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①今だからこそ考えてみたい。ジャッキー・チェンがハリウッドで成功したわけを

ジャッキーが何の作品でハリウッドで成功したかといえば

はい、これですね。「ラッシュアワー」

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黒人のはみ出し刑事と香港からやってきた刑事でバディを組み、領事の娘の誘拐事件を捜査する。


さすがにですね、ジャッキーのアクションの凄さだけが通用したと考えるのは

余りにも楽観的過ぎるような気がしてます~

私も公開当時思ったんですけど、ジャッキーはハリウッドへ行ってアクションがぬるくなった~オワコンや

という認識のままで、本当に良かったのか?!?!?!?!?(自分に喝を入れにいきたい


そんなわけで、ジャッキーのアメリカ進出への挑戦を行った作品を辿って行きながら考えてみたいと思いまーす



まず、一番最初にアメリカ進出へ挑戦した作品といえば「バトルクリーク・ブロー(1980)」

製作総指揮:レイモンド・チョウ

監督は「燃えよドラゴン」「死亡遊戯」などを手掛けたロバート・クローズですね。

音楽:ラロ・シフリン(豪華ですね~※この方はのちに「ラッシュアワー」の音楽も手掛けてます)

当時監督は脚本、カメラ、アクション、全てのものを前もって準備していたという事なのですが

アクションの構築も自分ででき、プレーヤーとしてもできるという。しかも監督経験もあり一番効果的なカメラワークも熟知しているという、当時でも稀に見るハイスペックなスキルを持っていたんですけど、現場でアイデアを練って作り上げていくジャッキーの映画製作スタイルとはかけ離れていたので、窮屈に感じた部分はあったのかも知れないですね

まあでも、ジャッキーならではのスタイルを取り入れているとこはあるんですよ

叔父さんであるハーバート・クワン(マコ岩松)の投げるテニスボールを避ける修行のようなシーンとかね

床に思いっきり足形が描いてあるしw(蛇拳?w

木人みたいなのも出てくるしw

あとギャングに襲われた時に、なぜか近くにカンフーベンチ(板凳)があったりとか

こういうのw(劇中では緑に塗られてましたけど

あと、誰がアイデア出したんでしょうね~ローラースケートでのレース。

日本でも70年代に大流行は確かにしてたんですけど

それを劇中にレースとして組み入れてくるなんて!!

スポーツ×アクションはジャッキーと相性良かったんですね(^^)

お話的にはなんじゃそりゃなとこは多いのですがw

あと最後に繰り広げられるストリートファイト

やはり当時、アメリカは一撃必殺!のアクションスタイルが主流で手数の多さや主人公がやられるリアクションなども盛り込んだジャッキーとは合わない部分はあったと思いますが、それでも見どころがいっぱい。

普通の体格の人がレスラー級の体格の人に勝っちゃうんだから


でも考えてくださいよ、いきなりアメリカへ行って映画取ろうものならですよ。監督さんはブルース・リーの作品を手掛けた方だし、なんかどこかで迎合しちゃったり、相手の意向を忖度してしまったりしちゃうんじゃないかと思うのだけどね

そんな事全くしてないのよジャッキーは。

そういうとこが特に、ファンになって良かった~と感じる部分です、はい✨

ついでに上記に書いたような迎合や忖度的な考え方って

あ、長い間アメリカの犬として従順に振る舞ってきた日本人特有の考え方なのかなもしかして?とかも少し考えさせられますね←自分を省みるきっかけ

(当時のジャッキーが)若かったというのもあるのかなw

でもなんにせよ、ジャッキーがアメリカ進出へと挑戦した作品で作品であることは間違いないですね(^^)

でもこの当時はまだまだブルース・リーと、当時海外で認知があった「空手」と絡めた質問を受けまくって憤慨してたみたいですけどね~

ジャッキーは香港や日本ではやっと有名になり、人気が出てきただけで

一歩外へ出てみたら彼が何者かも知らない人ばかりだった

井の中の蛙大海を知らず

でもこの時の経験が無ければ、後々の活躍もありゃしませんからね~

まだご覧になってない方も、是非ご覧になって下さい(^^)

オモチロイヨ!!


最後まで読んで頂き、ありがとうございます(^^)


私はジャッキー・チェンを良く知らない、最近知ったばかりの方へ向けて記事を書いていきたいな~と思います。 メリケンコさんのYouTubeで訳詞を提供しております。そちらもどうぞ https://www.youtube.com/c/moriatomerikenko/videos