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天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2021年前半掲載分)

    19 子供が羽根を   (2021年1月掲載)
 
 「みかぐらうたのうち、てをどりの歌は、慶応三年正月にはじまり、同八月に到る八カ月の間に、神様が刻限々々に、お教え下されたものです。これが、世界へ一番最初はじめ出したのであります。お手振りは、満三年かかりました。教祖は、三度まで教えて下さるので、六人のうち三人立つ、三人は見てる。教祖は、お手振りして教えて下されました。そうして、こちらが違うても、言うて下さりません。
『恥かかすようなものや。』
と、仰っしゃったそうです。そうして、三度ずつお教え下されまして、三年かかりました。教祖は、
『正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや。』
と、言うて、お教え下されました。」
 これは、梅谷四郎兵衞が、先輩者に聞かせてもらった話である。

 
 みなさま、明けましておめでとうございます。コロナ禍ではありますが、子供たちがテレビゲームではなく、双六や福笑いなどで遊んでいるのをみると、それだけで正月気分になって楽しくなりますね。
 さて、私は詰所におらせて頂いているので、時々修養科生におてふりを教えることがあります。家内には、よくそんな下手くそな手で他人様に教えることができるな~と叱られるのですが、その時は、前もって何度もおてふり概要を睨めっこしながら練習をしています。でも、一つ気になることがあります。それは、どこまで細かいところを伝えるべきなのかということです。もちろん、管内の学校を出ているような修養科に入る前からおてふりが上手な方々に対しては、どれほど些細なことであっても、丁寧に伝える方がいいかもしれません。でも、今まで一度もおてふりをしたことがない人だって修養科へ入ってこられます。今はコロナ禍でいらっしゃいませんが、外国人の方々が修養科へ入ってこられることもあります。そんなとき、教祖はどうやってお手ふりを教えられたのだろうと考えたことがあります。するとその出てきた答えはまさしく、このご御逸話なのです。
「子供が羽根を」考えてみたら、おつとめは神様に楽しんで頂くためにするのです。歌と踊りなのですから、正しく子供たちがお正月に羽子板で羽根をつくように、楽しむことが大切なのでしょうか。だからこそ、まずはじめに、おてふりで伝えるべきことは、おつとめの楽しさ、おてふりの楽しさ、そうして有難さなのだと思います。
 
     164 可愛い一杯   (2021年2月掲載)
 
 明治十八年三月二十八日(陰暦二月十二日)、山田伊八郎が承って誌した、教祖のお話の覚え書に、
「神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし。又、内外の隔てなし。というは、世界一列の人間は、皆神の子や。何事も、我が子の事思てみよ。ただ可愛い一杯のこと。
 百姓は、作りもの豊作を願うて、それ故に、神がいろいろに思うことなり。
 又、人間の胸の内さい受け取りたなら、いつまでなりと、踏ん張り切る。」
と。


 神社と神宮の違いを聞いたことがあります。神社は「神のヤ(屋)+シロ(代)」で祭事の際、神様が一時的にお静まり下さる仮の宿。対して神宮は「神にミ(御)+ヤ(屋)で神様から授かった鏡や剣などの神器を神様と思ってお祀りしているところだそうです。当り前ですが神様は人間よりも偉いので、動物園の檻のように、神様をどこかへ閉じ込めるようなことはできません。神様のことを一番に考えるからこそ、どれほどの人間が心を込めて立派なお社を築いても、神社はあくまでも、神様にお願いをしてお静まり頂く仮の宿でしかないのだそうです。
 神様は、どこにいらっしゃるのかという今回の御逸話を読み返したときに、ふとこの話を思い出しました。神様のお話を考える時、神様の御用をさせて頂く時、ともすれば自分の都合を中心に考えてしまいがちですが、かならず神様を中心に考えなければならないはずですよね。
「神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神はなし。又、内外の隔てなし。というは、世界一列の人間は、皆神の子や。何事も、我が子の事思てみよ。ただ可愛い一杯のこと。」
 そう考えながら、このお言葉を読み返してみると、いかに私たちの体の中に神様の思いが詰まっているのかと改めて考えさせられます。本当に親心の詰まった温かなお言葉だと思えてくるのは私だけはないはずです。
 
    22 おふでさき御執筆  (2021年3月掲載)
 
 教祖は、おふでさきについて、
「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで。』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ。』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ。』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである。」
と、仰せられた。
 これは、後年、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉である。

 
 今年の初めから、この教会報でおふでさきについて書かせて頂いております。
 あらためて勉強させて頂くと、本当にこんな解釈でいいのだろうかを不安になりますが、少しでも自分自身の勉強になればと思っています。
 さて、おふでさきは冒頭で、「よろつよのせかい一れつみはらせど むねのハかりたものハないから」と古今東西誰も神様の胸の内を知らないということからはじまって、最後は、「これをはな一れつ心しやんたのむで」と、世界中のすべての人々に対して思案するようにと促されています。つまり、おふでさきは、誰も分からなかったことを、誰もが解るように書かれているものなのです。ですから、私のような未熟者であったも、少しは内容を理解できるはずなのですが、いまだに難しいので、よく分かっていません。この様に書くと「何が解らないのか」とお叱りを受けるかもしれませんが、一番解らないのは、最後のおうたの「これをはな」の「これ」がいったい何なのか、何度考えても未だに答えがでていないのです。でも、神様から「しやんたのむで」と言われているのですから、やっぱり、真剣に考えなければならないことなのです。ですから、分からないなりにも、それをしっかりと考えながら、最後まで「おふでさきの物語」を書き進めていこうと思います。
 
    42 人を救けたら  (2021年4月掲載)
 
 明治八年四月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気の違いを救けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、茶店の老婆から、「庄屋敷村には生神様がござる。」と聞き、早速、三輪を経て庄屋敷に到り、お屋敷を訪れ、取次に頼んで、教祖にお目通りした。すると、教祖は、
「心配は要らん要らん。家に災難が出ているから、早ようおかえり。かえったら、村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を救けるのやで。なむてんりわうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻わるのやで。人を救けたら我が身が救かるのや。」
と、お言葉を下された。
 栄治郎は、心もはればれとして、庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津を経て、菅浜に着いたのは、四月二十三日であった。
 娘はひどく狂うていた。しかし、両手を合わせて、
 なむてんりわうのみこと
と、繰り返し願うているうちに、不思議にも、娘はだんだんと静かになって来た。それで、教祖のお言葉通り、村中ににをいがけをして廻わり、病人の居る家は重ねて何度も廻わって、四十二人の平癒を拝み続けた。
 すると、不思議にも、娘はすっかり全快の御守護を頂いた。方々の家々からもお礼に来た。全快した娘には、養子をもろうた。
 栄治郎と娘夫婦の三人は、助けて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた。
 教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪で茶せんに結うておられ、綺麗な上品なお姿であられた、という。

 
 このお逸話を勉強しようと考えて榎本栄治郎先生について調べようとしたのですが、詳しい資料を見つけることができませんでした。勉強不足で申し訳ありません。
 さて、今回の御逸話では、人を救けさせて頂くための方法として「村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を救けるのやで。」とあります。つまり言い換えたら、ズカズカと他人様の家の中へ入って四十二人におさづけをしなさいと仰っているのです。時代は違うとはいえ、なかなかできることではありませんね。まして、今はコロナ禍で戸別訪問どころか、いろんな布教方法が制約されています。ですから、このような時だからこそ、どのような方法で人を救けさせて頂くことができるか、真剣に考えなければならないのではないでしょうか。
 昨年11月の月次祭に巡教でいらっしゃった大教会長様は、祭典講話のなかで、「かしもの・かりもの」と「誠」についてお話して下さいました。そうして、この二つは「おかきさげ」に出てくる大切なことであるとお教え下さいました。考えてみたら、どうやって人を救けさせて頂くことができるか分からない時ほど、その方法の書かれている「おかきさげ」を読み返す必要があるのかもしれませんね。
「人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。よく聞き取れ。」(おかきさげ)
 このような時であるからこそ、教祖のひながたを振り返って、誠の心で地道な努力を積み重ねていくこと、「なるほどの人」と思われるよう愚直に努力することが、最も大切な人を救けさせて頂くための方法になってくるのではないでしょうか。
 
   64 やんわり伸ばしたら   (2021年5月掲載)
 
 ある日、泉田籐吉(註、通称熊吉)が、おぢば恋しくなって、帰らせて頂いたところ、教祖は、膝の上で小さな皺紙を伸ばしておられた。そして、お聞かせ下されたのには、
「こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたら、綺麗になって、又使えるのや。何一つ要らんというものはない。」
と。お諭し頂いた泉田は、喜び勇んで大阪へかえり、又一層熱心におたすけに廻わった。しかし、道は容易につかない。心が倒れかかると、泉田は、我と我が心を励ますために水ごりを取った。厳寒の深夜、淀川に出て一っ刻程も水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭を使っては功能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていた。水に浸かっている間は左程でもないが、水から出て寒い北風に吹かれて身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して三十日間程これを続けた。
 又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに廻わらせて頂いた。
 こういう頃のある日、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、
「熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで。」
と、お言葉を下された。親心溢れるお言葉に、泉田は、かりものの身上の貴さを、身に沁みて納得させて頂いた。

 
「どうして、二つのエピソードをくっつけて書かれているのだろう」筆者は、この御逸話が理解できないというよりも、納得をすることができませんでした。紙を伸ばす教祖の話と泉田藤吉先生の水ごりの話の繋がりが解らなかったし、「かりものの身上の貴さを、身に沁みて納得させて頂いた。」という最後の一文もなんだかとってつけたように思えていたからでした。でも、それは違うと理解できたのは、泉田先生のことを学ばせて頂いてからです。泉田先生はわずか4歳で両親と死別した後、10歳まで山本さんというお宅にあずけられました。そこで、山本伊平さんという方と兄弟のように子供時代を過ごしました。その間、子守奉公等に出されましたが、あまりに腕白だったので、15回も奉公先が変わったこともあったそうです。字も書けず、両親の名前も、自分の名前すら、あだ名の「熊」しか知らないまま大きくなり、お酒の飲みすぎで胃癌を患いました。その時に救けてくれたのが、子供の頃兄弟のように育った山本伊平さんでした。天恵組三番の周旋方となっておられたそうです。その時「かしもの・かりもの」の話を聞かせてもらったのです。すると、なるほどと思っている間にたすかったとのことでした。「やんわり伸ばしたら」この伸ばされた紙はそのまま泉田先生の信仰そのものに思えてきます。そうしてその信仰の根本が「かしもの・かりもの」なんですね。そのことが分かって、この御逸話を読み返すと、まったく別のエピソードに思えていた御逸話が、しっかりとつながっていることに気づきました。
 
 
    187 ぢば一つに   (2021年6月掲載)
 
明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい。」とお願いしたところ、教祖は、
「さあさあ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで。」
と、お言葉を下された。


 御逸話篇の中に先人の先生が娘を亡くされた話は二つあります。一つはこの187「ぢば一つに」で、もう一つは184「悟り方」です。この二つの御逸話は、勉強すればするほど、不思議なくらいに多くの共通点を見つけることができます。たとえば「ぢば一つに」の諸井国三郎先生と「悟り方」の梅谷四郎兵衞は共に多くのことを書いて残されている先生です。それから両方の御逸話も明治19年の出来事、つまり教祖がお姿を隠される前年であること。そして何より亡くなられた娘さんに大きな共通点があります。梅谷四郎兵衞の次女みちゑさんは、信仰の「みちしるべ」となるようにとの教祖が直接命名されました。そうして今回の御逸話に出てくる諸井国三郎先生の四女秀さんは、逸話篇151「をびや許し」に出てくるように、諸井家ではじめてをびや許しを頂いて生れてきた子供なのです。最も教祖にお心をかけて頂いた子供が一番大きな節を頂いて、信仰の土台となられているのです。『〝逸話のこころ〟たずねて 現代に生きる教祖のおして』という本の中で、諸井道隆山名大教会長様は、こう書かれています。「国三郎は、娘の出直しの意味を容易に理解できなかったのではないかと筆者は考えている。」びっくりしました。今まで私は、先人の先生ならば理解できることを教祖は仰せられていると思っていたのですが、実はそうでなかったのですね。続いて、国三郎先生が、それでも道を離れなかった理由として、御逸話篇171「宝の山」を紹介されました。「山の頂上に上ぼれば、結構なものを頂けるが、途中でけわしい所があると、そこからかえるから、宝が頂けないのやで。」なんとこの御逸話と々内容が、国三郎先生の口述を書き留めた自伝にあるとのことなのです。そうして国三郎先生は晩年、この教祖のお言葉についてこう述べられているそうです。「たすけ一条に働かしてもらううち、だんだん困難になると先を案じて途中で元の道に帰って働く人が多いから、いかなる困難にあっても、食わずに死んでもよいという決心をして、たすけ一条の道を働けば、神様がお徳を下さるということを仰せられたのである。(中略)この道は確かな道であるから、やりかかったからには、どうしてもやり通す覚悟でついに今日のように結構にさせていただいた」
 教祖のお言葉の本当の意味は、最後まで信仰を続けさせて頂いて、やっと理解できることなのかも知れませんね。
 

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