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イメージ・7月の夜


窓からの規則正しい虫の声

「リー・リー・リー・リー・・・・」

その声は、夏という季節を巻き取り、極まらせ、そして終わらせていく。


* * * * * * *


毎年6月末からこの時期にかけて私は夜更かしをする。
全英テニスをテレビで観戦するからだ。

梅雨の時期だが、雨が降っていなければ夜風を入れるために家のあちこちを開け放っておく。細い雨がさめさめ降っていても窓は少々開けておく。

ふと気づくと、外からの生ぬるい気配とともに「リー」とも「ヂー」とも聞こえる虫の鳴き声が、一定のリズムで規則正しく聞こえてくる。

「リー・リー・リー・リー・・・・」

テニスを見終え、戸締りをして2階のベッドに横になっても、2階ゆえあちこち開けてある窓から同じ虫の音が、生ぬるく気持ちの良い風と共に聞こえてくる。

「リー・リー・リー・リー・・・・」

それを聞くと毎年思うのだ。
「ああ、夏が極まってゆく」

「リー・リー・リー・リー・・・・」の声は夏という季節を、ぜんまいを巻くように巻き上げ、きりきりと絶頂へと導いていく。

そして夏は極まり、しかしその陰でもう死を孕んでいる。

梅雨によって、みちみちと夜の闇にも伸びていく畑や道ばたの草。
生命力に溢れながらも、それは青いさわやかなにおいばかりを発するのではない。
草の陰には湿気で生えたきのこが腐りかけ、木から自然に落ちた果実、我が家でいえば青い柿の実や出来損ないのなすやきゅうり、むしって山と積んだ雑草、周りの畑では手入れされ落とされた桃やぶどうの実が、朽ちていく。そのにおいが、夜風にはむんわりと混ざっている。

虫や小さな生き物の土に還ろうとしている死骸もまた。


ひと月前には、近くに一枚だけある田んぼから蛙の鳴き声が爆発的な喜びを伴って聞こえていた。

その声を運ぶ夜風には死の気配などみじんもなく、あくまでもみずみずしく爽やかだった。
蛙の声もただただひたすらに生命の誕生だけを謳っていた。
これからやって来る夏を100パーセント歓迎する毎夜の鳴き声。


でも今、その夏はすでにやって来て、そして極まって朽ちていこうとしている。
その気配が、もうすでに梅雨の終わりの夜には感じられるのだ。


もちろん、これから梅雨が明け、青い夏空と入道雲、ザ・夏!
大歓迎である。胸が躍る、わくわくする。

あー夏休み!

でもある朝、そう、8月も7日頃、暦の立秋を過ぎたあたりで、ふと朝の風の気配が違うことに気づいてしまう。
湿り気と熱気を含んだ夏の風でなく、からりとなんだか空っぽな秋らしい風が吹いていることに・・・

そして思うのだ。ああ、夏は極まって、死んでしまったのだな、と。

そこから先も残暑と夏休みは続くけれど。


このイメージは、多くは夢枕獏の「陰陽師」の一節によってもたらされたと思う。
それと、まだ小学生だった頃の思い出。

おチビの私は、だらだらと夏休みを満喫していた。
そしたらある朝、そう、ちょうど立秋の頃、早朝の桃の収穫から帰って来た母が言ったのだ。
「ほら、もう秋の風がふきはじめているよ」と。

母がどんな表情で言ったのかは覚えていない。
本当に短い一瞬の時期が勝負の桃農家だったから、ほっとした気配(これで少しは涼しくなる、今年も無事に桃の収穫を終えられそうだ、というような)を漂わせていたのかもしれない。

しかし私は終わってほしくない夏休みの真っ最中。
「秋の気配がするだなんて、8月もまだ初旬にとんでもないことを言うよなこの人は」

と、もがいたけれど、庭に出て風に当たってみれば、絶対に認めたくはないけれど確かにからりと爽やかな風が吹いちゃっていて、なんだか心底がっくり来た、という思い出。


今夜もきっと、あの虫の音が規則正しく夜風から聞こえてくるだろう。

「リー・リー・リー・リー・・・・」

その声は、みちみちと生命を成長させ、腐らせながら、夏という季節を巻き上げ、極まらせ、そして終わらせていく。



* * * * * * *



こんな気分によく合う言葉。

「さよならの度に また来る夏を 待ちきれぬLong Vacation」
(サザンオールスターズ・「太陽は罪な奴」)

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」
(秋立つ日詠める・藤原敏行朝臣・古今和歌集)
 ※「来ぬ」 は 「きぬ」と読み完了形。

「雨が時をはやめる」
(大島弓子・「ほうせんか・ぱん」)



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