1ー2010.1.27)も、ニューヨークのユダヤ人家庭に生まれていた。ユダヤ教の信徒やその信者を親に持つユダヤ人には、米国に渡米する人々があるようだが、これらの事実はその裏付けになるのかもしれない。Feynmanは子どもの頃ユダヤ教の教会学校に通い、ヘブライ語まで学んでいたそうである。Salingerの母親はカトリック教徒であったことから、名前をユダヤ風の名前に改名していたという。それは20世紀前半のニューヨークのユダヤ人家庭に見られた日常的慣習だったのだろうか。

 立山良司(1947〜国際政治学者)の著作ではEliezer Yitzhak Perelman 改名し、’Eli‘ezer bēn Yәhūdhāh(1858.1.7ー1922.12.16)を名乗った人物が紹介されていた。ユダヤ人社会の中で日常語としてヘブライ語を復活させた人物で、bēn Yәhūdhāhには「ユダの子」との意味があるようだ。Wikipediaには、幼い頃にヘブライ語で記された「ロビンソン・クルーソー」を読んで衝撃を覚えたことが記載されていた。bēn Yәhūdhāhは現在ベラルーシ領内にあたる旧ロシア帝国の町に生まれ、両親はユダヤ教の初等教育施設を営んでいたことも紹介されている。彼はパリのソルボンヌ大学で医学を学んでいたが、そこでヘブライ語の授業が行われており、やがて大学を辞めヘブライ語の研究に専念するようになった。1881年に大学を辞めてパレスチナに渡った。Albert Einstein(1879.3.14ー1955.4.18)が生まれまもない頃のことで、Einsteinの家族はミュンヘンに移り住んだ頃だった。

   Albert EinsteinはHermann Einstein(1947.8.30〜1902.10.10)を父に、
Pauline Koch(1858.2.8〜1920.2.20)を母に持ち、Königreich Württembergヴュルテンベルク王国(1805〜1918)内のUlmに生まれている。Albert Einsteinの家族は、父Hermannの弟の主導でMünchenミュンヘンに移り住み、そこで兄弟でEinstein&Cieという電気工学の会社を設立したという。Albertの妹Maria 'Maja' Einstein(1881.11.18〜1951.6.25)はその頃ミュンヘンで生まれ、アメリカのState of New JerseyのPrincetonニュージャージープリンストンで亡くなっている。兄よりも数年早く他界していた。

 погромロシア語で「破壊」や「破滅」を意味する言葉があることを最近知った。カタカナ表記するとポグロムとなる。回り道になるが16世紀半ばポーランド・リトアニア共和国が誕生したが、18世紀にこの国の領土が3度にわたって周囲の3つの大国に奪われ、最終的に完全に領土を失って滅亡したを意味する「ポーランド分割」と呼ばれる歴史用語がある。「ポーランド」という国家は18世紀に一度消滅していた。更にウィーン会議(1814-1815)において4度目の分割も行われたようだ。そしてこの地に暮らしていたユダヤ人はロシア帝国に吸収されることになるのだが、最初のポグロムが起きたのは1821年のオデッサ、現在のウクライナでのことだったようである。米国ホロコーストミュージアムにはその様に紹介している。

 その後、ロシア皇帝Александр IIアレクサンドル2世(在位:1855.3.2-1881.3.13)が暗殺されると、その後の数年間にロシア帝国内のユダヤ人に対する迫害が激しくなってポグロムの言葉も定着することになった経緯があったようだ…。ユダヤ教の研究者市川裕によると、ユダヤ人を大きく分けると、米国に渡る人々、ロシアに留まって革命を目指す人々、そして特にロシアからイスラエルに移住する人々があったという。bēn Yәhūdhāhはその1人だったのかもしれない。

 恐らく大航海時代以降になるのだろうが、スペインやオランダの欧州から渡米し、ニューアムステルダム、現在のニューヨークなどに渡米したユダヤ人が第一次世界大戦前、1914年頃までに200万人に上ったといわれているそうだ。小説家Salinger、物理学者OppenheimerやFeynmanは、そのようなユダヤ人の1人だったのかもしれない。因みにアレクサンドル2世の暗殺が起きた年に、Albertの妹Maria 'Maja' Einsteinはミュンヘンに生まれ、bēn Yәhūdhāhはソルボンヌ大学を離れパレスチナに渡り、1894年にフランスでドレフェス事件が起きる前からヘブライ語の復活に尽力し始めていた…。Albertは1932年頃の3度目の渡米後、1913年頃から暮らしベルリンを離れ、ドイツにはナチス政権が誕生したころからドイツに戻ることなく1935年に永住権を、1940年に米国国籍を取得した。

 高校の頃、世界史を選択してはいたがさっぱりよくわからなかった。ヴュルテンベルク王国(1805〜1918)はStuttgartシュトゥットガルトを首都にした王国で、この都市はguerra de sucesión españolaスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国で起きた戦争(1701〜1714)の最中1707年にLouis XIV(1638.9.5〜1715.9.1)ルイ14世のフランス軍に占領された。現在、シュトゥットガルト(人口626,275人、2021年12月31日現在)はBundesrepublik Deutschlandドイツ連邦共和国の南部に位置するLand Baden-Württembergバーデン=ヴュルテンベルク州の州都である。ドイツ連邦共和国は16の州からなり、バーデン=ヴュルテンベルク州はその一つになる。因みにAlbertの生まれたUlmはこの州の南に位置する人口約12万人の都市で、街のランドマークにウルム大聖堂があることがWikipediaでは紹介されていた。この教会はEvangelische Landeskirche in Württembergヴュルテンベルク福音主義州教会に所属するルター派の教会とのことである。つまり、カトリック教会ではない。2019年12月31日現在、教会員の数は1,957,088人とも紹介されていた。

 ヴュルテンベルク王国(1805〜1918)はFriedrich I. Wilhelm Karl von Württembergフリードリヒ1世(1754.11.6- 1816.10.30)を最初の国王とした。「ヴュルテンベルク」という地域名が何に由来するのかははっきりしないようである。ヴュルテンベルクに最初に住んだことが判明している民族集団はCelt, Kelt ケルト族とされ、その次がSuebiスエビ族であったいうが、スエビ族はCornelius Tacitusタキトゥス(55年頃 - 120年頃)の「ゲルマニア」にゲルマン系に属する民族として描かれているとのことだが、ケルト系の説もあって民族系統は不明らしい。古代ローマ(B.C753-476)においてGermaniaゲルマニアと呼ばれた土地に住み、バルト海南部を故地としたという。イスラエルからどんどん離れてしまった…。

 紀元前からゲルマニアに暮らしたとされるスエビ族は、ローマではスエビの海Mare Suebicumとバルト海東南海域を呼んでいたほどで、民族移動時代(300ー700頃)の前はゲルマニアに住む民族で最強の民族であったと考えられているようだ。スエビ族はローマ領やガリア人の暮らしたGallia、Gaule(仏)と呼ばれる土地、現在のフランスに当たる辺りに侵略を繰り返していたという。帝政期に入ったローマ帝国(B.C.27ー1453)ではローマ領の境界線を示すものとしてLimesリメスと呼ばれる防砦システムが築かれ、それに備える体制が採られた。

 ローマ帝国はAugustusアウグストゥス(B.C.63.9.23ー14.8.19)を初代皇帝として始まる。そもそもアウグストゥスはRes Publica Romana共和政ローマ(B.C.509-B.C.27)の政務官であった。それ以前はRegnum Romanumローマ王国(B.C.753.4.21-B.C.509)であり、やはり王政であった。アウグストゥスは言わずと知れたGaius Iulius Caesar、Juliusガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100- B.C.44.3.15)の、姪の息子であるとされる。カエサルは父も同名(B.C.130頃ーB.C.85)の共和政ローマの政務官だったとされる。ここでは父カエサルと子カエサルと便宜的に区別しよう。因みに、父カエサルの父も、つまり便宜的に祖父カエサルと呼ぶことにすると、同名を名乗っていたようで、祖父から続けて3代がガイウス・ユリウス・カエサルと名乗っていたらしい…どこまで本当かわからないが…。

 父カエサルはGaius Mariusガイウス・マリウス(B.C.157年- B.C.86.1.13)の義兄であり、妻Aureliaアウレリア(B.C.120頃-B.C.54.7.31)はLucius Aurelius Cottaルキウス・アウレリウス・コッタ(B.C.119執政官を務めた生没年不詳)の娘アウレリア・コッタであったとされる。Gaius Mariusガイウス・マリウス(B.C.157年- B.C.86.1.13)の息子も同名で、息子をMarius Minor小マリウス(B.C.109/108-B.C.82)、父をMarius Major大マリウスと呼ぶようだ。小マリウスはLucius Cornelius Sulla Felixルキウス・コルネリウス・スッラ(B.C.138- B.C.78 共和政ローマ後期の政務官)との内戦に敗北して死亡したという。大マリウスの妻、小マリウスの母が子カエサルの叔母であったようだが、それが父カエサルの妻アウレリアの妹であったはずであるが、子カエサルには大ユリア、小ユリアの2人の姉妹があり、大マリウスはそのどちらかともする節もあるらしい。まぁ、どうでもいいが、Sextus Julius Caesarセクストゥス・ユリウス・カエサル(-B.C.90 B.C.91執政官を務めた)が父カエサルの兄弟との説もあるらしい。いずれにしろ、かの有名な子カエサルの直系の祖先には執政官はいなかったとのことで、イスラエルからカエサルまで遡ってどうするというのか…。

 ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの前にはカエサルがいた…その頃はローマでは共和政が取られていたが、アウグストゥスからPax Romanaと呼ばれるMarcus Aurelius Antoninusマルクス・アウレリウス・アントニヌス(121.4.26-180.3.17)までの五賢帝時代、200年を迎えた。その後、軍人皇帝時代(235-284)を経て、コンスタンティヌス1世(在位:306-337)がローマ皇帝として初めてキリスト教を信仰し、Theodosius Iテオドシウス1世(在位:379-395)の死後にローマ帝国は東西に分裂したとされ、西ローマ帝国は476年に滅亡し、東ローマ帝国は現在のイスタンプール、コンスタンチノープルに政府を置き1453年まで続いた。これが多分最初のローマ帝国になる。

 西ローマ帝国は東ローマ帝国に統合され、ビザンツ帝国とも呼ばれることになったようだが…4世紀半ば頃ドナウ川を超えるゲルマン民族の大移動と呼ばれる現象が起き、西ローマ帝国の滅亡後、5世紀後半にフランク王国が誕生し、この後9世紀に分裂して東西フランク王国とイタリアに分かれ、東フランク王国のKarl der Große(独)Charlemagne(仏)カール大帝またはシャルルマーニュ(740年代頃-814.1.28)が800年のクリスマスにローマ教皇Leo Ⅲレオ3世(在位:795.12.26 - 816.6.12)に戴冠され、神聖ローマ帝国(800/962-1806)が成立する。Adolf Hitlerアドルフ ヒトラー(1889.4.20-1945..4.30)はこの後継としての第三帝国を後にナチス政権で唱えるようになる。

 1789年のフランス革命後、ナポレオンが登場して帝政と共和政の間を揺れ、神聖ローマ帝国はナポレオンによってRheinbundライン同盟(1806-1813)として一時再編され、プロイセン王国(1701-1918)とドイツ帝国(1871-1918)の関係はわたしにはよくわからないが第一次世界大戦を経て、ドイツ帝国は帝政を廃止してヴァイマール共和政を宣言して1919年8月に憲法が成立する。ヴュルテンベルク王国(1805〜1918)も同じく終焉する。同じ1919年にパレスチナでは統治していたイギリスがヘブライ語を公用語として宣言をした。シオニストヴァイツマンのロビー活動が実ってか英相バルフォアがロスチャイルド卿にパレスチナにユダヤ人のナショナルホームを約束するとした書簡を出したのはロシアで革命の起きた1917年になるから、様々な動きがあった。極東アジアでは既に清朝が滅亡し、「明治」が終わっていた。シオニズムと社会主義をあわせた共同体とされるキブツはすでにパレスチナのガリラヤ湖周辺に建設され始めていた。

 第一次世界大戦後、1920年代には8万人のユダヤ人がパレスチナに移民として移り住み、「春の丘」を意味するテルアビブはこの時期に発展して1931年には人口4万5千人ほどのユダヤ人社会の経済の中心地となっていたという。この頃はまだ渡米したユダヤ人の方が多かったのかもしれない。ドイツでナチスが政権をとる直前だろうか。

 1930年にはパレスチナのユダヤ人は16万人にまで達し、更に大量の移民は1930年代以降、パレスチナのユダヤ人人口は1948年の独立時点で65万人、1960年に190万人、1965年に230万人を数え、1989年末には370万人となっていた。一方、1967年の第三次中東戦争(「六日戦争」1967.6.5〜6.10)以降、ヨルダン川西岸とガザ地区はイスラエルの占領下にあり、1988年現在UNRWAに登録されたパレスチナ人難民は230万人に登っていた。

 イスラエルの建国直前の1948年4月9日、当時イギリスの委任統治領であったパレスチナのエルサレム近郊のデイル・ヤシーン村で、デイル・ヤシーン事件と呼ばれているユダヤ人武装組織による住民虐殺が起き、パレスチナのアラブ人が恐れて退避した土地にイスラエルが建国されたとも受け取れることは起きていた。政治哲学者・思想家Hannah Arendtハンナ・アーレント(1906.10.14-1975.12.4)やアルベルト・アインシュタインはそのことを共同で非難する書簡を当時ニューヨークタイムズに掲載したようだ。敗戦国日本は、その頃すでに日本国憲法を施行し1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約を調印し、日米安保条約も締結される。明治憲法で主権者とされた天皇は「象徴」とされ、昭和天皇は最晩年まで戦争責任を問われ苦しんだという。

 1947年11月29日国連総会でパレスチナの分割決議は賛成33、反対13、棄権10で採択されるが、これにはHarry S. Trumanトルーマン米大統領(1884.5.8- 1972.12.26)による圧力があったことをイスラム教研究者の塩尻和子が指摘していた。米国内でのユダヤ人の支持を得るためトルーマンは分割決議を推し進め、パレスチナの56.5%をユダヤ国家に、43.5%をアラブ国家としてエルサレムを国際管理することを決議した。当時パレスチナにおける人口比率はアラブ人に対してユダヤ人は三分の一程度(65万人)であったという。この決議を下にイスラエルは独立を宣言し、第一中東戦争が独立した翌日から始まった。1948年米国はアラブ人の抵抗、反乱を受けて国連の信託統治を改めて提案しようとしたらしいが、ユダヤ人国家イスラエルは建国されてしまった…。翌年英米仏の管理下にあったドイツで基本法が採択され、東西に分かれたドイツが1990年10月3日に統一される。

 旧約聖書にはアブラハムの息子イサクの次男ヤコブが、神にイスラエルと名乗るように告げられる場面がある。市川裕はラジオ番組でユダヤ人が本来の選民思想に立ち返る必要を説いていたが、ガザ地区(365㎢)では2023年10月7日以来、2024年5月12日現在で、3万5千人を超える人が死亡したとガザ自治区保健省によって伝えられ、10分に1人は死亡する日常が半年余り継続している。それは本来の選民思想にあってはならないものに違いない…。






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