何をしても休めた気がしない人へ「休みを定義する」ことのすすめ
「休み」を定義してみたら
先月、コーチングセッションの最後にメンターから「休みの定義を考えてみたら」と言われた。
なんか良さそうと思って、セッションを終えた直後、早速自分にとっての「休み」の定義を考えてみた。
それが以下の通り。
将来のためとか自己研鑽とか考えない
仕事の不安を忘れる
過去も未来もない、今の自分の為だけに使う時間
何かを生み出す、何かを残すことを意識しない
この「休みの定義をする」という行為、これが思っていた以上に良かった。
わたしの「休み」と「それ以外」
その日から、わたしの日々の過ごし方は、「休み」か「それ以外か」だけになった。
休み「以外」はというと、上記に書いたもの以外になるので、お金を稼ぐため、未来のためにやっている仕事はもちろん「それ以外」。
哲学の勉強や、勉強するつもりで手に取った少しむずかしい本を読むときなども、自己研鑽になるため「それ以外」。
ヨガも、将来の自分のためにやっていることなので、「それ以外」だ。
では、わたしの定義の中での「休む」という行為は具体的に何なのかというと、
映画を観る
ドラマを一気観する
メモを取らずにエッセイや小説を読む
散歩
音楽を聞く
自分のために丁寧に料理をする
ぼーっとする
おしゃれな店にいく
美味しいごはん屋さんにいく
スパ銭に行く
これを書いていて、わたしは友達と遊ぶときも「休み」だと思って過ごしていなかったのだということに気付いた。
いや、もちろん友達と一緒になにかすることはとても楽しい。
友達とのふれあいに癒やされた、と思うときも、もちろんたくさんある。
でも、わたしのなかの「休み」とは、ちょっと違う気がしている。
なんというか、わたしにとっての「休み」は「リセット」と同義な感じがしていて、友達と会うときはその感覚とは違うのだ。
休みを定義することの効果
これを書いたのが8月19日だったが、それからの2週間はかなり充実していたように思う。
19日以前の約1.5倍は仕事の時間が増えたにも関わらず、全く疲れていない。むしろ、超元気で超健康、そして超ごきげん!
それは、何か特別な素晴らしい出来事があったとか、臨時収入があったとか、ずっと欲しかったものが手に入ったとかでは全くない。
はたから見れば、何の代わり映えもしない、日々の暮らしを淡々と過ごしていただけだ。
しかし、わたしの中で大きく変わったことが一つある。
自分が心地よくなれる「休み」を意識したことだ。
ただ、心地よい「休み」を意識し、それを積極的に取り、その「休み」をたっぷりと味わうことができたから。
これに尽きると思う。
これを踏まえて日々を暮らしていると、何も休日だけが「休み」の時間ではなく、朝起きてからの歯磨きや、白湯を飲むことや散歩、夜の読書の時間、お風呂の時間も、わたしにとって貴重な「休み」の時間になった。
休日だけが「休み」だと思っていた以前とくらべて、「休み」と感じられる瞬間が毎日やってくると感じられたのも良かったのではないかと思う。
おそらく、去年のわたしが今の生活をしても、こんなにごきげんではいられなかった。
むしろ、「ずっと家にいて、一人でいるなんて気が狂いそう!今すぐ生身の人間と話させて!!」と思うだろう。笑
意識ひとつ変わるだけで、こんなにも暮らしに対する感じ方が変わるのだ。
それはわたしにとって、とてもおもしろい発見だった。
もし、なぜか疲れが取れない、なんだか休まっている気がしないと思っている人は、自分の中で「休みを定義」してみると良いと思う。
きっと想像以上の効果を得られるはず。