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老いゆく未来を考える
ランチで入ったお店で、シニアの女性がお連れさまとお話ししながら口元ゆるく音を立てて食事を召し上がり、歯に挟まった食べ物を吸う音が聞こえてきた。
遭遇すると滅びろという呪いをかけたくなるくらい、クチャラーが苦手だ。自分が口に入れているものの美味しさが八割減になるから。
ドリンクバーの白桃紅茶を飲みつつ、クチャラーは嫌だけど、その口の緩さがお育ち由来なのかお年からなのかはわからないんだよなあ……と、これから歳を重ねていく自分に想いを巡らせる。
一度、歯医者で麻酔を使った治療を受けた後に、麻酔を打ったのをすっかり忘れてパスタを食べたことがあったのだけれど。その時、麻酔が残っていて口がうまく閉じられず、自分が一番嫌いな音を立ててしまった時に激しく絶望した。
そして気が付いた。どんなに気をつけていても、絶対にやらないと心に決めていても、クチャは起こりうることに。
年齢による衰えかもしれない。身体がうまく動かなくなる病気や怪我がきっかけかもしれない。
いつ自分もその立場になるかわからない。
歯に挟まった食べ物を吸うのは歯茎の衰えで、歯の隙間ができたからなのかもしれない。
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わたしには三世紀生きたいという目標があって、その計算だと今はまだ人生の三分の一を過ぎたばかりなのだけれど。
果たして百歳を超えた自分はどんな姿なんだろうか。杖を使ってでも自力で歩けているのか。腰は曲がっていないか。きちんと意思疎通ができるのか、認知機能は低下していないか。
わたしもいつかは数時間のお茶の間に同じことを十回も聞くようになるのだろうか。何度もごめんなさいねと謝るようになるのだろうか。
無様とは何か。わたしは、今の自分が思うような「様になった」おばあちゃんになれるのだろうか。
税金や年金についても半世紀経てば色々変わっているだろう。わたしが生きながらえることで若者の首を絞めることはないか、考えなくてはならないのかもしれない。
まあ生きたいことを優先するなら、実際その歳になったときに若者たちの人生を食いつぶさないように準備しておかねばとは思う。
そんなことをぼんやり考えながら口に入れたカキフライで舌をやけどした。一気に今という現実にわたしを引き戻したのは、めちゃくちゃジューシーで熱いカキのエキスだった。
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三世紀にわたって生きたいと言い続けているのは、1900年生まれだった曽祖母があと数年で三世紀、というところで亡くなったことが影響してる(わたしと曽祖母は誕生日が同じ)
まあ生きたいって思うのは自由だからさ。でも、元気に生きてることが前提。そのイメージを忘れないようにしよう。久しくお会いしていないけれど夫のおじいさまは、まさしく様になったご老人。身近に目標にできる存在がいることは、恵まれていると思う。
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毎日のモーニング・ページや週ごとのワークに取り組みながら、自分を見つめる30日間。WLP(ライティング・ライフ・プロジェクト、やってます。