映画考察『リアル・ペイン~心の旅~』ネタバレあり
Ver2.1
他の人の感想を読んでいて色んな解釈があるんだなあと思ったので、じゃあ自分はこの映画をどのように観て解釈したかを書いてみる。
まず前置きとして、ストーリータイプでは映画冒頭から数シーンのことをオープニングイメージと呼んでいる。
オープニングイメージの役割は、変化する前の主人公を見せると同時に「このストーリーは何についてを語るストーリーなのか」を示唆することだ。
本作のオープニングイメージでは、空港の待合室で行き交う人々をただ眺めているベンジーと、空港へ向かう準備をしながら都度ベンジーに電話をかけ、これを聞いたら電話を返してほしいというメッセージを留守電に残す主人公デヴィッドが描かれる。そして、最後には留守電メッセージが一杯で残せなくなる。
メッセージが一杯になるのは、ベンジーが電話に出ないにもかかわらず、それだけ何度も電話をかけているということだろう。
つまりこのオープニングイメージが示唆しているのは、このストーリーはデヴィッドが留守電メッセージが一杯になるほど過度にベンジーを心配するストーリーであるということだ。
そしてその後「荷物を手放さないようお気をつけください(うろ覚え)」という空港内アナウンスが字幕で表示される。
他にも空港内アナウンスは流れていたのに、なぜ上記の一文だけ字幕で表示したのか?
それは、その一文が重要だからだ。
ということは「荷物を手放さない」というのがプレミス(前提)だろう。
プレミスというのは、ストーリーに投げかけられる問いかけのことである。
この問いかけに、どのような答えをどうやって導き出すかによって、映画のテーマが浮き彫りにされる。
テーマとは、ストーリーを通じて観客に伝えたいメッセージであり、ストーリーをどう展開していくかというベクトルを決める指針となるもののことだ。
では、プレミスの文言にある「荷物」とは何を示しているのか?
この映画のタイトルからして「荷物」とは人が抱えている痛みのことだろう。
つまりこの映画は『デヴィッドはベンジーを過度に心配する中で、痛みを手放すのか?』を語るストーリーであるということが分かる。
では、デヴィッドが手放すかどうかを問われている痛みとは何か?
これを明らかにしていくのが、この映画の本筋だ。
第二幕前半、ツアー参加者たちの抱える痛みが明らかになっていく中で、デヴィッドはベンジーに、薬を飲んだりはしてるけど自分は大丈夫的なことを話す。
このことから、デヴィッドは自分には抱えている痛みなどないと考えていることがうかがえる。
だが、本当に痛みは無いのか?
いや、本当は抱えている痛みがあるのだ。
それが示唆されるのが、ピアノ演奏をバックにツアー参加者全員で夕食を取るシーン。ここがミッドポイント。
ミッドポイントでデヴィッドは、ベンジーが半年前に睡眠薬をオーバードーズして自殺未遂をしたことを泣きながら話す。
第二幕後半はデヴィッドが自身の痛みに気付いていくターンになる。
第二幕後半すぐ、朝起きると同じ部屋に泊まっているはずのベンジーがいないことにデヴィッドは焦る。
ダイナーのシーンとベンジーがいなくて焦るデヴィッドから察せられるデヴィッドの抱える痛みとは、祖母の死をきっかけに鬱を発症して自殺未遂をしたベンジーが、もし再び自殺をはかって今度は死んでしまったらという、ベンジーを喪失することへの恐怖だ。
その痛みを手放すことになるのは、2回目の屋上でベンジーと葉っぱを吸うシーン。
デヴィッドはベンジーが自分にとっていかに大切な存在なのか、どれだけベンジーを心配しているのかという感情をぶつける。
しかし、対してベンジーは曖昧な返事を返す。
こうして抱える痛みを吐露してもベンジーは変わらないことを確認したことで、デヴィッドは痛みを手放す。
オープニングイメージではベンジーに何度も電話をかけていたデヴィッドが、ストーリーを通じて痛みに気づきそれを手放したことで、要件があればそっちから電話してこいとベンジーを突き放す。
これは、ベンジーを失うことに恐怖して干渉してもベンジーを変えることはできないという事実にデヴィッドは気付き、それを受容したということだ。
そしてファイナルイメージで、デヴィッドは自宅の玄関前に石を置く。
これは、ツアーに出発する前の痛みに気付いていなかった自分にRIPということだろう。
ということで最終的に、この映画は「他人を変えることなど出来ない」という、いわゆる普遍的なテーマを扱ったストーリーであると自分は解釈した。
1回しか観てないからあちこちうろ覚えでちょこちょこ間違ってるかも。
まあ、知らんけどね。