
【ショートショート】「ゴリラ先輩と僕(3,971字)」
一 コンクリートジャングル
東京は怖い。
それが、僕がこのコンクリートジャングルにやってきて初めに抱いた印象だった。
今日も日差しが強く蒸し暑い。僕は噴き出す汗をハンカチで拭いながら、空いたほうの手で首元に吸い付いていた蚊を叩き潰した。
「それで、先輩。今日の商談なんすけど――」
高いビルとビルの間を、少し前を歩いていたゴリラ先輩の背中に声をかける。先輩は振り返ると、僕の手の中のハンカチを見て嫌そうな顔をした。
「お前、まだそんなもん持ってたのか」
「そんなもんって何ですか。こんなコンクリートジャングルじゃ、こういう文明人の証を身に着けてないと人間らしい心を忘れちゃうもんですよ。良かったら先輩にもお貸ししましょうか?」
「お前の汗でぐしょぐしょのハンカチなんて誰が欲しがるんだよ。まったく、女々しいとうかなんというか」
「あ、この時代に男らしいとか女らしいとか、完全に時代錯誤ですよ」
「うるせー。俺には時代なんか関係ねー」
大げさなジェスチャーでアウトローなことを言い、ゴリラ先輩は歩みを速めた。
今の仕事を始めてゴリラ先輩とは一年ほどの付き合いになるが、その阿呆みたいにデカい体躯どおりの傍若無人な振る舞いを繰り返すゴリラ先輩には振り回されてばかりだった。
「着いたぞ。ぼうっとしてんじゃねー」
ゴリラ先輩の声に顔を上げると、ここらじゃひと際大きいビルが聳え立っていた。
中に入ると僕とゴリラ先輩は三階の部屋へ向かった。そこは緑の多い部屋だった。ゴリラ先輩も故郷のアフリカかどこかを懐かしんでいるかもしれない。
「お前、今失礼なこと考えてるだろ?」
「イエメッソウモナイデス」僕は慌てて否定する。
遅れて部屋に入ってきたのは二人組の男だった。髪を短く刈り込んだ体育会系の四十代男と、その部下と思しきこちらはサルっぽい男だ。
男たちはゴリラ先輩に一瞬ひるんだように見えたが、さすがはここらの物流を取り仕切る相手だけあってすぐに落ち着きを取り戻してみせた。
商談は揉めに揉めた。お互いが互いの権利を主張し、妥協点はなかなか見いだせなかった。僕は剛柔使い分けるゴリラ先輩の交渉術を聞くともなく聞きながら、窓の外を流れる雲を眺めていた。それにも飽きてやがて眠すぎて意識を失いはじめたころ、ようやく商談はまとまっていた。
「帰るぞ」
ゴリラ先輩は指でそう促すと席を立った。相談相手は苦虫をかみ潰したような顔をしていた。外に出るとコンクリートジャングルは美しい夕焼けに照らされていた。
二 東京砂漠
ゴリラはもともと熱帯雨林に住んでいる癖に暑さにはあまり強くないらしい。
我らがゴリラ先輩も、やはりしんどそうだった。それも無理ないだろう。普通の人間である僕でもこの東京の暑さには参りそうになるのに、身長が高く毛深いゴリラ顔のゴリラ先輩であればなおさらだろう。
「いや、違うんだよ。暑さの質っていうのかな。蒸し暑いのは平気なんだけどさ、この辺はカラッとした暑さじゃん? ビルもなくて日差しを遮るもんもねーし、体がなかなか慣れないよね?」
ゴリラ先輩がゴリラっぽい言い訳をするのを興味なさげに聞きながら、僕は今回の出張の目的を思い返していた。
三日前のことだ。
ゴリラ先輩と僕はボスに呼び出された。
ボスの話を聞くと、どうも同僚が関西まで運ぶ予定だった物資にボスが貴重な品物を隠していたのだが、どこからか情報が漏れており別組織に奪われてしまったらしかった。それが非合法な代物で、僕とゴリラ先輩で秘密裏に取り返してこいということだった。
僕は自分が所属している組織のブラックっぷりに改めて引いたが、慣れているのかゴリラ先輩は平気そうだった。
僕とゴリラ先輩は手掛かりを探して灼熱の地を歩き続けた。東京砂漠とはよく言ったもので、砂っぽい風は僕とゴリラ先輩の体力を容赦なく奪った。
「先輩、今さらですけどどこか心当たりあって歩いてるんですか? 俺、なんか蜃気楼とか見えてきたかも」
「気にすんな。俺なんて何時間も前からずっと見えてる」
さすがゴリラ先輩は俺より一枚も二枚も上手だった。
「心配すんな、心当たりがないこともない」
「その心当たりにたどり着く前に暑さでぶっ倒れそうなんですが」
「いい情報を教えてやろう。その心当たりの場所っていうのは冷たい水と新鮮な食い物を出してくれる涼しいレストランだ」
「さながら都会のオアシスですか。この無味乾燥の東京砂漠にはそんな空間が必要ですよね。ちなみに綺麗なねーちゃんはいます? あ、ちゃんとゴリラじゃなくて人間の――」
目の前を星がチカチカと舞った。ゴリラ先輩の拳骨をくらったのだ。
「ほら、見えてきたぞ」
ゴリラ先輩が指さした先には確かにオアシスがあった。
三 都会のオアシス
コンクリート製のこじんまりとした建物だったが、中は格段に涼しかった。
椅子に座るや否や僕は出された水をがぶのみした。生き返った。本気で死を覚悟していたのだ。
窓の外にはこの辺では珍しく湖や木々が見えさながら公園のようだ。そこはまさにオアシスだった。
僕とゴリラ先輩はやってきたウエイターに食事を注文し、もう一杯ずつ水を飲んだ。そこでようやく、僕はここにやってきた目的を思い出した。
「そういえば、さっき言ってた心当たりって? やっぱり嘘で、ここで涼みたかっただけですか?」
「馬鹿。お前と一緒にすんな。男だったから見てないだろうが、さっき注文取りに来たウエイターいただろ。あれがここらの情報通で、もう聞きたいことを書いたメモと金を渡してある。食事と一緒に情報がやってくるって寸法だ」
さすがゴリラの癖に仕事はできる。僕は改めてゴリラ先輩を尊敬した。
すぐにウエイターが食事をもってやってきた。パンと目玉焼きと簡素なメニューだが、腹が減っていたのでなんでも良かった。そして先輩の食事には、本当にメモが添えられていた。
さりげなくメモに目をやるゴリラ先輩の目がかっと見開かれた。と同時に、ゴリラ先輩は席を立った。ゴリラ先輩の手から落ちたメモが宙を舞う。そこには汚い字で『ブツを強盗(たた)いた奴らはカウンターの二人組』と書かれていた。
ゴリラ先輩はカウンターに座る二人組の足元に置かれたバッグを開けた。
「ビンゴだ」僕に向かってにやりと笑うゴリラ先輩だったが、僕は全く笑えなかった。
二人組はゴリラ先輩よりも更に体が大きなゴリラだった。ここはいつからゴリラの惑星になったのだ。
「なに勝手なことしてやがるんだ」片方が凄むが、ゴリラ先輩は意に介していないようだった。
僕が近くのテーブルの下に避難すると同時だった。三体の巨体がぶつかった。
決着はなかなかつかなかった。狭いレストランのあちこちで、拳が、歯が、爪が、ぶつかり合い、辺りは血で真っ赤に染まった。
体中から血を流したゴリラ先輩はその場で倒れこんだ。
「ゴリラ先輩!」僕は先輩に駆け寄った。
「奴らは?」
「さっき逃げていきましたよ、バッグも置いていったみたいです」
「そうか……」
ゴリラ先輩はそれきり話さなくなった。怪我をした腕が動かないのだろう。腕が動かなければ、いつものように手話で会話をすることはできない
四 ゴリラ先輩と僕
かつて人間とゴリラは会話することができなかったという。
だが、数百年前に気候変動により世界が崩壊した後に、生き残った人類はゴリラと共生することで新しい世界に適応することを試みた。人類はゴリラに、知恵と、手話を用いた言葉を与え、ゴリラは腕力により危険な野生生物から人類を庇護した。
東京は日差しを遮るビルが多い地域では植物が群生しジャングル化し、平野部では厳しい直射日光により土地が砂漠化した。コンクリートジャングルと東京砂漠の出来上がりだった。
九州で生まれた僕は二年前に仲間を失い、新たな居場所を求めてここ東京にやってきて、野盗に襲われているところをゴリラ先輩に救われて今の仕事を手伝い始めたのだった。
ゴリラ先輩の応急処置が終わると、僕らはウエイターに礼を言って廃墟を改造して作られたオアシスに面したレストランを出た。取り戻したバッグは僕が背負った。中身は関西にいるボスの愛人ゴリラに送るマリワナバナナだった。ちなみに先日の商談も(こちらは合法な)バナナの取引だ。
「こんな世界で唯一信じられるのはバナナだけだ」ゴリラ先輩はよくそう言ったが、それには僕も同意した。
僕はゴリラ先輩に肩を貸して歩いたが、どうもゴリラ先輩は僕に体重を掛けているようには感じなかった。まあ、約二百キロのマウンテンゴリラを僕が支えられるとは思えないので、そういうことなのだろう。
「おい」ゴリラ先輩はとりあえず動くようになった手を使ったへたくそな手話で言った。「ハンカチ貸してくれるか」
「えー。汚れるじゃないですか。この世界じゃ布は貴重品ですよ」
「まあまあ、固いこと言うなよ」
ゴリラ先輩は僕のハンカチで顔の血を拭うと、「文明人の証か」と呟いた。
「先輩は文明ゴリラですけどね」僕が言うとゴリラ先輩はウホウホと笑った。
五 星の降るような夜に
東京は怖い。
それが、僕がこのコンクリートジャングルにやってきて初めに抱いた印象だった。
ただ、この危険と隣り合わせなコンクリートジャングルには、死ぬほど美味しいバナナがあり、尊敬できる先輩がいた。それだけで、僕がここにいる理由になり得た。ここが今の僕の居場所だった。
「先輩、星が降ってくるみたいな夜ですよ」
僕とゴリラ先輩がアジトにたどり着くころには、すっかり辺りは暗くなっていた。
「お前が言うと本当になりそうだからそれ以上言うな」
僕にはゴリラ先輩の言う意味がよく分からなかった。それに、もし星が降ってきても、ゴリラ先輩ならパンチで粉々に砕いてくれるから大丈夫だろう、そう思った。
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