論理的思考力がほしい。。。

論理的思考があまり得意でない。
要するにぼんやり生きている。
中学の時まではそれでなんとなくOKだった。
高校に入ると、僕以外の全ての生徒が、男子も女子も、ものすごく頭のいい人に見えた。
いや、実際にみな頭がよかった。自分の考えを言語化してきちんと話せる人ばかりで本当に驚いたのだった。
なぜなら僕の通っていた地元の小学校中学校は一部優秀な生徒を除いて、ほとんどが野生動物のような有様で、論理的思考どころか口を開くと常に怒号、罵声、絶叫、悪態、爆笑の放出。感情のみを生活のよりどころとしたようなプリミティブ原人の巣窟のようだった。
僕もその中のひとりで、同じような仲間とつるんでは、けらけら笑ってそれが幸せだと信じて過ごしていた。
ところが、進学にあたって学校から成績の値で振り分けられてそれぞれ見合った高校を受験して行くことになる。
僕はちょうど成績の値の狭間のところに位置していたのであろう。進んだ高校では最低レベルの成績からスタートすることになった。
なにが自分を最低に落としめているのかよく周りを観察してみたら、先程述べたように、かしこい人は「論理的思考」が出来るのだということが分かった。
つまり頭の良い人は、物事を筋道立てて説明が出来る。
特に驚いたのが「委員会活動」で、放課後に会議に参加すると、先輩の2年生や3年生もたくさんいて、彼らは僕らよりさらに1年2年の時間をかけて論理的思考に磨きをかけその結果、物事を理詰めで説明できる能力をさらに発達させた人達で、そういう人達がつぎつぎと挙手をして論理的な意見を述べるのだ。僕は常に顔面蒼白、冷や汗だらだらだった。
そんなどこもかしこも論理的な場に放り込まれた野生のエテ公のような僕は、驚愕して恐縮していたたまれなくなり、すみっコでちぢこまるしかなかったのだが、そのような厳しい環境でこれからの3年間どうやって過ごしていこうかと考えると、やはり、その、とにかく最低限どうでもよいその他大勢に埋もれてしまわないようにしたい、と、それにはなにか手に職をつけて一目置かれないと、居場所がない、昼休み落ち着いて弁当すら食えないのではないか、と先行きに不安を感じざるを得なかった。
そして、ほんの短いながらも不登校をして昼日中から公園のベンチでごろ寝をしたり、ブランコをゆらゆらさせたりしながら暗中模索の末、当時まだ流行の最中だったフォークギターをかき鳴らしながら歌を歌うという個人的文化活動をしていることを校内で人々に主張することで、他生徒との差別化への足がかりとし、それはある程度功を奏し、次第に存在を認識してもらえるようになった。
それはしかし、実は姑息なやり方で、本来の理想である論理的思考を身につけるという正当な王道なやり方ではなかった。
そりゃ、大きな音を鳴らし、面白げな文言を叫んで、衆目を集めるというのは、言わば「幼児」、そうでなければお祭りの「テキヤ」と同じ原理を用いた行動である。
その良し悪しは一概には言えず、その議論は割愛するが、その頃すでに「男はつらいよ」シリーズのファンであり将来は寅さんのような存在になりたいと憧れていた僕は、当面はそれでよし、今はとにかくこれしかない、と自分に言い聞かせ、勉強よりもギターと歌、というテキヤ生活で、なんとか高校3年間をやり過ごした。
その後、もしも他の生徒と同じように大学へ進学して卒業証書をもらうためには逃げられない「論文執筆」という苦労を一度でも経験していたら、少しは論理的思考が身に付いたかもしれなかったのだが、残念ながらそうは行かなかった。
以来長らく、感覚、感情を優先した生活を続けて来た結果、なにひとつ権威的なものを身につけることが出来ぬまま還暦目前。
「リスペクトされない老後は寂しいものです」と、たしか内田樹先生もおっしゃっていた。
寂しい老後は嫌だなあ。
とにかくこのような、無自覚にぼんやり生きてきた男の末路、おのれの論理的思考のなさにうんざりし、本気でそれを欲しいと思ったのは高校入学で論理的な先輩の姿に驚愕して以来、40年以上も経ったようやく今のことである。なんとまあ遅いこと。It's too late.
だがよく似た愚か者は他にも数多いるようで、書店の棚を見ても、論理的思考を身につけるためのハウツー本が山のようにあるではないか。ああ世の中で幸せに生きるには論理的思考が本当に必要なんだなあ、そしてそれが足りてないと不安になっている人が大勢いるんだなあ。僕もその中のひとり、大勢の中のひとりなんだなあ、とため息をつくことしばしば。
そしてそれを解決させて差し上げようという、その手の本を書く商売の人もたくさんいるんだなあ。みんな生きているんだなあ。人間だものなあ。
レジに並びながらまたひとつため息をつく。

そうしてあれこれ試した末、論理的思考を鍛えるためには、作文が一番だと思い至り、今日このような場に参加しているのだが、ぎりぎりと脳を絞るようにして書いたいくつかの作文もほとんどその他大勢に埋もれてしまっているなあ。これでは高校一年のときと同じではないか。
なにかまた、寅さん的テキヤ的方法論を見つけなければとも思うが、おいらももう年だし、なによりそれではまた論理的思考から遠のいてしまう。
というわけで、僕の論理的思考の旅はいつまでたってもビギナーのまんまである。
初心忘れるべからずどころか、初心から一歩も進めない。
ああ、一生初心で死んでいくのかなあ。
とかなんとか、つぶやいている。
まあそれでも、ここまで生きてこられたことに感謝。
直感にありがとう。
テキトウな感覚にありがとう。
人生にほんとうに大切なのはプライマル・スクリーム!
じゃ、また!

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