
【ショートショート】「地震雷家事育児(3,884字)」
臭う。この嗅ぎ慣れた香りはおそらく子の大便であろう。
もうすぐ一歳になるという子は澄んだまなざしで俺のことを見つめていた。まだ学習能力というものがないのか、その瞳は俺が生まれてこのかた子の尻を拭いておむつを替えてやったことがないという事実に気づいていないようであった。
「そんな目で見ても俺はおむつは替えんぞ」
俺の宣言を理解したのか、子の表情はみるみるうちに変わってゆき、すぐに大きな声で泣き出してしまった。
「こら、泣くな! 仕方ないじゃないか。俺は育児ができないんだ」
あまりにうるさく泣き喚くので、俺はテレビを見ながらごろごろするのをやめてトイレに避難した。このまま放置していれば近隣住民から苦情があるかもしれないが、それも致し方がないことだった。いざとなれば俺が育児恐怖症であることを懇切丁寧に説明すれば理解を示してくれるだろう。
そうこうするうちにゴミ出しに行っていた妻が帰ってきて子をあやしだしたので、俺はひとまず安心してトイレから出た。
「ちょっと、裕太が泣いてるじゃない。おむつ替えろとまでは言わないけど、少しはあやしたり遊んだりしてあげてもいいんじゃないの?」
「馬鹿なことを言うな。地震雷家事育児。どれも俺がこの世で最も恐れるものだといつも言っているだろう。俺は育児恐怖症であり、おむつの交換などすれば気が変になって窓から飛び降りてしまうぞ」
「うちはアパートの二階だから飛び降りても少し怪我するくらいだし、むしろショックでその育児恐怖症が治るかもしれないから試しに飛び降りてみれば?」
「一家の大黒柱に向かってなんてことを言うんだ!」俺は激高した。
「大黒柱って、私のほうが稼ぎは多いし、いまどき家事も育児もできないなんて、パパ失格って言われても文句言えないわよ」
「だから、俺は家事恐怖症と育児恐怖症を併発していて家事も育児もできないんだよ」
「そ、だったら私も今日から料理恐怖症になるから、毎日外食でもいいわよね。仕事恐怖症になって明日から仕事休んじゃおっかな」
こいつ、以前からそのような気配はしていたが、やはり俺の恐怖症を信じていなかったのだ……。俺は唯一の理解者であると思っていた妻の物言いにショックを受け、べそをかきながらアパートを飛び出した。
誰か俺の理解者はいないのか。
とりあえず気を落ち着けるために近所のパチンコ店に入り、煙草を吸いながらパチンコを打っていると、隣に座っていた男がやけにこちらを見ていることに気が付いた。
「なんだ、俺はいま機嫌が悪いのだ」
俺の言葉など意に介さないように、俺よりも一回りは年上と思しき男は言う。
「あなた、ひょっとして家事や育児恐怖症では?」
俺は驚いた。こいつ、なぜ俺のことを知っているのだ。
「実は私、こういうものでして……」
男が差し出した名刺には、このような文字が書かれていた。
【家事・育児恐怖症男性を救う会 会長 諏訪 浩一郎】
「ひょっとして、あんたも……」
「はい。長年、このような会に所属しているとお顔を見ただけですぐにピンときます。これまで誰にも理解されずにお辛かったですね。これから集会がありますので、良ければご一緒しませんか?」
どうせ玉を打ち尽くしたところだ、いや、フィーバー中であったとしても俺は男についていっただろう。気づけば俺はパチンコ屋を出ていくつかの路地を歩き、半地下の薄暗い空間にいた。
そこには数十人の二十代から三十代くらいの男が陰気な表情で立っており、俺にはそこが革命軍のアジトのように感じられた。
いつの間にか、中央には先ほど俺に声をかけた諏訪が立っていた。
「家事恐怖症・育児恐怖症の皆さん、世間からも愛した人からも理解されずにさぞお辛いと思います。世間はやれイクメンだ家事メンだともてはやしますが、あまりに我々への理解が薄い。今日は思う存分、我々の辛い気持ちを吐き出し、共有しようではないですか!」
わっと会場が沸いた。割れんばかりの拍手が起き、気づけば俺は手が真っ赤になるほどの拍手を送っていた。俺はその日のうちに入会を決意した。
※
「休日なのに、また今日も出かけるの?」
アパートの戸を開けて出かけようとすると、背後から妻の声が聞こえた。
振り返ると、子を抱いた妻が俺に対し非難するような視線を送っていた。
心が辛かった。だが俺には、全国にいる家事育児恐怖症の仲間たちを救済するという使命があるのだ。そのために集会に参加し、心の傷を舐め合ったりインターネットでイクメンに対する誹謗中傷やネガティブキャンペーンを繰り返したりする必要があるのだった。
「すまない、俺は――」
俺が言いかけたときだった。どさりと、何かが倒れるような音がした。
驚いて様子を見ると、妻がその場に倒れこみ、下敷きになった子が妻に押しつぶされるような形になっていた。
「裕子! 裕太!!」
俺は妻と子の名を呼ぶと、まず子を抱え上げた。幸い出血を伴うような怪我は無さそうだ。それよりも、妻の様子がおかしかった。肩を揺すっても意識は無さそうで、苦しそうに小さな呼吸を繰り返していた。
「大変だ、どうしよう、どうしよう」
俺がおろおろとしていると、尋常ならざる気配を察したのか、アパートの隣の部屋からいつもカレーや肉じゃがをお裾分けしてくれるおばちゃんが出てきて「なんしよんね、はよ救急車呼ばんと!」と叫ぶので俺は慌てて119番をダイヤルした。
要領を得ない俺と救急隊員とのやり取りを見かねたおばちゃんがすべて説明を代行してくれ、数分後にやってきた救急車に俺は妻子と一緒に乗り込んだ。おばちゃんも一緒に乗ってくれないかな、と思ったがさすがに無理だった。
救急病院で詳しい検査を行った結果、妻は重度の貧血であり、二週間程度の入院が必要ということだった。子は額に絆創膏を貼られただけだった。
「すぐに退院します」
病室で意識を取り戻した妻が最初に言ったのはそんな言葉だった。顔面は蒼白で、このまま死んでしまうんじゃないかと不安になった。
「無茶言うなよ。さっき家で倒れたばかりじゃないか」
一歳の子は意外と重たく、俺はすぐにでも床に置いてしまいたかったが、そういうわけにもゆかず抱えたまま妻に言った。
「いいえ、父の自覚のないあなたには裕太を任せられません」
「だって俺は――」
「百歩譲って家事恐怖症は許します。でも育児は、どんなに怖くても、不安でも、やらなきゃいけないし、私はやってきたんです。それをあなたは怖い怖いって手伝いもしないで」
六人部屋の病室で大きな声を出すのはやめてほしかったが、そんなことは言えなかった。同じ病室にいた数人の入院患者の視線に耐えかね、いや、父親としてのほんのわずかな自覚を糧に俺は言った。
「わ、わ、分かった。お前が退院するまでの二週間、俺が責任をもって裕太を育てるから。だからお前はしっかり治してくれ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
「自己中心的な主張を繰り返す怪しげな会にももう行かない?」
「行かない行かない。だから頼むよ」
「……わかりました。でも何かあればすぐに連絡してね」
そのようにして、俺と裕太の二人の生活が始まった。
※
裕太と二人の日々は控えめに言って地獄のようだった。子というものはどこでもいつでも糞便をするし、おむつを替えようとして糞便が手に付着して「わ、汚ね」と言っても慰めてくれる人もいない。とりあえず寝かせてしまえば静かになるだろうとひとしきり抱いて子守唄のひとつでも歌ってやれば爛々と目を輝かせて俺の顔面を殴打してくる。薬局でレトルトの離乳食を買って口に運ぶと今度は口を一文字に結んでこちらを睨みつけてくる。まるで悪魔だ。俺の育児恐怖症は乳幼児のそのような性質を見抜いていたのだろう。
心の折れかけた俺は気が付けば『家事・育児恐怖症男性を救う会』会長である諏訪氏に連絡して救いを求めていた。しかし、彼からは「赤子は実家にでも預けて皆で飲みにでも行きましょう」としか言われず、実家が遠いことや妻と約束したことなどを告げると「知りませんよそんなの」と電話を切られてしまった。
そんな俺を救ってくれたのはやはり妻だった。妻は初めての育児で半狂乱になっている俺に、「完璧な育児を目指さず、とりあえず二週間死なずに生き延びればよい」と適切な目標を提示し、そのための最適な助言を与えてくれた。その結果、俺は――そして裕太は、二週間という無限にも思える日々をなんとか乗り越えることができた。もはや二人は戦友だった。血色のよくなった妻をアパートに迎えると、俺と裕太は手を叩きお互いを讃え合った。
「へえ、やればできるんだ」妻はなんでもないように言った。
「恐怖症が治った訳じゃない。必死に我慢しただけだ」俺は少しふてくされて答えた。
※
臭う。この嗅ぎ慣れた香りはおそらく子の大便であろう。
もうすぐ一歳半になるという子は澄んだまなざしで俺のことを見つめていた。まだ学習能力というものがないのか、その瞳は俺が生まれてこのかた子の尻を拭いておむつを替えた経験は二週間ほどしかないことに気づいていないようであった。
「そんな目で見ても俺はおむつは替えんぞ」
俺の宣言を理解したのか、子の表情はみるみるうちに変わってゆき、すぐに大きな声を出して泣き出してしまった。
「こら、泣くな! ……仕方ない。硬い便だけだぞ。尻を拭く必要のあるような軟い便であったら俺は替えんからな」
俺は起き上がると、裕太のおむつのテープをそっと外し、再びテープを付けると、「ママー、裕太がうんちしてるー」と大きな声を出した。
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