アフターコロナの世界では体験の価値は下がるのか

先日Angeloというバンドのストリーミングのライブを視聴した。Angeloはぼくが昔から好きなPIERROTというバンドの解散後に、PIERROTのメンバーが母体となり結成された。ぼくは最近までAngeloの曲は聴けないでいたのだが、この自粛期間中に向き合いそして改めてファンになった。素晴らしい楽曲は当時のPIERROTとは違う趣があって、どのアルバムも素晴らしいものだった。

そのAngeloもライブの中止が発表され、その中で次の戦い方としてストリーミングによるライブを始めた。今回はその2回目である。それをみながら思ったことを本日も10分で書いていきたいと思う。

アフターコロナの世界は体験の価値が相対的に下がるのではないだろうか?という思いがよぎった。

というのも、みんながみんなストリーミングでのライブを視聴するようになると、会場に行って体験するというものの意味が変わってくるのではないかと思った。もちろん体験に勝る「体験」はないと思う。なぜなら、そのことを体験を通してぼく自身が知っているからだ。

会場に着くまでのドキドキ感や、時間を潰す時のあの感覚、会場に入ってからの開演までの手持ち無沙汰感

全てがライブを構成する要素だ。

おそらく今後のコンサート業界は、ソーシャルディスタンスを保つためにキャパを抑えてチケットを販売し、それと同時にストリーミングを行うんだろうと思う。そうなると、会場にきていなくてもライブには参加したという体験が生まれる。もちろん、会場にいることとストリーミングで視聴することは明らかな体験の差がある。全く別の体験だ。にもかかわらず、きっと両者とも「ライブを観た」という言葉で体験を語るはずだ。

これってなんとなくラストオブアスの世界観に近しいなとも思った。体験したことのないものを、想像でしゃべって、両者の共同幻想を築くみたいな。多分戦争体験ってのもそうなんだろうと思う。おじいさんおばあさんの口から語れる体験をきき、きいた者同士が想像し合う。

でも、体験に勝るものはない。体験は体験したものにしかわからない。感覚触覚嗅覚全部を脳味噌にインストールできたとしたら話はまた別だと思う。

でも、それでもその場での感情というものはその前後の事象含めてだと思う。

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