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『目頭を押さえた』

『目頭を押さえた』
/東京芸術劇場 シアターイースト


▶「目頭を押さえた」の意味を知ってしまった以上、もう二度と簡単な気持ちで観れないのだけれど、だからそれだけ最後の喪屋のシーンが衝撃的で圧倒的だったんだよな。観てる私たち自身も「目頭を押さえて~」の意味とか、人見村のその伝説とかそれが実際(物語上で)行われてたっていう事に対して、現実味がなかったんだろうなぁ。あんなに衝撃の強いシーンで目を瞑ってしまいたくなるけれど、かっぴらいて見なきゃっていう気持ちがあった。

▶私はまだまだ子どもの立場だから舞台中も遼ちゃんの気持ちを見てたけど、「私のことを思ってるんだったら私のことを応援してよ、東京に行ってほしくないのはお父さんが寂しくなるからだけでしょ」って思った。だからこそそんな時に坂本先生みたいなやつがいたら頼りたくなっちゃうし信じたくなる。背中を押してくれる、アドバイスをくれる坂本先生が、唯一の味方のように思えてしまう。自分でもわかってるんだよ、「こんなことで夢を追いかけたいって思っちゃうなんて甘い」ってこと、社会には世界にはもっとすごい人がいるってこと。元々都会からやってきた遼ちゃんならそれをわかってると思う。でも、やりたい、勉強してみたいってことをやっと見つけてそれを言葉にできるようになった時、嬉しかったからお父さんに応援してほしかったんだろうな。だから裏切られたような気持になったんじゃないかって感じがした。お父さんを避けるのは思春期だからとかじゃなくて、その裏切られたような気持に整理がつかなかったからじゃないかと思う。

修子は修子で、伝統って言いながらもどこか現実味がなかった、伝統っていう名の歴史的な感覚だったんだと思う。だから琴依さんにも人見村の伝統について楽しそうに話せたのだろうし、杉山のおじさん(遼ちゃん父)に一平が喪屋に連れてかれて「目頭を押さえて~」で現実味を帯びたんじゃないかな。

最後の中谷家の居間、一平はすごく成長していた。喪屋での出来事から自分が背負っていく未来が見えて、覚悟を持つしかなくなった。そのきっかけがお父さんが亡くなった事と、体験しないと思っていた(もはや存在するとも思っていなかったかもしれない)であろう自分の家の伝統ってところが、悲しいくらいに皮肉だった。
あと最後の喪屋のシーンをシャッター切ってた遼ちゃんだけど、あの写真が東京へ行くことに繋がったんじゃないかって思ってて。それも伝統がきっかけなのは、良いのか、悪いのか...。

▶私が入った後半のほうの公演で印象的だったのは、修子父が運ばれた喪屋に遼父が一平を連れて行くシーン。その前に観た時よりも喪屋に入るまで時間がかかってた気がするんですよ。一平も遼父に掴まれていた腕を振り払って逃げてたの。それでまた一平は掴まれて今度こそ連れていかれるんだけど、一平は泣きすぎて体の力が抜けていて、足だけ必死にもがいてる感じ。「いやだ!いやだ!」って一平が叫んで喪屋に入る横で、修子の「先生なんで!?」の声と坂本先生の声。一平が喪屋に入ってからも「先生なんで!?」はいつもだったのに、一平が入っていくその横で同時に修子と先生の声が聞こえるのがすごくリアルだった。

▶遼に「東京でいっぱい買えるやん!」って言った修子。東京に行くって決めた事も、自分の夢を見つけた事も、遼もすべてが羨ましいんだと思う。同時に、”遼は私の後ろにいる/私について来る子”だと思っていた遼が、自分で東京に行くと決めた事に、悔しさと一種の優越感を壊された感じ。でも琴依さんに「修子ちゃんも短大出たら東京行くんでしょ?」と聞かれた時に「うん」とは言えなかった。東京に行くってことは夢であって、いざそうなると現実味が感じられない。現実に自分が東京へ行くとなると怖さを覚える。この時の修子にはそんなことが感じられた。

▶坂本先生が遼にお弁当を作ってきてあげた時、中身のやりとりが最高に楽しくてキュンキュンしてました。そのシーンで遼が「先生」って声かけてこちらに振り向いた瞬間にシャッター切ったあとの、2人が見つめ合う数秒の時間。あれはやばかった。恋愛青春映画で使われるキュンキュンポイントそのものだった。なんなん坂本先生。やってしまったじゃないのよ。そこでそんなことすな。

▶林くんが坂本先生は国語の先生だと思ってやってるって雑誌で言ってたけど、お弁当のシーンで、写真展に来てもらうこの間の写真展の審査員の人についてだとか色んな写真家の事を話してる感じからして、世界史の先生なんじゃないかって思ってしまう。
色々衝撃が強すぎて林くんのこと「人たらしの坂本先生」ぐらいにしか記憶がない。坂本先生が好きになるしかないやつ。

▶お席が近かった時、筒井ちゃんのかわいさときたらもう・・・脱帽・・・。秋田さんの透明感にも・・・脱帽・・・。

▶初日辺りと比べて公演後半になると、筒井ちゃんのお芝居がとても良くなってた。お席にもよるけど声がしっかり聞こえるようになってて、例えば、お父さんに声を荒げる時とか、修子に「何で撮ったん!?」っていう時の、感情のぶつけ方が良くなってたと感じた。
7月に入って印象的だったのは、修子父が亡くなって家に運ばれてきたところで遼ちゃん、修子父に近づいてカメラを構えようとして、坂本先生に止められるところ(優しく「杉山?」って声をかける先生。声、恋。)。その後構える直前のポーズで止まったまま、涙が1滴ポロリと落ちたの。あぁ感情が溢れてるなって思って、すごく素敵な瞬間だった。

▶筒井ちゃん、もう1つ。修子に「何で撮ったん!?」って言った時の目が良かった。先生がせっかく企画してくれて村中の人が応援してくれてる写真展を潰されて、お父さんと気まずくて写真だけが居場所だったのに、写真関連で尊敬してる先生とも気まずくなって、学校だけじゃなくて村中から嫌な目で見られて。修子を睨みたいけど睨みきれない、泣きたいけど泣きたくない、みたいな強い気持ちの部分の感情が伝わってくる目だった。あの目すごく良い。

▶とにかく重くて、素朴で、人間って嫌だなって思った。人間味と日常の融合をお芝居で見れたことが、この作品を観れて良かったなと思えることです。
遼ちゃんや修子は私自身と年齢が近いからこそ、彼女たちが抱える悩み、感情、それを言葉にできない悔しさ、いつまでも子どもとして扱われる苛立ち、そういうものがダイレクトに伝わって来た。高校生だってキラキラばかりじゃない。ずっとどこかにグルグルしててモヤモヤしてるものがあって、でもやっぱり綺麗な鮮やかな青色が似合う。それが高校生。遼ちゃんと修子を見てるとそんな感じがして、終わった後はいつも心がすっきりしてました。
しんどいけど、きっと林くんが出てなかったら観なかったであろうストーリーの作品だけど、子どもと大人の狭間にいる高校生のリアルな感情と表情の動き、そして命というものの尊さ、生きているからこそ出会う人間の本質、そういう人間味あふれる作品と出会えて本当によかったと思う。

▶本編中、修子母が作る夕飯いつもカレーだからカレーっていう単語がめっちゃ出てくるんだけど、最後、終演でキャスト紹介する直前に、ステージのほうからカレーの匂いがやってくる演出によってカレーが食べたくなるって聞いてたのだけど、私はカレーよりもカレーライスの白米が食べたくなった。


「目頭を押さえて」:かつて村一体で行われていた林業。山間の木々を伐採しており、その作業途中で高所から転落し亡くなった人たちが多くいた。
高所から転落した遺体はその衝撃で眼球が飛び出てしまう。その穢れを取り除くために、跡取りが飛び出た眼球を指で元の位置に戻してあげるという儀式。喪屋には跡取りしか立ち入ることが許されておらず、「目頭を押さえて~」と声に出しながら、遺体の目を戻すことを意味している。

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