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黎明の蜜蜂(第15話)

スナックの木のドアを開けると、奥のカウンター・チェアに涼子が座っているのが見えた。声を掛けてくるバーテンに頷き返して、奥へ急ぐ。

「お待たせして、すみません」
「いえ、私も今来たところ。メッセージになかなか返信できなくてごめんなさい。午後6時まで拘束されていたのよ」
涼子は少しいたずらっぽく微笑んだが、眼のどこかに真剣な光が宿っている。

「僕にできることがあれば、何でもします」
「今日のニュースに出た不祥事に私が関わっていると、もう既にM銀中に噂が広がっているようね」
「何かの間違いですよね。でも、何がどうなっているのか僕には分からないです。教えて頂けませんか」

涼子は、それとなく店を見回す。低い音量のBGMに客の話し声が溶け込んで、うるさくはないが店内は混とんとした音に満たされていた。

「こちらは壁、櫻野くんの隣は二つ席が空いているし、ここなら大声を出さない限り話し声は他には聞こえないわね。でも、できるだけ固有名詞は出さずに話しましょう」

「僕が一番先に知りたいのは、高島さんが何故この事件に巻き込まれてしまったかです。これだけのニュースになっているのですから、不動産価格を吊り上げて売買を行ったというのは事実かと思われますが、高島さんは関係ないでしょ?」

「世の中の低金利状況が続く中、銀行はこぞって手数料ビジネスに力を入れなくてはという音頭を取り始めたわよね」
「ええ、うちも例外ではない」
「支店間競争の中で、そういうプレッシャーはものすごく強くなってきたのよ」

「それで富裕顧客層向けに、不動産物件の紹介をすることも始めたわけですね」
「情報提供だけする形だけど、もし顧客が不動産売買をする場合は大きなお金が動くから、ビジネス・チャンスは格段に増える。支店としては嫌でも力が入るわね」

「そこに、この物件が出てきた」
「価格は3億円。このお客様はうちでローンを組むことになっていた。そして、この案件にはグループ会社のM不動産も買い手側の仲介業者として絡んでいるから、支店がアドバイス料を得たり貸し出しを増やせる他にグループとしての業績にも影響する。業績だけでなく、手数料ビジネスや、規制緩和後にグループ企業となったM不動産の実績となれば、アナウンス効果も期待できる」

「かなりの業績インパクトを期待できる案件だったのですね」
「そう。でも物件の案内そのものは、情報提供するだけだから、その決裁権限は副支店長レベルに与えられていた」
「で、決済したのですか」

「いえ、そもそも決裁と言っても対象物は情報という曖昧なものだけど、私は何か引っかかるものを感じたのよ」
「その物件にですか?」
「ええ、書類そのものは全部きちんとしていたけど。レントロールも含めてね」

「レントロールって、何ですか?」
「賃貸不動産における賃貸借契約の状況についてまとめた書面のことで、家賃明細表とも呼ばれているわ。レントロールは、物件管理を委託されている管理会社が月に一回程度の頻度で作成し、物件オーナーに提出することが一般的なんだけど、そこには入居者の家賃、敷金、入居年月日などが記載されているのよ」

「詳細なデータが記載された書類なんですね」
「そう。その書類自体はとても精緻にできていたのよ。でも、何か釈然としなくて」
「そんなにきちんとした書類なのに?」

「ええ、以前この物件の近所を通りかかったことがあって。どう見ても、記載されている家賃を取れるような所と思えなかったのよ。それで、もう一度辺りまで行って歩き回り、その物件を実際に見てから近くにある不動産屋の貼り広告も色々見たわ。大体の家賃相場を知るためにね」

「すると、高島さんの推測通りだった」
「そう。それで、その足でこの物件を斡旋してきた不動産会社を訪ねたの。売り手側の仲介業者よ」
 


涼子の脳裏に、細かい雨が降り続いたその日の光景がくっきりと蘇ってきた。

小さなビルの一階に店を構えたその不動産屋の看板には幾つかの支店住所も書いてあったが、地場の不動産屋であることに変わりはない。店に入って担当者に会った。

若いのに街のほこりを吸い尽くした感のあるその男は、楢崎宇宙と書いた名刺を出し「ならさきそら です」と自己紹介した。宇宙と書いて、そら、と読ませるキラキラ・ネームが妙に不釣り合いに見える。

涼子が出した名刺を見て「これは、これは、副支店長さん直々のお出ましで」と古い映画で覚えたような世慣れた挨拶をし、横の小部屋に案内した。お茶を持ってきたスタッフが去ると、早速聞いてくる。

「今日は何の御用で?」
「今回ご紹介くださった物件を見てきました」
「おやおや、M銀行の大店の副支店長さんが直々のデューデリジェンスですか。それはご苦労様です」
「大切なお客様に多額の資金を要する案件をご紹介するのですから、当然です。早速ですが、レントロールの数字について少しお伺いします」

楢崎は、もちろん、と余裕のある笑みをして見せる。涼子は持ってきたコピーを出す。
「このアパートは一室、一月一律で5万円で賃貸されているのですね。しかし、この辺りの同様のアパートは一室せいぜい3万円で貸されています。その1.7倍近くもの賃料が払われているのは、不思議ですね」

「はあ、しかし、レントロールには事実しか記録していませんよ。大家さんが家賃用として使っている通帳のコピーも添付してあったはずです。そこまで丁寧にしているんですよ、こちらは」
それでも納得の行かない顔をしている涼子を小馬鹿にしたような態度になる。

「あのアパートの大家さんは面倒見が良い人ですからね。それに惹かれて入居を希望する人も結構いるんですよ」
あのアパートは特別な魅力があるのです、大家さんが慕われているのです、と楢崎は主張し続ける。それ以上のものは得られないと悟って退出した。

本当だろうか? 確かに、アパート経営も厳しい環境が続く昨今でも、住民とのコミュニティー運営や賃貸条件のユニークさで高い人気を得ているアパートがある、など先日もテレビの特集番組で見た。

それでも、と言うより、楢崎を知ってますます釈然としない気分が高まり、涼子の足は再び例のアパートの方に向く。考え込みながら、アパートの前を2度行き来した。

3度目に前を通りかかった時、突然その木造2階建てアパートの1階右端のドアが大きな音を立てて開いた。一人が慌てて外に出て、中からもう一人が飛び出す。

「あんたら、俺らみたいな生活保護受けてるもんを馬鹿にしてるやろ! なんや、こんなボロアパートに放り込みやがって!」
先に出てきた方は、両手をホールドアップのような位置まで上げて、まあまあ、と言って相手をなだめようとする。だが相手は、ますます激高するばかりだ。

「こんなアパートせいぜい3万で借りれるやんけ! それをなんや、住宅手当上限の家賃で借りさせて! どういうつもりや! そのぐらい俺らに調べられへんと思てるんか! そこら辺の不動産屋の店先に同じようなアパートの宣伝がぎょうさん出てるんやで!」

「まあまあ、落ち着いて。これは支援パッケージの一環なんですよ。トータルでね、トータルで考えてくださいよ。決して悪いようにはしませんから」
「トータルて何やねん?」
「これから住民登録もして、就職活動もせなならんでしょう? 我々の支援活動にも費用は要りますねんで。それを利用者さんにはなるべくご負担掛けんように思うて、色々工夫してますねん、こちらは」

「どんな工夫しとんのや?」
「それは、色々と細かいこともありますから、トータルで任せてくださいと言うてますねん」

あれこれ言われて、アパートの住人は分かったような分からないような顔をして、余韻のようにぶつぶつ言い続ける。相手は、さあさあ、こんなとこにおったら雨に濡れまっせ、悪い様にはしませんからと繰り返しながら住人の肩を押して部屋に戻した。

立ち聞きするつもりはなかったが、思わず聞こえてきた会話で全てを理解した。「貧困ビジネス」と言う言葉が耳に響くような感じがした。

以前どこかで聞いた言葉だ。国が支給する生活保護費を食い物にするビジネス。その時取り上げられていたやり口とは違うが、国の福祉政策に乗じるという点では同じだ。

その報道番組では、背景には、国は個別のケースにまで細かく入り込むだけの人的余裕がないという実情がある、と言っていた。そこに色々な人が入り込む。善意の活動を行う人もいれば、お金儲けだけが目的で支援が必要な人と国の間の隙をついてくる人間もいる。

どこでも、何が対象であっても、起きうる現象かもしれない。しかし、M銀行がそれに加担するような真似はできない。涼子は強く思い、歩調を速めた。
                          (第16話へ続く)
黎明の蜜蜂(第16話)|芳松静恵 (note.com)

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