おたねさんちの童話集「どら猫のネーブ」
どら猫のネーブ
太っちょのコックさんに箒の柄で叩かれながら追い出されたのは、どら猫のネーブでした。ネーブはコックさんが蹴り出した右足を素早く避けると、路地裏を駆けていきました。どこかのアニメに出てくるおばさんなら、裸足で追いかけてくるのでしょうが、太っちょのコックさんは、オーブンの角に打ち付けた右足の小指を抱えてケンケンしているので、きっと、暫くは追ってくることもないでしょう。ネーブは、息を整えると青い屋根の上に登って、街を流れる河を眺めました。
昔は、この河にも小さなボートが幾艘も行き来をしていたそうです。もちろん、生まれる前の話ですから、ネーブはお父さんやお母さんから聞いただけで、実際に見たことはありません。今はときどき小さな魚影が映る程度で、釣り人さえもめったにみかけません。ネーブはここで大きなあくびを一つしました。いつもこの町のあちらこちらで、箒をもったコックさんたちに追いかけ回されるネーブにとって、この屋根の上が一番くつろげる場所なのでした。
ポツリポツリと雨が降ってきました。ネーブは屋根から降りると、煉瓦倉庫の軒下へ潜り込みました。
ドブネズミのドーズたちが、慌てて逃げていきました。ネーブは、雨宿りにきただけですから、ドーズたちを追うこともなく、いつもの場所へと向かいました。通気口の向こうに、ほんの少しの街明かりが見えました。
「今日は、ここで寝ようかな」
ネーブは、もう一度、今度は小さなあくびをしました。
雨音は次第に大きくなってきたようでした。
「誰だ!」
ネーブは後ろを振り返りました。
イタチのチイタンでした。ネーブは追い出そうかなと考えましたが、雨が強いので今夜は、入れてあげることにしました。ネーブはチイタンに背を向けると、またあくびをしました。
「今日は、なかなか眠れそうにないや」
チイタンは、すぐに眠ってしまったようでした。ネーブには、すぐ分かりました。いえ、ネーブじゃなくても、すぐに分かります。だった、それはそれは大きないびきなのですから、ネーブは雨の降る外へ出て行きました。あまりのウルサさに耐えきれなくなったのでした。すぐに雨の当たらない軒下を見つけました。ネーブはここで眠ろうかとも考えましたが、風が強いのでやめました。ネーブは軒下をズンズンと進んでいきました。目指すは物置小屋の床下です。ネーブは身を潜めました。男の子とそのお母さんがやってきました。
「ほんとに、ここにあるの?」
「だって、どこにも見あたらないから、ここしかないよ」
「きっと明日も雨だから、キャンプは中止よ」
「そんなの分からないよ」
「懐中電灯くらい、なんでもいいでしょ」
「だめだよ。あれが一番格好イイもの」
男の子とお母さんが物置小屋へ入るのをまって、ネーブはその床下へ走り込みました。見つかると、また箒で追いかけ廻されることでしょう。だって、あのお母さんも、ドラ猫のことなんて、大嫌いなのですから。
「ほら、やっぱりここにあった」
少年の声が聞こえました。
ネーブは悪い予感がしました。
「ねっ。ママ、ちゃんとつくでしょ」
床下にも、ほんの少し光が差し込みました。
ネーブは慌てて、柱の陰にかくれました。案の定、少年が床下の点検口を開いて、のぞき込みました。そして懐中電灯で床下一面を照らすのです。
「ちぇっ、今日は何もいないや」
男の子が点検口を閉めたので、ネーブも一安心です。
「どうしたの?」
ママに聞かれて男の子が答えました。
「ボクねえ。この間、ここで大きな猫をみたんだよ」
「ネコ~!!ホントに!!すぐ誰かを呼んできて、出入りできる穴が空いてないか調べてもらわないと!」
女の人の叫び声が床下一面に響きました。ネーブは、慌てて、外に出ました。
雨は止んでいました。
屋根の上はまだ濡れていましたが、誰かに追い回されるよりは、よほどましです。水たまりに三日月が映っていました。空を見上げると、ほんの僅かな雲の隙間から三日月が覗いています。
「これから、どこへ行こうかな?」
ネーブはちょっぴり悲しくなってきました。三日月を見ていてお父さんやお母さんのことを思い出したからでした。
子供の頃、ネーブはいつも、お父さんやお母さんと一緒に暮らしていました。ネーブはいつも家族の中心で、ネーブがどれほどお喋りを続けても、お父さんやお母さんはずっと楽しそうに聞いてくれました。ネーブが、まだまだ小さかった、ずっとずっと昔のことです。
「あのころは、お月様がでると、よく三匹で散歩に出かけたっけ」
ネーブは屋根から屋根へと飛び移りながら、川沿いを下っていきました。少しずつ晴れ間が増えてきたことは、星の量でわかりました。
「ヒューン、バーン」
あまりの大きな音に、ネーブはビックリして振り向きました。河の水面には花火が映っていました。
「ヒューン、バーン」
「ヒューン、バーン」
それから花火は、何発も何発も打ち上げられました。
「初めて花火を見たときは、おっかなくて、ずっとお母ちゃんにしがみついていたっけ」
ネーブはしばらくの間、花火をみておりました。
「おい、ネーブ!ネーブじゃないか」
嫌な奴が来ました。ネーブの大嫌いな野良犬のジャックです。
ネーブは、さっさと隣の屋根に飛び移りました。
ジャックさえいなければ、父も母も、あんな目に遭うことはなかったとネーブは今でも思っているのです。
ジャックが、まだ飼い犬の頃でしたから、もう、随分昔の話です。まだ子供だったネーブをジャックが冗談半分でからかいだしたのが、そもそものはじまりでした。最初は、周囲が見ていてもほほえましい程度でしたが、どんどんとジャックのイタズラがエスカレートしていきました。ネーブのお父さんもお母さんも、我が子を守ろうとしただけのことでした。でもタイミングが悪かったのです。ジャックが野良猫にかみつかれている様子をみた飼い主が、ネーブのお父さんとお母さんを棒で思いっきり叩いたのでした。ネーブのお父さんもお母さんも慌てて逃げましたが、大けがを負ってしまったのでした。やがて、エサにありつけなくなったお父さんとお母さんはやせ衰えていきました。それでも、ネーブにだけはなんとか辛い思いをさせないように、食べ物を探し求めてくれたのでした。今でもネーブの脳裏にはあの頃のお父さんとお母さんの面影がはっきりと残っているのです。
ジャックはジャックで、飼い主に追い出されたのはネーブのお父さんとお母さんのセイだと決めつけていました。
なにせ、犬のくせにどら猫に襲われるという無様な姿を飼い主に見られたあげく、耳にはっきりと猫に噛まれたキズが残ってしまったのですから。
「おい!ネーブ!降りてこい!」
ジャックはワンワンと大きな声で吠えましたが、ネーブはさっさと隣の家の屋根に移りました。あんな奴と関わり合いをもっても良い事は一つもないのですから。
空にかかっていた雲が、だんだんと薄くなってきたようです。ネーブの眼に映る星も少しずつ増えてきました。
ネーブはポプラの木を見つけました。そこには誰もいませんでした。
「ここなら、ゆっくりと休めるかなあ」
ネーブを木の上に登ると、大きなあくびをひとつしました。
川の向こう側に、チラチラと町明かりが見えました。
「みんな、自分の居場所を探すために懸命になって生きているんだよ」
ネーブは、遠い昔お母さんから聞いた言葉を思い出しました。
「おやすみなさい」
そう言ってネーブは静かに眠りました。
ネーブが、大好きのお父さんやお母さんに、夢の中で出会えたのは、それから間もなくのことでした。