ルカの福音書 [ルカの思いとローマ帝国]
皆さんこんにちは。
ようやく寒い日も抜け、気温も暑くなってきた!!って思ったら最近は雨続きで髪の毛が大変セットしにくい日が続いているブライアンです(笑)
さて、突然ですが、TCUの皆様は「ルカの福音書」を知っていますか?
え?「知ってるに決まってるわ!天然チリチリパーマ頭がっ!」て?これは失礼しました(笑)
では質問を変えましょう。
ルカの福音書では他の福音書と違い、女性について多く言及している事が特徴的ですが、そんなルカはどのような考えや背景を持って"イエスの誕生"について記したかご存知でしょうか?
今回は、「ルカの福音書 ~ルカの思いとローマ帝国~」と題して、現在とあるミッション系の大学院に通われているOさん監修の元、"本書のイエスの誕生"について話をしたいと思います!
※諸説ある為、「これが正解だ!」と言いたいわけでは無いので、1つの見方として捉えてくれると有難いです!
ルカの福音書では、"イエスの誕生"(洗礼者ヨハネの誕生)が語られている物語場面において、女性をメインに取りあげている、または発言させている箇所があります(1:25、26~38、42~45、46~56、60など)。これは他の福音書やパウロ書簡を見ても分かるように、かなり珍しいことなのです。
つまり、ルカは男性であるはずの洗礼者ヨハネやイエスの誕生場面に、本来登場させなくてもよいはずの女性を登場させたのです(しかもわざわざ、他の文書では描かれていない洗礼者ヨハネの誕生まで描いておいて)。それは一体なぜなのでしょうか?
その回答は"ローマ帝国"と"支配されたイスラエル"の関係にありました。
というのも、ルカの福音書を含め、新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、当時ローマ帝国に支配されていたイスラエルには、ギリシャ文化と同時にギリシャ語も入ってきていました。そこでルカはそのような状況を利用して、"文化や政治体制が世界中で最も優れ、そして多くの国を支配しているローマ帝国で、イエスについて発信し、彼の教えを世界中広めようとしたのではないか"と考えられるのです。
しかし異国の地で教えを広めるためには、その地の文化を学び、そしてそれを教えと組み合わせた上で、ローマ帝国民が受け容れやすいようにしなくてはなりません。その方法の一つとして、「女性の物語」が描かれているのではないでしょうか?
というのも古来ローマ帝国では、アルテミスやアフロディーテなどをはじめとする様々な女神が熱心に崇拝されていて、しかも多神教でした。つまり、ただでさえ多神教と唯一神教は相違点が多いのに、多神教の地で、しかも神は男性神のみの唯一神教の教えを広めるとなると、ローマで広めるには難易度が高かったのです(さらに言えば、イエスも男性です)。
そこでルカは、女性であるエリサベトとマリアに注目し、彼らを誕生物語に登場させることによって、ローマの民衆たちにうけが良いようにして、イエスの教えを広めようとしたのです。
もしかするとここで、主役であるイエスの話以外に、なぜ洗礼者ヨハネの誕生物語も描かれているのか、疑問に思った方もいるのではありませんか?それはこのような理由が考えられます。イエスにとってヨハネは、洗礼を授けてくれた人物でした。彼の洗礼によって、イエスは教えを伝える活動に出発するわけです(宣教という言葉は、ここでは適しません。なぜなら、まだ共同体が「キリスト教」という一つの宗教として独立していたかは定かではないからです)。また、マタイ3:3に「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」と書かれているように、もはやイエスと洗礼者ヨハネは、互いに切っても切れない関係にあるのです。つまり、イエスと同様に洗礼者ヨハネの誕生物語も描かなければ、共同体の中で対立が生じてしまう恐れがあったのです(共同体内に、イエスだけでなく洗礼者ヨハネも信奉するものがいたため、洗礼者ヨハネを蔑ろに出来ずに急遽誕生物語を描いたという理由も考えられますが)。
では、イエスの話に戻りましょう。ルカ書1:26~38では、「天使によってイエスは身ごまれた」と書かれており、「見えないものによって身ごもった」と受け取れます。
そしてイエスの誕生物語は、ローマの文化も入ってきていて、かつイエスが生まれた当時の状況も鑑みると、もしかすると『ローマ皇帝伝』のアウグストゥス帝の誕生と重ねて書いているのではないか?と考えられます。というのも、アウグストゥス帝の誕生物語では、アポロ神の象徴ともされる蛇がアウグストゥス帝の母に巻き付いて、彼女は身ごもったと描かれているためです。
つまり、ルカは神の子としても表象されるアウグストゥス帝と、同じく神の子と表象されるイエスをここでは想定している考えられます。しかしだからといって、イエスがアウグストゥス帝と同じ存在と見なしているとは考えにくいです。それは後の記述で分かりますが、そこに深く関わってくるのが、女性と、平和の差異という2つのキーワードです。
では最初に女性について触れましょう。ローマに、アラ・パキス(Ara Pacis)という三体の女性が彫られた祭壇があり、彼女らにはそれぞれ「大地・名誉・平和」という意味が込められています。そしてこれらの像ないし祭壇は、アウグストゥス帝のガリアやスペインでの戦争の勝利の記念として、また、これらは自分がローマ帝国にもたらしたものであるという自身の権威づけのために皇帝自ら作らせたものでした(大地はローマ帝国や世界全土)。つまり、アウグストゥス帝の功績を称えるための三体の女性像というわけであり、そのアウグストゥス帝の地位を高める事が、女性の役割になっていると考えられるのです。
これらのことから、ルカがエリサベトやマリアに言及し、なおかつ女性にイエスの地位を高める発言をさせている理由は、ローマの人々に受け入れやすくすると同時に、彼をその話の裏にいるアウグストゥス帝と重ねる事で、実はイエスがアウグストゥス帝と似た人物なのではないか?と読者に思わせることが狙いなのです。
「じゃあ、ローマの人に受け入れられやすくするためだけにルカは洗礼者ヨハネとイエスの誕生物語に女性を登場させたのか?」と考えるかもしれません。しかし、まだもう1つ、ルカの思いが誕生物語には隠れています!
それが、「マリアは精霊によって身ごもった」という事なのです。
上記までは、神の手によって身ごもったアウグストゥス帝と重ねるように書いていた部分が多かったですが、イエスはそこに精霊も含めることにより、この部分だけはアウグストゥス帝より神秘的に描かれています。そしてここで見逃せないのは、マリアが処女(Παρθένος)のまま身ごもったという点です。つまり、神の子であるイエスは普遍的な生まれ方をしていないという強調であり、私たちとは一線を画す存在として描かれているのです。
これらのことから、ルカはローマの人々に合わせつつ、「そちらの神や皇帝よりイエスは上であり、王にふさわしい」というメッセージを隠して、密かにイエスはアウグストゥス帝を超える存在であることを主張していたことがわかります!
しかし、ルカのメッセージはそれだけではありません。それが最後のキーワードである、アウグストゥス帝とイエスが叶える平和の差異です。Ara Pacisから分かる平和は「戦争に勝利することによって獲得されるもの」で、さらにいえば、すでに戦争で勝利している上に自らの偉大さを知らしめるAra Pacisを作らせていることから、「高い者をさらに高める」という思想が見てとれます。しかしイエスは違います。なぜならイエスは、皇帝になる前から高い社会的地位にいたアウグストゥス帝と比べて、社会的地位の低い家に生まれたにもかかわらず、彼はメシアとして描かれます。なぜならそれは、ルカやイエスが獲得しようとしていた平和に大きく起因しているからです。それは1:51~53における「主は・・・権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ・・・富めるものを空腹のまま追い返されます。」に表現されているとおりです。
つまりルカは、読者にアウグストゥス帝とイエスを個人的に比較させるだけではなく、そこに彼らの叶える平和も付け加えることによって、社会的身分の低い者が淘汰される平和か、それとも、そのような者たちが救われる平和のどちらを求めるかを読者に問うたと同時に、どちらの平和によって支配された方がよいのかも問いながら、ルカなりにローマ帝国の支配に抵抗したのです。
まとめ
・ルカはローマの人々に受け入れてもらうため、女性という表象を用いて
洗礼者ヨハネとイエスの誕生を描いた。
・しかし、イエスの誕生をアウグストゥス帝より神秘的にする事で、イエ
スの方が上であるというメッセージを込めている。
・さらに、ルカはローマ帝国とイエスの目指す平和像を読者に比較させながら、ローマ帝国の支配を批判し、抵抗した。
如何でしたでしょうか?
これからもまだまだ「歴史的に見たキリスト教と聖書」シリーズを書いていこうと思います!
是非お楽しみに。
参考文献
・日本聖書協会『聖書 新共同訳』。
・青柳正規、アラ・パキス(Ara Pacis)、下中直人編『世界大百科事典1』、平凡社、2007年(初版、1988年)、547。
・国原吉之助訳『ローマ皇帝伝(上)〔全2冊〕 スエトニウス著』、岩波書店、2007年
(初版、1986年)(Tranquillus, Gaius Suetonius, DE VITA CAESARUM)。
・廣石望「イエスの誕生」『NHK 宗教の時間 新約聖書のイエス 福音書を読む(上)』NHK出版、2019年、54-81。