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天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2019年後半掲載分)

    79    帰ってくる子供  (2019年7月掲載) 
 
 教祖が、ある時、喜多治郎吉に、
「多く寄り来る、帰って来る子供のその中に、荷作りして車に積んで持って行くような者もあるで。又、風呂敷包みにして背負って行く人もあるで。又、破れ風呂敷に一杯入れて提げて行く人もある。うちへかえるまでには、何んにもなくなってしまう輩もあるで。」
と、お聞かせ下された。

 
 この御逸話を読むと、私はどれくらいの荷物を頂けているだろうかと、ついつい考えてしまいます。でも本当は、どうすれば、荷作りして車に積んで持って行くような者になれるのかを、考えさせて頂く事が大切なことだろうと思います。
 喜多治郎吉先生は二人の兄と二人の姉のいる末っ子です。お茶の製法を半日で覚えすぐに他の人より上手に作るようになったそうですから、きっと飲み込みが早く、何事も器用にできる方だったのだろうと推測します。また地元の宮相撲で負け知らずで関取を目指すほどの力自慢でもあったようです。
 私はなぜ教祖が喜多治郎吉先生のように力も強く何でもできそうな先生に、このお話をされたのか分かりませんでした。もしかしたら相撲のように勝負の世界に身を置かれていたから、努力の大切さを知っておられたからなのかなと考えたこともありました。
 でも、あるとき「旧姓 矢追」との文言をみつけてから考えが変わりました。治郎吉先生は喜多に養子に入られておられるのです。当時の喜多家は漢方医の家柄で熱心に念仏を唱えておられたので、治郎吉先生が天理教を信仰されることを強く反対しておられたのです。ですから治郎吉先生はその板挟みの中、一生懸命に信仰を続けておられたことになります。「板挟み」と一語でハッとしました。教祖の最初のひながたは貧に落ちきられることですが、御苦労されたことは、貧しさではなく神様の御心と周囲の人々の人間心との板挟みであると教えてもらったことがあるからです。
 ですからつまり、どれほどの荷物をいただけるかは、どれほどひながたを辿らせて頂いているかということだと思います。
 喜多治郎吉先生は明治29年、いわゆる秘密訓令が出された時に、御本部から派遣されていろいろな教会の修理丹精に尽力された先生としても知られています。
 喜多治郎吉先生が教祖から頂かれたたくさんの荷物は、多くの教会の修理丹精に使って下さる為の荷物だったのかもしれません。
 
    161 子供の楽しむのを  (2019年8月掲載) 
 
 桝井キクは、毎日のようにお屋敷へ帰らせて頂いていたが、今日は、どうしても帰らせて頂けない、という日もあった。そんな時には、今日は一日中塩気断ち、今日は一日中煮物断ち、というような事をしていた。そういう日の翌日、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が仰せになった。
「オキクさん、そんな事、する事要らんのやで。親は、何んにも小さい子供を苦しめたいことはないねで。この神様は、可愛い子供の苦しむのを見てお喜びになるのやないねで。もう、そんな事する事要らんのやで。子供が楽しむのを見てこそ、神は喜ぶのや。」
と、やさしくお言葉を下された。何も彼も見抜き見通しであられたのである。


 こどもおぢばがえりが終わりました。
最終日には我が家のあやちゃんやむっちゃんも、小さいながらに、詰所の布団干しや布団カバーの取り替えひのきしんを手伝ってくれました。
「オキクさん、そんな事、する事要らんのやで。親は、何んにも小さい子供を苦しめたいことはないねで。この神様は、可愛い子供の苦しむのを見てお喜びになるのやないねで。もう、そんな事する事要らんのやで。子供が楽しむのを見てこそ、神は喜ぶのや。」
 このお言葉の意味を昔から分かっていたつもりでいましたが、実感として分かってきたのは、子供が生まれてからです。
 神さんを、産んでくれた親と同んなじように思えば、本当の信心ができるとお教え頂いていますが、逆に言えば、それは、子育てを通して、神様の思いが理解出来るということではないでしょうか。ひのきしんやおつとめをサボった子供たちを叱りつける時もありますが、それは決して子供たちを苦しめたいわけでなく子供たちの幸せを願っているからです。桝井キク先生と言えば、身上になられたとき、14歳だった息子の伊三郎先生が伊豆七条村(郡山インターの西あたり)から何度も歩いて教祖にお願いされたという逸話が有名ですね。こんな親孝行な息子を育てられたキク先生に対してだからこそ、きっと教祖はこの御逸話を残されたのだと思います。
 
    77 栗の節句   (2019年9月掲載)
 
 教祖は、ある時、増井りんに、
「九月九日は、栗の節句と言うているが、栗の節句とは、苦がなくなるということである。栗はイガの剛いものである。そのイガをとれば、中に皮があり、又、渋がある。その皮なり渋をとれば、まことに味のよい実が出て来るで。人間も、理を聞いて、イガや渋をとったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで。」
と、お聞かせ下された。

 
 子供たちは夏休みが終わって元気に学校へ行ってくれました。親としてはひと安心といったところです。昨今、テレビやインターネットで。子供の自殺が最も多いのは9月1日だと言っていたので、他人事ではないように思えていたのです。どうして学校でイジメが多いのだろうと考えていたときに、ふと思い出したのが、この御逸話です。子供の頃栗拾いに行って、どうしてこんなにイガイガがあるんだろうと思ったことがあります。でも、考えてみれは、イガイガも渋も誰かを傷つけようとしてある訳ではありません。大切なものを守ろうとしているだけなのです。「人間も、理を聞いて、イガや渋をとったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで。」どうして理を聞いたら、イガや渋がとれるのでしょうか。きっとそれは神様の親心に触れて安心するからだと思います。大切なものを守るべき鎧が必要なくなるからだと思います。「人間には、陽気ぐらしをさせたいという親神の思いが込められている。 これが、人間の元のいんねんである。」(教典第七章)とあります。
 誰しも上機嫌の時は良い人です。不機嫌になって嫌な人間になってしまうのは、不安なことや心配なことがあるからです。信仰を伝えるということは、つまり、神様の包み込むような親心を伝えるということではないでしょうか。
 
     105 ここは喜ぶ所  (2019年10月掲載)
 
 明治十五年秋なかば、宇野善助は、妻と子供と信者親子と七人連れで、おぢばへ帰らせて頂いた。妻美紗が、産後の患いで、もう命がないというところを救けて頂いた、お礼詣りである。

 夜明けの四時に家を出て、歩いたり、巨掠池では舟に乗ったり、次には人力車に乗ったり、歩いたりして、夜の八時頃おぢばへ着いた。翌日、山本利三郎の世話取りで、一同、教祖にお目通りした。一同の感激は、譬えるにものもない程であったが、殊に、長らくの病み患いを救けて頂いた美紗の喜びは一入で、嬉しさの余り、すすり泣きが止まらなかった。すると、教祖は、
「何故、泣くのや。」
と、仰せになった。美紗は、尚も泣きじゃくりながら、「生神様にお目にかかれまして、有難うて有難うて、嬉し涙がこぼれました。」と、申し上げた。すると、教祖は、
「おぢばは、泣く所やないで。ここは喜ぶ所や。」
と、仰せられた。
 次に、教祖は、善助に向かって、
「三代目は、清水やで。」
と、お言葉を下された。善助は、「有難うございます。」とお礼申し上げたが、過分のお言葉に、身の置き所もない程恐縮した。そして、心の奥底深く、「有難いことや。末永うお道のために働かせて頂こう。」と、堅く決心したのである。


 この御逸話に出てこられる宇野善助先生と言えば越乃國大教会の初代会長として知られます。宇野先生が13歳の時、父親が出直されたので、京都へ丁稚奉公に出られました。やがてその店の娘さんと結婚、婿養子になられ、ご長男を設けられたのですが、まもなくその奥様は出直されたそうです。ですから、御逸話に出てこられる美紗奥様は二度目の奥様ということになります。明治14年10月仕事の関係で河原町初代深谷源次郎先生の営む鍛冶源を訪ねたことがきっかけで教えを知り信仰に入られたそうです。46歳のことでした。
 「けっこう源さん」と呼ばれた深谷先生から教えを聞いておられるのですから、当然「喜ぶことの大切さ」を教えられているはずなのに、どうして宇野先生はこのお言葉をずっと心に思っておられたのでしょうか?私はそれがずっと疑問でした。が、今回この御逸話を勉強させて頂いている中で、ドキリをすることがありました。「三代目は清水やで」のお言葉です。三代目が清水ならば、つまり二代目は、まだ清水ではないのです。美紗奥様は産後の煩いを助けられておぢばへ帰られました。が出直されたのはその3年後でした。前妻との間の長男さんに商売を譲っておられましたが、その長男さんもやがて出直されます。美紗奥様が出直されてから、子供たちの母親代わりになっていた長女さんも結婚されてかわわずか2年で出直されています。「三代目は清水やで」のお言葉が如何に重いかと気付きました。心が曇っていたら、清水にはならないわけですから「喜ぶ」というこの一言の意味も変わってくると思います。因みに美紗奥様の間に生まれた又三郎先生は明治42年12月、越乃國大教会の三代会長になられます。宇野善助先生が出直される3ヶ月前のことでした。
 
   114 よう苦労してきた (2019年11月掲載)
 
 泉田籐吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出遭うた。その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい。」と言って、頭を上げると、三人の追剥は、影も形もない。
 余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、
「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」
と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。


 中学校の頃、国語の教科書に今昔物語の阿蘇の史というのが掲載されていました。平安時代、頓智のきく役人が追いはぎくるかもしれないという道を夜中に通るときの話です。その役人は牛車の中にはいると着物を脱いで裸になって座ります。そして実際に追いはぎにあうと、先ほど別の追いはぎに遭って身ぐるみ全てをはぎ取られたと嘘をついて追いはぎから免れるというものでした。
 子供の頃は、なんだかこの御逸話とよく似たお話なだあと思ったものでした。でも、御逸話に出てくる泉田藤吉先生は、頓智がきいたり、学問があったりする先生ではありません。まったく正反対の先生です。4歳の時に両親と死別してからは、あちらこちらへ奉公働きに出されます。文字もかけないどころか、両親の名前さえも自分の本名さえも知りません。体格がよく腕力も強かったので、ずっと力仕事を生業とされておられたようでした。阿蘇の史のように頓智がきくどころか、愚直そのもののような先生だったと聞かせて頂きます。明治10年、お酒の飲みすぎで胃癌になり、もう救からないと言われたときに、山本伊平先生から「かしもの・かりもの」の話を聞き、なるほどと感心している間にご守護を頂かれたそうです。「よう苦労してきた」教祖にそう言っていただけるだけの苦労とはどれほどの苦労なのか私には想像もできません。ただ話を聞いただけで胃癌が治るほど「かしもの・かりもの」の理あいが解るほどの苦労とは、どういったものなんだろうと、恐れ入るばかりです。自分がけがをしても、家族が病気になっても、オロオロするばかりで、すぐに「かしもの・かりもの」のことがひらめくほど心が治まっていない私は、今回この御逸話を学ばせていただいて、ただただ自分の苦労の足りなさを痛感しました。
 
138 物は大切に  (2019年12月掲載)
 
 教祖は、十数度も御苦労下されたが、仲田儀三郎も、数度お伴させて頂いた。
 そのうちのある時、教祖は、反故になった罫紙を差し入れてもらってコヨリを作り、それで、一升瓶を入れる網袋をお作りになった。それは、実に丈夫な上手に作られた袋であった。教祖は、それを、監獄署を出てお帰りの際、仲田にお与えになった。そして、
「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなされ。」
と、お言葉を下された。


 毎月、御逸話篇を学ばせて頂いていて気が付いたことがあります。それは、一番できている先人の先生に、教祖は大切なことをお伝えくださっているということです。朝起き、正直、働きが本席様よりもできている方は、なかなか思いつきません。心の皺をのばすのが上手な先生と聞いて、まず思いつくのはやっぱり増井りん先生です。そう考えると、仲田儀三郎先生というのは、きっと物を大切にされていた先生だからこそ、この御逸話が残っているのだと推測できます。
 仲田先生といえば、教祖伝を学ばせて頂いていると、必ず節目、節目で名前の出てくる先生です。
 「どういう神で御座るか」と松尾市兵衛先生ともに大和神社へ行かれたもの仲田先生です。それ以外にも、つとめ場所のふしんやかぐら面のお迎え、ぢば定めなど、たくさんの場所で先生の名を見つけることができます。特に御逸話篇41『末代かけて』では仲田先生のお宅を「神が地固めする」と仰るほどですから、末代にわたって大切にできると見込まれた先生なのだと思います。どうしてだろうと理由を考えてもわからなかったので、いろいろと本を読んで調べました。そうしたら表統領の中田善亮先生が、書いていて下さっているではありませんか。「常に教祖のお側にいることが第一であり、お屋敷に詰めてこそ教祖のお役に立てると考えていたのだと思う」(道友社編『逸話の心をたずねて』P86)これを読んで、はっとしました。先日ちくえ曾祖母と富子祖母の年祭を終えたばかりだったからです。富子祖母が大教会の会長宅に伏せこまれていたのは知っていましたが、ちくえ曾祖母も、会長宅に伏せこまれていたのを、参列されていたご年配のHさんからお聞きしました。たくさんの伏せこみのおかげで、今の私たちがいることに改めて気づかされたのです。
 やっぱり仲田儀三郎先生は、物を大切できる先生だったと確信します。物を大切にできるからこそ、大切なものを大切にできたのだと思います。大切なものを大切にできるからこそ、大切な時に、そこにいることができるのです。そうして大切なものが何か、ちゃんと後世に伝えることのできる先生だったからこそ、神様もしっかりと地固めをなさったのだと思います。
 
 

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