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近代化におけるユダヤの歩みから考えてみると…
「同化ユダヤ人」との言葉がある。アンシャン・レジームとは1789年のフランスで革命が起きる以前の王政の社会体制を指すようだが、ナポレオンは皮肉なことにその後のフランスに現れる。
ネット上で閲覧できる論文に「フ ラ ン ス 『国 民 』の 創 生 とユ ダ ヤ 系 フ ラ ン ス 人 ア イ デ ン テ ィ テ ィ の 確 立」と題した有田英也さんの論考があり、読んでみるとかなり入り組んだことが記されていた。どれほど理解できたかは自信がない。ユダヤ人の概念も、ユダヤ教徒であることであったり、母親がユダヤ人であると言ったものを目にしたが、四角四面に定義できるようなものでもないようである。少なくとも、三省堂の第八版には「ユダヤ」や「ユダヤきょう」の説明は載っていたが、「ユダヤ人」はなかった。
西暦70年頃に、第二エルサレム神殿が崩壊すると言った出来事があったとされ、それ以後ディアスポラと呼ばれる離散したユダヤ人やそのコミュニティが生まれたとする説もあるようだが、20世紀に入り1948年5月14日、ベン・グリオンによってイスラエルの独立宣言がなされてゆく。しかし、このように記すのはかなり乱暴で、有田論文によると、ユダヤ人と言っても(ここではフランスに居住したユダヤ人のことを指す)、セファラディームとアシュケナジームに大別され、セファラディームの中にも、ポルトガル系とアヴィニヨン系の違いが本来あるようなのだが、それらはしばしば混同されているらしい。因みに、アシュケナジームには例えば1879年に現在のドイツにあるウルムと呼ばれる都市に生まれた著名な物理学者アインシュタインがいる。アルベルト・アインシュタインはアシュケナジームに属するユダヤ人であった。
フランスのアシュケナジームは主にアルザス地方に多かったようで、フランス革命後、ナポレオンの統治下で、アルザス地方のアシュケナジームは他の地域のユダヤ人とは区別され、アルザス・ロレーヌ地方のユダヤ人の「解放」は遅れたようである。パリ以外で暮らすユダヤ人の経済活動も制約された経緯があったそうで、フランス国家への同化を促すナポレオンによる中央集権的ユダヤ人組織は複雑な過程を経て生まれ、アルザスやロレーヌ地方のユダヤ人は、フランスにおける他の地域のユダヤ人よりも厳しい環境下でフランス国民として歩む宿命を背負わされた歴史がある…ようだ。
そのような経緯を経て19世紀末の1894年にドレフェス事件は起こり、この事件後にテオドール・ヘルツルのユダヤ人国家の小冊子の刊行され、1948年のイスラエルの独立宣言へとつながるシオニズム運動がはじまっている。ユダヤ系フランス人のアルフレド・ドレフェスはアルザス地方の出身で、父親は1871年に国籍を取得していた。ナポレオン統治下でいわば差別的に扱われたアルザス地方のアシュケナジームであった可能性がある。
実は、こんなことを考えていたのは「日本人」について見つめ直す機会となるのではないか…と思ったからだった。「明治」の始まりと共に「天皇」が政治の中枢に置かれ、天皇の逝去と共に殉教するように命を絶った乃木希典は、天皇の命で学習院長も務め、近衛文麿、昭和天皇の教育に携わったようだ。「昭和」に首相や天皇を務めた2人に、乃木希典は山鹿素行という名の江戸の儒学者の記した中朝事実の書を与えていた。「明治」の終焉は清朝滅亡や辛亥革命と重なり、日中との関わりには密接なものがある。憲法学者の青井未帆はテレビの討論番組で、憲法学の立場から儒教や大乗仏教をどのように捉えるかは重要な課題と考えている旨のことを語っていたように思ったが、国体との概念も「中国」の存在抜きに生まれうるものではないだろう。最近、メキシコ湾を「アメリカ湾」と改称すると唱える米国大統領の主張が伝えられて、ニュースにもなっていたが、これも「メキシコ」の存在抜きにそのようなアイディアが生まれてくるはずもない。
"Make America great again. "とのスローガンも、レーガンが1980年の大統領選挙に最初に語っていた文句で、レーガン政権下で当時は財政赤字を生み出す政府になったようだ。他と比することなくアメリカとの祖国に誇りを持つ…というのではなく、メキシコ湾を「アメリカ湾」と改称させる試みによって偉大に見せるといったものにも受け止められ、新大統領の政策はおそらくこうしたことに終始する4年間となるのではないだろうか。その同盟国の日本はそのような人物を首長とする国と渡り合うことになる訳だ…。
30年前、パレスチナのアラファト、イスラエルのラビン、ペレスにオスロでノーベル賞が授与され、日本の大江健三郎が2人目となる文学賞の受賞者となり、ストックホルムで「あいまいな日本の私」と題した講演を行った。哲学者などの肩書きで紹介される柄谷行人はこのときの講演で、"ambiguous"という英単語ではなく、"ambivalent"の単語を用いたほうがよかったのではないかと思う旨対談をまとめた著作で述べていたように思った。
記憶を頼りに記すと、大江のストックホルムでの講演は、最初の受賞者の川端康成の「美しい日本の私」をいわばパロディとしたもので、川端のことを暗に批判して「醜い日本の私」に蓋をしない、量価的ではなく、つまりambivalentではなく、両義的な立場に立ち、日本の戦争加害の責任についても引き受けた立場に立つといった趣旨の意思の表明でもあったと…理解すべきものだと思う。それは大江の立場に立てば、ノーベル賞は受賞しても、文化勲章は受け取ることはできない…ということになったのだろうが、そのことについては加藤典洋が徹底的な批判をしていた。それは加藤の「敗戦後論」によく述べられているが、大江健三郎がよく使用した「戦後民主主義」はかなり危うくなっているとも思う。
1985年8月15日、中曽根内閣の宰相は靖国参拝を行い、2006年8月15日小泉内閣の宰相も同じく参拝を繰り返した。そして、2006年12月教育基本法は戦後初めて改正され、その後第二次安倍内閣発足後は、地方教育行政の組織及び運営に関する法律も改正され、初中等教育における不登校は30万人を超え、小中高生の2024年の自殺の数は527人(小15、中163人、高349人)と過去最高になったことが伝えられている。外務省は国連から女性差別の撤廃の観点から皇室典範を改正することに言及され、そのことに反論していたが、やはり日本は政権交代の必要性があるのだろう。近代立憲主義の観点から、「象徴」とされてきた天皇を「国民」に位置付け治すような憲法改正が政治ないしは政府の役割とは考えられてはない。
主権者の多数がそのような考えに立つには時間が必要だと思うし、将来的にも実現することはないのかもしれないが、国会や憲法審査会でも、少数意見としてさえも、その様な改正案が出て来ないことは、民主主義の未熟な状態という他はないのではなかろうか…。