やってる偽善とやってない偽善。

「やらない善よりやる偽善」という言葉がすごく好きだ。

自分で言うのはどうかしているのだが、私はすごく優しいと思う。優しいというか、人に尽くす事をするのが好き。いや、好き嫌いというよりも人に尽くす事でその人に自分を記憶してもらい、「自分」という存在のアンカーを打って、引き留めて欲しいのである。その場所に自分が存在してもいいのだと勝手に納得したい。「僕はここにいてもいいんだ!」と。

ガラスの割れる音がピシピシして、ピアノのBGMとともに周囲の人間に拍手され、「おめでとう」と祝福される様な流れになって来たが、僕はあんなドラマティックな人生を歩んできてないのでそんなシーンは撮らないまま、清算せず日常に向き合うしかないのだけど。

自己中心的で人を選ぶ優しいだし、内心にはそのような存在証明的意識はあるのだろう。けれど実際に行動を移すときはそんな損得は湧いてこずに反射神経的にしている。

「優しい」だけで、聖人君主ではないため、別に見返りが欲しくないわけではない。それはあとづけの望みになるのだけれど。時々信じてもいない神様に「もう少し感謝されてもいいのにな」という愚痴を手紙に書き、空に届ける妄想をしてしまう程にはそう思っている。そんな手紙はニヤニヤしながら破り捨てられてるだろうが。

勝手に尽くして見返りを求めるのは当たり屋のようで嫌なのだが、三割ぐらいの正当性があってしまうのが悔しいところ。

私は面倒臭がり屋なので心の中でこの場面絶対ああした方が良いだろうな、と思っていても体が動かない事もある。正確には何故かこういう状況に限って冷静に考え無駄な思考を巡らせた結果、やらないという判断を下すか、時既に遅くてことが終わっているか。

冷静に判断をした筈なのに、数秒後には後悔に塗り替えられている。目の前で困っている人がいるのに自分が何もしていないという無力感に襲われる。こういう場面は無駄に残ってしまう。

そもそも任意で手伝うかどうかの場面で動かなかっただけなので、向こう側からしたら「手伝ったらプラス」にはなるだろうが、手伝わなくても任意なのでそこまで気に留めないはずである。けれども私からしたら一時の気の迷いでプラスを取りこぼしたことで、損をした気分になってしまう。手の中に無いものなのに何故か無性に名残惜しい。

どのみち見返りを求めている偽善なので、やるべきなのだ。仮に押し付けであろうと何だろうと、それが嫌かどうかがわかる筈の距離なのだから。そうしないと自分の本音は伝わらない。

いつも以上に纏まりがなくなってしまった。

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