歩く、世界を愛する
こんにちは。Experience Designer の sabakichi です。
今日は、ワールド探索の楽しみについて、ぼくが日頃感じていることを少しだけお話したいと思います。個人的な随筆のようなものなので、知識が得られたり、タメになったりといったことはないですが、一つの視点を通じて、ワールド巡りが少しでも面白くなってくれたらうれしいなと思い、この記事を書いています。
VRChatワールド探索部は様々な分野のクリエーターの方が参加しており、わいわいと日夜ワールド探索を楽しんでいます。↑に記載したアドベントカレンダーでは、それぞれの視点を通じて異なる価値軸によりワールドが厳選して紹介(キュレーション)されていますので、大変読み応えのある珠玉の記事が揃っています。ぜひ時間がある時にでも読んでいただき、ワールドを巡ってみてください。
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ワールド探索行
ぼくはワールドを探索するのが好きです。日常生活では、空間デザインのスキルと設計活動をベースとしたクリエーターとして活動していることもあり、現実ではみられないような特殊な空間性を備えたワールドや、作者さんがもつ独自の世界観で記述され作家性により構築された空間に出会うと、特別に目を奪われます。
最近になり、メタバースと騒がれはじめたこともあってか、今まで以上に、Immersive(没入型)なバーチャル世界が「人とコミュニケーションをするための場所」であるとフォーカスが当てられがちです。たしかにVR世界では、おしゃべりをする居酒屋、音楽に浸れるClub、ロールプレイのコミュニティ、クリエーターたちが集う作業部屋などなど、あらゆるタイプの「人と触れる機会」を得ることができます。寂しさを埋めるためでも良いですし、新しい世界との出会いを求めて交流を深める場としても非常に有益です。
しかしながら、コミュニケーションで疲れてしまうタイプの人にとっては、合わない世界かもしれない、と思う向きもあるかもしれません。ぼくも初めはそうでした。しかし、実際には1人でも十分楽しめます。
事実、ぼくのVRの最初の一年間の楽しみ方は、もっぱらはほぼ1人でVRChatのワールドを巡っていくというものでした。
同伴者はいません。常に1人でしたが、この世界には自分以外の人間が誰1人として存在していないことがシステムによって保証されているため、むしろ気楽に独り言をつぶやきながら、マイペースでじっくりとワールドを見て回ることができていました。今でもたまにふらっとワールド一覧からおもしろそうなワールドを見つけては、1人で探索をしに行っています。
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世界を歩く
ぼくにとって、VRChatのワールド探索をしているときの感覚と、現実で街歩きをしているときの感覚は、ほぼ同じものです。
自らの身体で歩みを進め、世界を観察し、それらがどのように成り立っているかについて想像を巡らせ、時には意図や理由を読み解き、街並み=世界として顕れた背後に人の存在や営みを感じる。
そういう思考の繰り返しを、ただ「街を歩く」というシンプルな行動に集約して、世界の観察者として自らを客体化し世界を読んでいくことで、この上なく知的欲求が満たされるのを感じます。
世界の解像度、とでもいえばいいのでしょうか。純粋な思索による仮説の積み重ねではありますが、解像度の高い精細な画像を見た時に感じる満足感のようなものを、世界に対しても感じることができたなら、それはとても素敵なことです。
たとえば、家の前に、沢山の花を飾っているお家を見つけたとします。その家の人は、おそらく花が好きなのでしょう。プランターで育てているところを見るに、丁寧に物事を継続する意思を持った方であり、同時に、花を人が通る道沿いに飾ってくれていることからしても、きっと他人を思いやれる優しい人なのかもしれません。
しかし、よく見ると、そのお家のお花は、明らかに公道にはみ出しています。行き過ぎた愛の結果なのか、それとも利己的な精神の持ち主なのか、はたまた公私の線引きが曖昧な人なのかも……このような現象は、巷所化(こうしょか)と呼ばれます。公的な空間(Public Space)を、このくらいならいいだろうと私的に占有(Private化)していってしまうことで、徐々に公私の境界が薄れていき、既成事実として私有化されてしまうことを指します。
このような現象は、珍しい光景ではありません。少し歩くだけですぐに見つけることができます。店先に置かれたカフェの看板、休憩のためのベンチ、などなど。こうした公(Public)と私(Private)のせめぎ合いにこそ、街、あるいは世界と人間との関係性が表出した記号が存在していると感じています。
そして、これは組成が異なるにせよ、どの現実においても起きていることだと思います。たとえばPublic化するためにつくるワールドと、Privateなワールドとではつくりが異なる印象を受けますよね。
誰かに見せるための空間は、それなりの設え(しつらえ)になってくるものです。そこには自分をどう見せたいか、どう在りたいか、誰にどう思って欲しいか、などの制作者=作家からのメッセージが込められています。
それらのメッセージを読み解きながら、世界と対話をするように身体を通じてコミュニケーションをしていく。街歩きとワールド探索が同質の体験であると感じている理由です。
ことVRChatのシステムにおいては、Public化(公開)したワールドは、文字通りすべてが公(Public)の空間となります。一方で、公開しない限り、それらは人を呼ぶこと以外には公共性を有する機会がありません。ゼロかイチかであり、極端な構造です。
それならば、バーチャル世界での公私のせめぎ合いは一体どこで起きているのでしょうか。そういうことを考えながら、ワールドを探索していくもまた楽しみの一つです。
ときに、セミクローズドなある種の承認制を持ったワールド(Clubやサークルなど)では、これらのせめぎ合いの場が形成されているのをごく稀に目撃することがあります。そこでは空間と人が織りなす場が、まるで街路と家と通行人のような、境界が溶け合った公私どちらでもない空間を形成し、ユニークな小さい世界を形成していることがあります。そこでは現実からの地続きであるにも関わらず、バーチャル世界における個と個のせめぎ合いが存在しています。場と個の緊張関係こそ、おそらく社会と呼べるものでしょう。すごいことです。
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カメラの眼を通じて
もう一つ、重要な要素として、カメラがあります。世界を探索する際には写真活動が観察の助けをしてくれる道具として機能します。
現実で街歩きをするとき、VRChatでワールド探索をするとき、そのどちらにおいてもぼくはカメラを手放しません。カメラを構えた瞬間、ぼくは視点をカメラに"ジャック"されます。カメラから見たものに意識が移動し、自らを強制的に客体化させられるわけです。その世界がどのようなものであるかを、ぼくという存在のフィルターを介さずに、あるいは意図的に自分の意思を通過させるという選択を行い、現象としてすべてを明示的に捉え直さねばならなくなります。
そのため、カメラで撮影をすることは、世界を客観的に観察するための有益なメタファーとなり得ます。
表現活動としてではなく、あくまでそうした道具(ツール)として、気軽にパシャパシャと枚数を重ねていきます。後から見返してわかるようなショットはこうかな、ディテールが素晴らしいので写しておきたい、あそこはいい形をしている、かわいいものがあるから残しておこう、これは何らかの意図があるのか?きっとこう写してほしいに違いない……。
ワールド探索をし終わったあとの写真フォルダは、毎度なかなかに大変なことになっていますが、それらを整理して、よかった写真や残しておきたい写真をセレクトだけしておきます。行った場所と日付がわかれば、その日探索を通じて感じた気持ちたちが、写真の地層から自ずと再生されていきます。
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世界を探索する
ソロで世界を探索するのも楽しいですが、もちろん、複数人で探索活動をするのも良いものです。友人と遊びに行くのも良いですし、デートでも、グループやサークル・部活動でワールドを探索するのもそれぞれに味わいがあり楽しみがありますよね。
複数人で見ていくことで、自分にはない視点が沢山あることに気が付かされます。それぞれの歩んできた人生、創作者として努力をしてきた経験など、別々の見え方や見立てが現れてくるのは大変刺激的です。
一方で、一人きりで探索する行為を通じて、自分と世界との関わり合い方を自覚できるという一面もあります。ソロでも複数人でも、世界の探索にはそれぞれの発見や悦びがあります。
今日も明日もその次の日も、人間は生きる中で自然と世界を探索しているものだと思います。必ずしも有益な何かを得られるということが約束されているわけではありませんが、色々なワールドをたのしんで、多少前のめりでそれをやってみることで、細かな端々に気がつけるようになったり、現実に何があるのかをよりわかるようになったり、大切なことを見逃してしまうことが少なくなるといいな、などと念じながら、今日も世界を探索しています。
2021/12/20 記 sabakichi
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