『ONE PIECE』【十字架上のキリスト・ゾロ】Vol.3
『ONE PIECE』コミックス【第1巻】「第3話 ”海賊狩りのゾロ”登場」
はじめに
この第3話に出てくる”ロロノア・ゾロ”は、まさに”イエス・キリスト”の姿に映る。
「ゾロ」=「イエス」の構図
共通点を見ていこう!
まずは、その第3話の前提の話をしていきます。
https://saandle.com/one-piece-and-christianity3/
コビーの夢 ”海軍基地” へ
コビーは、ルフィによって解放され自由となったが、むしろ本当の夢に向かうのはここからであった。コビーは正義の象徴の海軍へ、まさに”憧れた夢”へ進んでいく。救われて終わりではない。
しかし、その”海軍基地”の実態は、夢とはかけ離れたものであった。人々と海兵たちを権力と恐怖によって縛り付ける場所だった。
町の人々の様子に思わずコビーは
と不審がってしまいました。
この海軍を聖書側に置き換えると、まさしく祭司長、律法学者、パリサイ人であり、神に仕える義なる聖職者たちと重なる。
”偽善者たちよ”と表現されてしまう真の正しさからかけ離れた人々。神よりも人間の自分のことしか考えていない、どうしようもない人々であった。
ここでも、イエスによって、律法学者やパリサイ人による偽善が指摘されている。人を正しく教え、導く立場の人が偽りに満ちているというのである。
つまり
「海軍基地」=「ユダヤの宗教指導者たち」
自分の権力・名声・財力を何よりも大事とし、人々のことなどを利用するだけの人々である。
特に、モーガン大佐は当時のユダヤを武力によって支配していたローマ皇帝、ヘルメッポはその陰で自分の地位を築くユダヤ宗教指導者と言えるだろう。
コビーとルフィーのゾロの見方
ゾロのうわさ
ゾロには、「海賊狩り」「恐ろしい奴」「血に飢えた野犬」「賞金首をかぎまわる」「海をさすらう男」「人の姿をかりた”魔獣”」という評判やうわさがあったことがコビーの話からわかる。
次に聖書を見てみよう。
*”人の子”とは”キリスト(救い主)”の別の言い方です。
つまり、ここでイエスは自分のことを人々はどんな存在であるか、また弟子たちは自分のことをどんな存在として信じているのかと問いかけています。
イエスを「ただの人間」として見るか、ヨハネやエリヤやエレミヤといったユダヤの歴史的に有名な「神の使者」と言ううわさ通りの人として見るか、「神の子キリスト(救い主)」として見るかと言うことです。
ゾロを「海賊狩り」「恐ろしい奴」「血に飢えた野犬」「賞金首をかぎまわる」「海をさすらう男」「人の姿をかりた”魔獣”」と見るか、「約束を鵜呑みにするバカな奴」、「いずれ処刑される犯罪人」、「関わると面倒な奴」と見るか、「女の子を助けた救世主」、「仲間にすべきいい奴」と見るかと言うことと似ています。
コビーは、ゾロをなんと言うのでしょう?またルフィはどうでしょう?
告白
この聖書箇所は、イエスが十字架にかかった時の場面である。イエスの他に強盗が二人一緒に磔にされた。一人はイエスを罵り、一人はイエスを信じた。
噂を鵜呑みにしているコビーと、「ふーん」とうわさはうわさでしかないから、自分の目で見て確かめるルフィであるように思える。
コビーはゾロを罵り、ルフィはゾロを信じた という構図に思える。
人の姿を
人を超えた存在
人の姿をかりた魔獣:ゾロ
人の姿となられた神:イエス
イエスは、神(神の子、子なる神)であり、その神が人間の姿をとってこの地上に来られた。それがクリスマスの出来事である。100%神であるイエスが100%人間になった。人間の理解では矛盾に思える神の論理である。
ゾロが海軍に捕まった理由
約束と仁義
約束を信じて十字架の磔刑に従う。やろうと思えば、逃れることはできた刑であった。
回避できた苦しみを敢えて受ける二人
脱獄を試みた際のゾロの強さ
神の子であり天の軍勢を送ることができたイエス
約束を守る
1ヶ月生き延びたら釈放という約束(三日後に処刑であったが、脱刑する):ゾロ
十字架で父なる神から見捨てられて死んでよみがえる(三日後によみがえる):イエス
では、ゾロという人物は、磔に値する罪を犯したのか?
町に一人の女の子が狼に襲われたのを助けるために、ゾロはその狼を斬った。町の人々は、放し飼いにされていた狼に困り危険視していたが、その狼は町の人々が恐れるモーガン大佐の息子ヘルメッポの飼い狼であったため、文句も言えずにいたのである。
本当の正義とは?と私たちに問いかける話である。
純粋な贈り物
ゾロに助けられた女の子が差し入れする場面で敢えて冷たく接して女の子の危険を回避しようとした。でも、最終的にはその思いをしっかりと受け止めた。してくれたことへの感謝と仁義を果たした。
ヘルメッポのせいで泥まみれになったおにぎり。決して食べられるものではなかったはずであるが、自分のために女の子が命をかけて作ったおにぎりを食べ切って礼を伝えるように話す姿である。
ルフィもこのゾロの思いを汲み取り女の子に伝えに言った。
聖書の中にも、イエスを信じた女の人が、これから十字架にかかろうとしているイエスに対して信仰を献げる場面が見られる。
頭に油を注ぐというとピンとこない行為であるが、当時のユダヤでは王様の頭に油を注ぐことが王として選ばれる行為であった。つまり、女の人は、イエスをキリスト(救い主)として、自分の王としての告白を行ったのである。
そして、イエス自身がこの女の人がしたことがすべての人に知らされることになると称賛したのであった。この行為は、イエスの十字架での救いの計画をよく理解したものであり、埋葬の準備となったのである。ほかの弟子たちやほかの人々は、救い主が十字架にかかって死ぬなどあり得ないことであった。また利益のことばかりを考えているために高価な油を献げる女の行為をもったいないと思ってしまった。
ルフィの怒り
ゾロを理不尽な冤罪で捕まえ、女の子の代わりに磔にし、無理な条件を突きつけ、ゾロの約束を踏みにじったヘルメッポに対して、ルフィは怒りを覚えた。そして、仲間に引き入れると決めて、ヘルメッポに手を出した。
ルフィは、ゾロに興味がある。ゾロという人物を表す言葉は”約束”である。
”自由”で解放を目指すルフィと”約束”を守るゾロ。
一見真逆のような二人はうまく行くのだろうかと思ってしまうが、ルフィはゾロの約束をとても大事にしていた。
イエスが父なる神との約束「全世界の全時代の人々を救うために、その全人類の罪をイエスに負わせて十字架で罰する」を守った。それを嘲笑って否定する祭司長と律法学者、パリサイ人たちであった。私も彼らに対して怒りを覚える。しかし、他人事ではない。彼らの嘲りと否定は、自分の内にある罪と同じであるのだ。
さいごに
イエスとこの第3話のゾロの姿に共通点が多くある。またこの話から以下のことを考えさせられる。
「約束を健気に信じて従う」
「冤罪で十字の磔にあい、苦しめられる」
「自分の権威を守る人たちの愚かさ」
「真実を知っている者のささげ物と怒り」
次の4話も引き続きこうしたテーマが扱われている。
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