別解を意識する
学問のうち、算数や数学では解法が複数あったりする、というのは学生さんであれば気づくことがあるとは思います。
解き方が1つわかればいいじゃん、というのは筆者自身も現役学生の時に感じたことではあるんですが、解法のプロセスを複数知ることで応用問題の解き方が見えてくるようになったり、はたまた同じ問題であっても別の解き方のほうがすんなり理解できたりすることは多々あります。
解き方がわからないから誰かに教えを乞う、そのこと自体はなんの恥ずべきこともありません。そもそも別解が複数ある問題でもまずどれかにたどり着かないことには始まりませんし。
ただ、そこで解を知った時点で満足するのではなく「なぜこの解に結び付くんだろう?」という思索にふけ、結果別解の導き出し方に気づく…これ自体には意味があることだと思っています。
この辺は教える側も教えられる側の技量に応じて、とりあえず解法を1つ提示するか、それともその人だけの力だけはたどり着けそうにないので別解を提示してあげるかは考えてみるのもよいかもしれません。
勿論、この辺の話は別段算数や数学に限った話でもありません。
日常生活や身近な課題(仕事を進めていく上での課題など)であっても、難しい課題や当たり前のようにこなす課題に対しこの解決方法じゃないとダメなんだ、と突き詰めてしまわず如何に別解にたどり着けるか…という考えを常日ごろから頭に置いておくのは悪くないんじゃないかな、とも思います。もちろん、誰かとの会話の中でぽろっと別解が出てくることもあるでしょう。これは家庭での親子関係や会社での部下と上長、どちらであっても言える話かなと。
一方、教える側から「この方法しかない、他の解決方法はない」というような言い方をされた場合。
実は問題の解決方法としての別解が暗に存在しつつも、話し手側が気づいていない、もしくは気づかれたくないという意図があるかもしれません。ほかの解決方法を使うことに対して脅しをかけるような話があった場合はなおさらの話。
追記:
ここまで書いたところで別解に対する良い記事が下のほうに出てきたりして公開を止めようと一瞬考えましたが、「(自分の頭で考えたうえで)別解があることに気づく」ことが重要なことだと考えているのであえてそのままにしておきます。