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二.二六事件から85年
先日2月26日を迎えた。知らなかったが、この日は歌手の桑田佳祐やサッカー選手の三浦和良の誕生日らしい。そのことがTVニュースで紹介されていた。案の定であったが「昭和維新」と呼ばれもする陸軍将校等の軍事蜂起から85年になることは日常的に紹介されなかった。
筆者も詳しくはないが、Wikipediaを調べつつ記すと、1935(昭和10)年頃、陸軍内では皇道派と呼ばれる一派と、東條英機も所属していたとされる統制派がつばぜり合いしていた。誤りを恐れずに記せば陸軍内は内紛状態に置かれていた様である。かつて放送された「澪つくし」というNHKの朝ドラでは、醤油の醸造を営む一家が描かれるなかで、新聞記事として永田鉄山斬殺(相沢事件)のことが出ていた。
1935年8月12日陸軍省の建物の中で、永田鉄山なる人物が殺害された。昭和に入り三つ目の内閣となる濱口雄幸内閣の下で、1930年にロンドン海軍軍縮会議が開催されているが、この軍縮会議は定期的に開かれ、それまで軍関係者が参加することが通例であった。が、濱口は自らの先輩に当たり、総理大臣を務めた若槻禮次郎を大使に起用し、濱口はこの会議後に結ばれたロンドン海軍軍縮条約についてラジオを使って国民に演説を行った。国内初の宰相によるラジオ演説であったとされる。この政府の条約締結の方針に犬養毅等は反発して「統帥権の濫用」との批判がなされることになった様だ。
1930年11月14日に濱口は東京駅で撃たれ、後に退陣する。所謂右翼と目される加害者も、濱口が天皇の統帥権に干渉した旨を銃撃の根拠に述べていたようだ。再び若槻が内閣を担うが、満州事変が勃発し、犬養毅が総理大臣に担がれてゆく。当時から三月事件、十月事件と呼ばれるクーデター未遂は繰り返されており、犬養は1932年5月15日に暗殺され、海軍大臣を経験し、海軍軍縮会議にも参加した経験のある齋藤實が首相に就任し、満州国を承認することとなる。
齋藤内閣は当時として比較的長期に渡るが、帝人事件なるもので退陣し、岡田啓介が1934年7月8日に66歳で首相に就任した。この翌年、貴族院では天皇機関説の批判がなされて美濃部達吉が「一身上の弁明」を1935月2月25日に行う。憲法学者の美濃部は、濱口内閣を「兵力量の決定は統帥権の範囲外であるから、内閣の責任で決定するのが当然である」と支持していた。一方で犬養毅、鳩山一郎は濱口内閣を批判した。昭和の動乱の中核ではないだろうか。美濃部は1932年5月10日に貴族院の勅選議員に就任しているが、5日後の日曜に犬養暗殺が起きている。濱口内閣で大蔵大臣を務めた井上準之助の暗殺が起きた際、美濃部は右翼の取り締まりの甘さを批判していたらしいが、犬養暗殺はその後起きる。
貴族院に端を発する天皇機関説事件は、近衛文麿が貴族院議長を務めた際に起き、美濃部は近衛のことも批判していた。帝国議会でその様な混迷があって、岡田内閣は国体明徴声明を出すことになり、美濃部は世論から封殺されてゆく。国体明徴生命とは、日本が天皇の統治する国家であるとする宣言で、森喜朗が総理大臣を務めた際に言及したとされる考え方と似ている。当時、陸軍内でそれに加担する向きを持ったのが真崎甚三郎であったとされる。犬養内閣が1931年12月に発足すると、荒木貞夫が陸軍大臣に就任し、真崎は参謀次長なる役職に就き、陸軍の教育を掌る教育総監を務めた。この頃から陸軍に国家革新を図る「皇道派」が生まれ、二.二六事件へと繋がってゆく感がある。
荒木貞夫は犬養内閣で陸軍大臣を務め、犬養暗殺の後の齋藤内閣でも同ポストを務めるが、真崎と共に皇道派に目される荒木の様だが、病いを理由に辞任することになる。しかし、それには皇道派青年将校に自重を求めたところ支持を失っていた背景もあったらしい。荒木の後任には真崎の名が挙げられたようだが、結局は林銑十郎が陸軍大臣に就き、その下で軍務局長と呼ばれる要職についたのが永田鉄山だった。永田は「統制派」なる集団があったとは考えていなかったようで、しかし、軍務局長として皇道派の締め出しを図り、林陸軍大臣は両者の板挟みになったようである。
当時、閑院宮載仁親王なる皇族かつ参謀総長を務めた人物が、真崎の教育総監を本人の承認のないまま辞めさせ、真崎は罷免された。真崎は昭和天皇からも嫌われ、その評判は兎に角悪かったそうだ。このことは皇道派の相沢三郎陸軍少佐に永田斬殺(相沢事件)を引き起こさせる何らかの要因になったことが想像される。相沢事件を巡り、軍法会議の下で裁判が公開で開かれ、1936年2月25日に前教育総監真崎勘三郎は証人として喚問されていた。二.二六事件の背景になる。事件を受け岡田内閣は退陣し、廣田内閣が誕生すると思想犯保護観察法が成立する。しかし、廣田内閣も、二.二六事件を受けた緊張状態で、切腹問答なる混乱が帝国議会で生じ、その後を林銑十郎が一時内閣を率い、更に近衛内閣が誕生してゆく。近衛内閣の下で盧溝橋事件は起こり、日中戦争は火蓋を開く。
第一次近衛内閣の下で、国家総動員法も成立し、文部大臣に就いた木戸幸一は、1940年に予定された東京五輪大会の開催権を返上し、近衛は退陣してゆくが、その後先述の陸軍大臣を務めた荒木貞夫が心酔したとされる平沼騏一郎が内閣を担うも、一年と持たず、その後二人の軍人が内閣を率いるもいずれも短命におわり、大政翼賛会体制下で再び近衛文内閣が組閣されたが、やがて退陣し、本人が驚いたとされる東條英機が首班指名され、陸軍大臣と内閣総理大臣を兼任して、東條内閣は真珠湾奇襲攻撃へと突き進むことになる。
21世紀の日本ではヘイトデモなど差別の問題が根深く残っているが「統帥件濫用批判」から要人暗殺が繰り返された時代があり、美濃部達吉の様な学者が世論から封殺されてゆく時代があった。二.二六事件の具体的な関与は認められてはいないが、真崎甚三郎は陸軍将校らのクーデター未遂に与えた影響はあっただろうし、美濃部が貴族院で「一身上の弁明」を行った一年後にそれは起きている。2012年末に「近いうちに」解散後、第二次安倍内閣が誕生し、なし崩しの様に集団的自衛権の行使を容認する法が成立し、最近では毎日新聞が新宿上空での米軍ヘリ低空飛行を問うジャーナリズムも起きている。
日米安保条約の締結からも70年になろうとしているが、日米安保を基軸とした安全保障は、国内の政治的な文脈で、その内実がどれほどのものか定かではないが、繰り返し金科玉条の様に唱えられ、活発な議論に基づく疑問を差し挟まれる余地はないようにも思える。最近、米国で訓練中の自衛官パイロットが死亡したことが防衛大臣の会見で伝えられたが、20世紀前半の戦争の時代を経て、Democracyがどれほど日本列島に浸透し、政権運営に反映されているのかは疑わしい。少なくともその様に感じるのは筆者1人ではないだろう。
日中戦争が繰り広げられた中で、陸軍大臣の東條英機が首班指名された際「虎穴にいらずば虎子を得ずだね」の旨昭和天皇は口にしたと伝わるが、東條内閣は発足から2ヶ月足らずで真摯湾奇襲を招き、21世紀に覇権を争う米中と同時に戦争を始める無謀な政治選択をすることになった。死後、既に30年以上となる昭和天皇は、明確な戦争責任を問われることなく、象徴天皇も三代に渡って国体は護持されてきたかの様に見える「令和」の初頭に、日本列島では三度目となる東京五輪大会の開催を控えているがcovid-19と呼ばれる未知のウイルスによるpandemicは未だ収束していない。
流動する未来を人為的にコントロールできないとしても、「逆コース」と呼ばれる戦火への道を、果たして辿っていないと言えるか、主権者として有権者はそのひとり一人に注意深く見守る責務が未来に対して課されているのだろう。少なくとも筆者はその様に考えている。ご批判を承れたら幸いである。
2021.2.28