
自分の在り処
私は「自分」が分からない。
正確には「真の自分の姿を見出せない」と言い表したほうがよいだろうか。
私は大学進学を機に実家を出るまで、家でも学校でも否定的な目を向けられ続けてきた。学校ではクラスの女子の陰口(もちろん内容は私を蔑むようなもの)を聞いて過ごし、家に帰れば母の小言が止まらない。そんな環境で過ごしてきた私は、いつしか自分を偽るようになっていた。偽るというより、「"イイコ"を演じる」という表現のほうが的確かもしれない。これ以上否定されないようにと、これ以上の底辺には落ちまいと、必死で取り繕っていた。
ただ1人、学校においては担任の先生がいちばんの味方だった。担任以外にも味方(否定的でなく接してくれる人)はいたが、友人以上にありのままを見せられたのは担任のK先生だったのだ。日直が書くことになっている学級日誌で、感想欄の半分以上を推しのことで埋めても、K先生は怒るどころか、むしろノリノリでコメントしてくれていた。今思い返すと、溢れんばかりの推しへの愛を暴走させて学級日誌を荒らしてしまったことを今すぐにでも土下座して詫びたいぐらいだが、当時の私にはこのことが何よりの救いだったことは言うまでもない。
そして、自分を偽り続けたことは、残念ながら就職活動にも響いた。
自分を偽り、我慢を続けてきたことが当然ながら災いし、自己分析や企業選びで苦労した。
自分は何がしたいのか。どんな働き方をしたいのか。
自分の強みは何か。弱みは何か。
自分が大切にしている価値観は何か。
その答えが、自力では一向に導き出せなかった。
しかし、情報社会はとても便利だ。救世主で溢れていた。
簡単な質問項目に答え続けるだけで思考の傾向や適性などを導き出してくれるサービスがたくさん転がっていた。そして、これらのサービスのおかげで、就職活動における道標ができた。
これを素直に喜びたかったが、自分を偽り続けていた私は自己分析でかなりのエネルギーを費やしてしまい、夏インターンが本格化する頃には充電切れを起こし、結果として就職活動で周りから遅れをとってしまった。だが自分と向き合うことを疎かにして迷走するよりは遥かにマシだろう。
この道標はあくまで就職活動の一助にすぎないものだと思っている。
この道標だけでは、真の「自分」に出逢えるとは限らないと考えるからだ。
そして、導き出された特性は「この検査ではこのような傾向が現れています」「こうしたほうがいいですよ」と、無数の選択肢を絞りに絞って苦悩を軽減しているにすぎないと考える。
その絞られた選択肢から自ら道を選び、つまづいて道を選び直す。
その繰り返しを経て見出した価値観や理想像こそが真の「自分」であり、目指すべき自分の姿なのではないだろうか。
ここにきてもう何を書きたかったのか分からなくなってしまった。
「自分」は人生での無数の選択を経て見出すものだということ、またその選択において「自分の本心に蓋をする」道を選ぶと自ずと自分を見失ってしまうということを結論とすればある程度は綺麗にまとまるだろうか。
これからは、どんな状況であっても自分の本心と向き合って、自分の本心に正直に生きてみよう。そうすれば、あの時見失ってしまった「自分」にもいつか出逢えるかもしれないから。(と言い聞かせる)
おしまい。
長ったらしい駄文にお付き合いいただきありがとうございました。
どうか貴方の自分さがしの旅路も、穏やかで幸多きものでありますように。