15. 父はマスター? /純喫茶リリー
ある日曜日、リリーのカウンターの向こうに見慣れない男の人が立っていた。律子のお父さんだ。
山田のババが店に入ってくると、「お!今日はマスターがおるんか!」と声を上げた。
「マスター?」律子はその言葉を初めて聞いた。
まさか、律子のお父さんがリリーの「マスター」だなんて。
その時まで、律子は自分のお父さんがリリーで働いているなんて、想像したこともなかった。
ババが「マスターがコーヒー淹れとるんか!かっこいいな、りっちゃん」
というと、律子は「うん…でも、普段は見たことがないから、なんだか不思議な感じがする。」と戸惑いを見せた。
そもそも、これより前のお父さんの記憶が律子にはなかった。
この日も、「あぁ、あれがお父さんなのか」と思ったくらいだ。
つまり、普段は家にいない人。
ババがお父さんと言うのでお父さんと認識した。
この男の人は、前から律子のお父さんとして存在していたのだろうか?
後から考えると違和感があった。
お父さんはカウンターの向こうでコーヒーを淹れたり、ママに指示を出したりして、まるでリリーの王様みたいだった。
なんだかママより偉そうにしている姿に、律子は少しだけ驚いた。
でもこの日以来、お父さんがリリーで手伝うことは一度もなかった。
律子にとって、お父さんは背が高くてハンサムで、お仕事が忙しいから日曜日にしか家にいない、ちょっと遠い存在となった。
でも、一度家に帰ってくると、お父さんはまるで自分が家の王様であるかのように振る舞った。
ある日の夕食の時、
「この料理、は少ししょっぱいな。」とお父さんが顔を歪めた。
「えーそう?これくらいが美味しいじゃないの」とママが言うと、突然にイラッとして怒りだし、持っていたビールジョッキの中身をママにぶっかけたこともあった。律子は驚きと恐怖で固まった。あの時、初めてママの目が真っ赤になっているのを見た。
お父さんはかっこよくて大好きだけど怒るとすごく怖い。
律子はそれまでママが泣いたところを見たことがなかった。大人でも泣くんだと言うことをこの時に知った。
この時の光景は、律子の心に深く刻まれた。そしてその記憶は、後になってからも時々フラッシュバックのように律子を襲うことになる。
お父さんは普段、家ではママの赤いブルーバードに乗っているのに、リリーに来る時だけは「ベンベー」という車で現れた。
会社の車だから汚すと怒るけど、かっこいい車だから見せびらかしたかったんだろう。
それに、お父さんは顔もかっこよくて良い大学を出て良い会社で働いている。怒ると怖いけど、大好き。律子は、そんなお父さんを少しだけ誇りに思っていた。
まだこの時はね。