山上の説教
マタイの福音書5章1〜12節
山へ登って教える
群衆は、イエスの話を聞きに色々な場所からやってきました。そこでイエスは、山に登られて群衆に教え始められた。群衆は何をイエスに何を求めていたのでしょう。イエスはその群衆に向かって、天の御国とはどんなところか、天の御国に入れる人たちとはどんな人たちか、話しました。
逆説的な幸い
上記のようなことを言われたらどう感じますか?
イエスは「幸い」の定義をわかっているのか?
訳がわからないことを言って注目を集めようとしている?
全て逆なら「幸い」と言えるだろうに・・・
一つ例に挙げてみると
”心の貧しい者は幸いです。”
そもそも、”心の貧しい”もよくわからないことである。
心が満たされていないということなのだろうか?
普通なら、心が満たされているから幸いであるのに、心が満たされていない者が幸いとはなぜだろう?
それは、天の御国(神の国である天国)が手に入るからだと続く。
心のコップ
さらに、心をコップに置き換えてみよう。
左は空っぽのコップを持った心の貧しい人
右は自分でコップを水で満たせる心の富んでいる人
しかし、その時に、イエスが特上の飲み物を注ぎにきたとしたら、二人はどうするだろう?
言うまでもなく、空っぽのコップの人は、喜んで注がれることを願い、コップに特上の飲み物をもらうだろう。
一方、水で満たしている人は? 想像が難しい・・・
もしかしたら、急いでその場で水を飲み干すか、水を捨てて、イエスから特上ドリンクを注いでもらうかもしれない。それなら、何も問題ないだろう。
しかし、自分で注いだ水が無駄になることを認めたくない、手放したくない思いが強い場合、なんと、強がって水で満足しているふりをするかもしれないのだ。
それだけにとどまらずに、イエスの用意した特上ドリンクにケチをつけるのだ。
「もっと早く持ってきてくれれば、自分は苦労しなかったのに。」
「特上のドリンクを持ってくると、早く教えてくれればよかったのに。」
「もしかしたら、特上ではなく、偽物のドリンクなのでは?わたしの用意した水の方が、価値があるに決まっている。」
「そんなドリンクいらないね!自分は、満たされているから、満たされていない人がお世話になればいい。自分は自分で大丈夫。」
など
イエスの特上ドリンクが天の御国(神の国)への切符である。
それを受け取るか拒否するか?
天の御国
天の御国とは、この世界の価値観や考え方とはスケールもグレードも違っている。人間界をはるかに超えているため、私たち人間には理解不能なのである。
だからこそ、逆説的な幸いと人間には思えても、神の領域においては何もおかしいことがない、むしろ完全な幸いのあり方なのだろう。
心が貧しい者にも、貧しくない者にも、天の御国は用意されています。
イエスの「〜は幸いです。」の後の内容が、私たちには必要なのです。
それを自覚していけると良いですね。
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