"障害"ってなんだっけ、なんのためにある概念なんだっけ / 障害受容日記#3
メンバーさんと関わりながら、自分の在りかたを見ていて、また「障害ってなんだっけ。」という思いがむくむくと湧き上がってきた。
まず、
「障害」は「〇〇ができない」と諦めるためにあるものではないはずだ。
「〇〇ができないから、克服のために努力しなきゃ」という次元を超えて、
「〇〇は苦手だけど、XXをやりたいから、△△でカバーしてみようか」
「〇〇は難しいけど、☆☆が得意だから、積極的に担当してみようか」
そう考え始めるきっかけの役割を、"障害" という共通言語が担えたらいい。
そして、その先に dis-ability(できないことがあるという捉え方)を超えて、
「自分の視点はバリューになりうる」という「バリアバリュー」の考え方で価値をつくれたら最高だ。
「障害」と「環境への適応」を考えるとき、いつも思い出す記事がある。
以前にバズったパレットークの記事。
この記事を初めて読んだとき、めちゃくちゃ感銘をうけた。
インターンのちなつさんの在り方が素敵だな、と思った点はたくさんある。
そのうちのひとつは、
「ADHDだから」と配慮を求めるのではなく、自分の持つ苦手さを要素分解して、できることとできないことを具体的に伝えたところだ。
そして、パレットークの皆さんの在り方が素敵なのは、
パレットークがインターンに求める要素を分解して、
「インターンに求めること(漫画のフィードバックを受け入れて改善すること、締切を守ること)」と
「一般的に仕事では求められやすいけど、他のやり方に変えても困らないこと(時間ぴったりに来ること、メモを取ること)」と
に分けたところだ。
得意苦手のある人と、他者と が協働しようとするときに困るのは、
「障害」という診断名がついていることではなくて、
"得意苦手があること" そのものであるはずだから。
"得意苦手" をそのまま記述でき、交渉できることのほうが本質であるべきだ。
そこまでの自己理解と、自己表現ができる人は多くないから、
パレットークの記事に感銘をうけた人が多くいて、
手っ取り早く困難を理解してもらいやすい "障害" という名称を必要とする人が多くいるのだろう。
「大人の発達障害」という概念が流行っているのは、その需要が多いからだろうな…なんて思ったりもする。
最近、
「障害」は「ある特性があること」を示す概念でもないと思っている。
そのかわり、いま暫定的に思っているのは、
「障害」とは、
「ある特性があり、特定の環境(集団生活)において
(その特性に関連して)医療の関与を必要とするほど困ったできごとが、
過去にいくつかあったこと」
を示す概念だろう、ということだ。
障害のある方が多く働いている職場にいるからか、最近は「自分の情報処理特性」や「ADHDの診断を要したこと」を隠す必要がなく話題に上げている。
その大半は「環境音と会話の音を聴き分けるのが苦手だから、静かな場所で話しかけてほしい」などといった具体的なリクエストだが、
時々 障害受容に関する気付きなどがあると「ADHDと診断されてからこんな気付きがあって…」などと話すことがある。
同僚には、「ADHDだと言われても、あんまりそんな感じがしないけどね」と言われる。
(あまり喜びたいという気持ちにはならないが、とりあえず私の特性が同僚に負荷をかけているわけではなさそうだ、よかった)
これからも折にふれて「障害」について話したり考えたり書いたりしてみたいと思う。
私にわかるのは私のことだけだから、似た診断とともに生きている仲間たちのことは推測するしかないのだけれど。