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黎明の蜜蜂(第17話)

あの日、支店長を激怒させてしまった後、涼子は外出中に溜まった書類を片付けて夜遅く帰宅した。憂鬱だったが、しかたないな、という気分であった。

その次の日は、支店長と自分の見解の相違は、やはりコンプライアンス部門という第三の視点からの評価を仰いだ方が良いかと考えながら業務をこなしていた。

鷺沼はその間、店のフロアには一度も出て来ず支店長室にこもりっきりだったが、午後遅く急に涼子の席にやってきた。昨日とは態度をころりと変え、妙に下手に出てくる。

「例の不動産案件はお箱入りにしたよ。高島さんの言うとおりだ。あんな物件は当行が扱うにはふさわしくない」
いやあ、高島さんのお蔭で変なリスクを負わなくて済んだ、ともみ手をせんばかりに言う言葉は支店長のどこから出てきているのだろう。腹から出てきてるのでないことは確かだ、と涼子は思った。

その後は何事もなかったように一カ月が過ぎ、次の人事異動の時期がやってきた。鷺沼は辞令の出る数日前、わざわざ涼子の席までやって来た。君もそろそろ次に移る時期だろう、次は良い所に移れるように言っておいたからね、と囁いてくる。

他意のなさそうな満面の笑顔に、涼子はありがとうございますと頭を下げた。支店長も、業績へのプレッシャーから一時は無理を言ったが、結局は分かってくれたのだろうか。

数日後、辞令を受け取った。「ゆうゆう銀行調査部への出向を命ず」それだけだ。驚いた。何故?と思った。憶測が頭を駆け巡った。そして落ち込む気持ちに襲われた。

何とか冷静に、その日の業務を終え帰宅すると虚しさと憤りにかられた。この度の不動産案件で支店長と揉めたのが原因なのか、いや、それは憶測にすぎない。でも、支店長は何故わざわざ私の席まで来て、次は良い所にと囁いてきたのか。

考えても仕方ないと分かっていても、頭の中を様々なことが堂々巡りした。父はどう思うのだろう。

実家に電話をしたら、数回の呼び出し音の後めずらしく父が出た。
「あら、お父さんが出るなんてめずらしいわね。お母さんはいないの?」
「いや今、風呂だ。上がったら掛けなおすように言うよ」
「あ、いいの。お父さんの方がいい」
「何だ」
「今日、辞令がでたの。私、ゆうゆう銀行本店の調査部に出向になる」
一瞬の沈黙がある。涼子は電話の前で唇をかみしめる。

父は意外な言葉を発した。
「ゆうゆう銀行本店は、この家から電車で通える所にあったな。帰ってくるんだな。助かるよ」
 

3年前、M銀行に入行して初めて関西の支店に転勤の内示が出た時、涼子は断ろうと思っていた。もちろん栄転は嬉しい。だが、その2 カ月前に父の癌が見つかったのだ。

辞令が出たのは父の入院中だった。手術は成功したとはいえ、既にステージⅡからⅢになりそうなほど進行していたために、今後どうなるか不安だった。自分も側にいて支えたい。

やはり、関西転勤の話は断ろう。そう思って父に話した。父は話す涼子の顔を黙って見ていたが、話を聞き終えると一言、穏やかな表情で言った。
「初志貫徹して欲しいな」
「お父さん」
「総合職で働くと言ってM銀行に就職を決めたのは、涼子自身だよ。同僚の男子行員はこんな時にすぐ転勤を辞退したりするか? 総合職となったかぎり、涼子だってそこはしっかり考えて行動しなくてはな」

それでも渋る涼子に、心配するな、お父さんは大丈夫だと言って、背中を押してくれた。その時と真逆の言葉を父が言うのを聞いて、涼子は戸惑った。だが、すぐに気がついた。

父は、M銀行の大店の副支店長から地銀の調査部への出向という事実を告げた時の、明るく装った涼子の声から何かを悟ったのだろう。これは、涼子の気持ちを軽くしてやろうという、父として最大限の思いやりから出た言葉ではないか。

涼子は声をつまらせた。
いつ帰ってくるんだ? もうすぐだな。そういう父の声に短く答え、うん、うん、と頷いて電話を切った。
 

横に座っている章太郎は憤慨し続けている。
「これは尋常一様のことではないですよ。そんな人事、聞いたことない。高島さんはあっさり受けてしまったんですか? 何故なんです?」
「正直に言うと、辞令を見た時、私も意外だったというか、ちょっとショックだった。でもね、父に報告すると私が帰ってくると言って喜んでくれたのよ」
涼子の眼にうっすらと涙が浮かんだように見えた。

「そうなんですか。それは大きいことですよね」
「実は父は癌で療養中なので、私もずっと気になっていたのよ。このまま進行していけば母の負担も増えるし、老々介護も難しいと思っていたの」
「そういう風に言われれば、僕は何も言えないです。ゆうゆう銀行への出向は、高島さん自身にとって悪い話でもないと思われたのですね」
「そうね」

「分かりました。でも、僕はその不動産案件について、今日もっときな臭いことを聞いたんです」
「私もよ。と言うより、今日櫻野君からのメッセージにすぐ返信できなかったのは、M銀コンプライアンス部門の聴き取り調査が丸一日あったからなの」

「怪しい不動産売買にうちが関与するのを、高島さんが阻止した経緯を聞きたがったのですか」
「と言うより、私がその怪しい不動産売買を主導したと言うのよ」
「それは逆でしょ?」

「そう。でも、その関係書類の決裁欄に私の印が押されていたから、首謀者は私だと」
「決裁印など押さなかったのでしょう?」
「さっき話した通りよ」

「じゃ、誰かが捏造したんだ、その書類。そんなこと、もう完全に犯罪ですよ。犯人をあげて、身の潔白を証明すべきです」
「ええ、その通りよ。これは、辞令が左遷かどうかというのとは次元の違う問題だわ。決して容認できない。私が押さなかった印を誰がどうやって書類に押したのか。絶対にはっきりさせるわ」

「僕も協力させてください。何でもおっしゃってください」
「ありがとう。本当にありがとう。これに関する情報は、何でもありがたいわ。でも、決して無理をしないで。櫻野君に火の粉が降りかかるようなことだけは避けてね」

「大丈夫です。僕もこう見えて、M銀にもう10 年以上勤めているんですよ。行内の歩き方は心得ているつもりです」
章太郎はカウンター席に腰かけたまま肩から横を向き、涼子の顔をまっすぐ見た。
                      (第18話へ続く)
黎明の蜜蜂(第18話)|芳松静恵 (note.com)

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