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OPPENHIMER

 クリストファー ノーラン作品を初めて鑑賞したような気がする。試写会に行くことができたのである。この作品は私のツボにハマった。傑作だった…。このような作品が見たかった…そうした映画であった。

 1900年の12月に、ドイツの物理学者マックス プランクがブランク定数とのちに呼ばれるものを着想し、物資が分子から構成されると考えられていた様に、エネルギーもエネルギー素子から構成されるとした量子仮説を構想したことが量子力学の皮切りになったとされている。これから四半世紀のち、1925年頃にハイゼンベルクとシュレーディンガーの両者が異なる手法、行列力学と波動力学でそれぞれ同じ結論に到達したと合意された辺りで、量子力学は完成されたと考えられていると聞く。

 "Teacher" の愛称で呼ばれた物理学者ゾンマーフェルト。そのstudentであったハイゼンベルク。"Authority"の愛称で呼ばれたプランク、そして"Genius"と呼ばれたアインシュタイン、量子力学にはそうした立役者の様な科学者らが存在した。

 量子力学の完成ののち、1938年頃、オットー ハーンとフリッツ シュトラスマンが天然ウランに低速中性子を照射してバリウムの同位体を発見したとされる。その結果をリーゼ マイトナー、オットー ロベルト プリッシュらがウランの核分裂と解釈してfissionの言葉を当て、nuclear fissionの発見が1939年の年明けにニールス ボーアによって発表された。ハンガリー出身の物理学者レオ シラードは核分裂の発見以前から核爆弾の可能性や核戦争に1933年頃に気がついていたとされる。

 核分裂の発見が発表されたのちに、シラードはその検証を行い、ウランの大量にあるベルギー領コンゴの鉱山がナチスに渡ることなどを懸念して、アインシュタインに学んだ縁とアインシュタインがベルギー王室のエリザベートと面識があったことから、その懸念をエリザベートに伝える書簡が当初計画された。それが1939年7月16日だったとされる。アインシュタインの教え子であったシラードとウィグナーは、ロングアイランドにあったアインシュタインの別荘をこの日訪ね、散々迷った挙句に地元の子に「アインシュタインの家を知っているか」と訪ねた後に辿り着くことができたそうだ。

 アインシュタインはシラードの話を聞く中で、原子核の連鎖反応について理解し、シラードの話の途中で「そんなことは考えてもみなかった!」とドイツ語で叫んだと伝わる。ロスアラモス研究所で初めて核爆弾の実験が行われたのはそれからちょうど6年後だったことになる。アインシュタインはエリザベートではなく、ベルギー内閣の閣僚への手紙なら書くことを了解したとされ、それが二転三転し、より影響のある合衆国大統領に宛てることに変更され、2度にわたって書簡は出されることになった。最初の書簡が出された後の9月1日にナチスのポーランド侵攻は始まり、広島への原爆投下の前に2度目の書簡は出されたものの、ルーズベルトの急死でそれは読まれることなく、マンハッタン計画のことを知らなかったトルーマンが大統領に就任し、広島への投下となった。

 当時、ドイツでの核爆弾の製造が懸念され、イギリスの農場に幽閉されていたハイゼンベルクはラジオのニュースで広島への投下を知り、それを冗談だろう…と思ったとも伝えられている。ボーアとハイゼンベルクはコペンハーゲン解釈とされる不確定性原理と相補性原理を唱え、シュレーディンガーはシュレーディンガーの猫を唱え、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と、ボーアらには対峙した…のだろうと思う。プランクが家族と暮らした街に住んでいたマックス デルブリュックは、ボーアの「光と生命」とした講演を聴講して物理から生物へと学問の専攻を変えたと伝わっており、1944年にシュレーディンガーの記した"What is life?"にも紹介され、DNAの二重らせん構造を唱えたワトソンとクリックもシュレーディンガーの著作に強い影響を受けていたとも言われている。

 20世紀の前半は量子力学、それが後半に分子生物学へと発展してゆく。その様な経過の一つにオッペンハイマーが戦時下にマンハッタン計画に、マサチューセッツ工科大学で学んだことのあるグローブスと共に関与していくことになった。オッペンハイマーの生涯を知ると、不思議とSTAP細胞騒動の最中で亡くなった笹井芳樹さんが彷彿とされた…。

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