天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2019年前半掲載分)
11 神が引き寄せた (2019年1月掲載)
それは、文久四年正月なかば頃、山中忠七三十八才の時であった。忠七の妻そのは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、既に数日間、流動物さえ喉を通らず、医者が二人まで、「見込みなし。」と、匙を投げてしまった。この時、芝村の清兵衞からにをいがかかった。そこで、忠七は、早速お屋敷へ帰らせて頂いて、教祖にお目通りさせて頂いたところ、お言葉があった。
「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで。」
と。
詰所勤務をしていても、本部勤務をしていると時も、よく言われた言葉があります。
「お前は、自分でここに来たと思っているかもしれないけれど、本当は神様のお引き寄せでここにおらせてもらっているのやで」
その言葉が、本当かどうか、私には分かりません。自分にはどんないんねんがあるのか、自分では、やっぱり分からないからです。
「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。
山中先生も、最初からこの教祖の言葉を100%信じ切られた訳ではないと、私は勝手に想像しています。
山中先生の奥様が危篤状態になられる少し前、山中家では、なんと1年のうちに3人も出直されるという不幸が続いていました。だから、山中先生は、藁をも掴む気持ちでおられる時に、この教祖の言葉を聞き、そうしてたすけられるのです。が、翌年に起こったのは大和神社の節でした。せっかく教祖にもみんなにも喜んでもらおうとお招きしたはずなのに、最悪の結果になる訳です。もっと言えば、五年後には自分の田んぼが全部流されます。本当に多くの節を与えられたのが山中先生でした。でも実は同時に、教祖からたくさんの不思議を見せて頂いた先生でもあります。肥のさづけであったり、扇の伺い(逸話篇14染物)であったり、永代の物種を戴いたり、生まれてきた赤ん坊が女児であることを教えてもらったりと、数多くの不思議を見せて頂いています。それはつまり、心が揺れる度、教祖が、何度も何度も、心をかけて下さった現れではないでしょうか。
私達が信仰を続けている中で、途中、どんなに心が折れそうになっても続けていけるのは、もしかしたら、小さな不思議に気づかされているからかもしれません。それはつまり、そこに教祖のお働きがあったからなのかも知れませんね。
140 おおきに (2019年2月掲載)
紺谷久平は、失明をお救け頂いて、そのお礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂き、明治十七年二月十六日(陰暦正月二十日)朝、村田幸右衞門に連れられて、妻のたけと共に、初めて、教祖にお目通りさせて頂いた。その時、たけが、お供を紙ひねりにして、教祖に差し上げると、教祖は、
「播州のおたけさんかえ。」
と、仰せになり、そのお供を頂くようになされて、
「おおきに。」
と、礼を言うて下された。後年、たけが人に語ったのに、「その時、あんなに喜んで下されるのなら、もっと沢山包ませて頂いて置けばよかったのに、と思った。」という。
春季大祭講話のテープほどきをしながら、感じたことがあります。それは、真柱様の御容体が、少しずつよくなられる様子をお話になる大教会長様のお声が、本当に嬉しそうだとういうことです。そして記念祭に向かって、お入り込み下さる予定の真柱様に少しでも喜んで頂きたいと思いがひしひしを伝わってくるということです。
この御逸話は、皆様もご存じのことですが、飾東の初代紺谷久平先生とたけ奥様が初めておぢばがえりをされた時の御逸話です。この御逸話で、教祖から「おおきに」とのお言葉を頂いたたけ奥様は感激して「もっと包ませて頂けばよかった」と思われたそうです。私は昔、ここで、一つ疑問に思う事がありました。それは、もっと包ませて頂けばよかった」と思っておられた初代会長様御夫妻が、逸話篇200『大切にするのやで』にあるように、なぜ赤い衣服一枚と、赤の大きな座布団二枚をもっていかれるようになったのだろうということでした。でも、ある時、私は大きな勘違いをしていること気がつきました。逸話篇に出てくるお話が二つなので、二つ目の逸話が、二回目のおぢばがえりだと勝手に思い込んでいたのです。しかし、後日、その間に何度もおぢばがえりをされておられている事を知りました。『天理教飾東大教会史』には、「二ヶ月に三度位の割でおぢば帰りをするようになった」と書かれているので、単純に計算すると三年間で五十回はおぢばがえりをされていることになります。ですから、その都度、教祖にお喜び頂きたいと考えておられた御夫妻が、教祖の身に付けておられる赤衣や座布団を御供されたのは、ごく自然なことだったのかもしれません。
眼病を助けて頂いた初代会長様御夫妻はきっと、どうやってご恩返しをしようか、どうやって教祖にお喜び頂こうかと、考えたり心配したり話し合ったりして、初めてのおぢばがえりをなされたことでしょう。だからこそ、「おおきに」に一言に感激して、その後、何度も何度も繰り返し、おぢばへと足を運ばれたのだと思います。
飾東に繋がる先生方が、おぢばへおぢばへと運ばれる、その原点は、この「おおきに」の一言にあるのかもしれませんね。
133 先を永く (2019年3月掲載)
明治十六年頃、山沢為造にお聞かせ下されたお話に、
「先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、急ぐ事要らん。」
「早いが早いにならん。遅いが遅いにならん。」
「たんのうは誠。」
と。
先日、長女の連帆が、天理時報に名前が載ったので、何人かの方から、見たよ!と声をかけて頂きました。
高校二年生にもなると、なかなか親の言う事も聞かなくなってくる年頃ですが、それなりに頑張っているようで、嬉しく思いました。
私が高校二年生だった時、父であった五代会長が出直しました。ですから、どんなにできそこないの父親でも、今ここにおらせて頂くだけで、やっぱり、ありがたいなあと思っています。考えて見ると、父親というものは、羅針盤みたいなものかもしれませんね。
さて、この御逸話の冒頭に明治16年頃とでてきます。山澤為造先生の父、良治郎先生が出直された年だそうです。(享年53)山澤為造先生は当時26才でした。
20才のころ堺の師範学校で教師になる勉強をされていた為造先生は21才で大病を患い親元へ帰られます。そうして、教祖にお会いされ、お屋敷へ通ううちに少しずつ御守護を頂かれました。身上の回復に伴い、また学校へ戻ったのですが、今度は学校でコレラが流行したため、生徒全員が帰郷しなければならなくなります。そうして、コレラが下火になって、また学校へと戻れるようになったと思った矢先、良治郎先生が出直されたのです。
「先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、急ぐ事要らん。」
「早いが早いにならん。遅いが遅いにならん。」
「たんのうは誠。」
がむしゃらに急いだり焦ったりするのは、道が見えないからかもしれません。まして二十代の血気盛んな時に、父を失えば、これからの道を案じて、焦ったり、もがいたりするのは当然のことです。でも、そんな時こそ、道を照らす光が必要なのです。しっかりと自分のいく道筋を照らす光があるからこそ、きっとゆっくりでも、確実に歩みを進めていけるのではないでしょうか。
42 人を救けたら (2019年4月掲載)
明治八年四月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気の違いを救けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、茶店の老婆から、「庄屋敷村には生神様がござる。」と聞き、早速、三輪を経て庄屋敷に到り、お屋敷を訪れ、取次に頼んで、教祖にお目通りした。すると、教祖は、
「心配は要らん要らん。家に災難が出ているから、早ようおかえり。かえったら、村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を救けるのやで。なむてんりわうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻わるのやで。人を救けたら我が身が救かるのや。」
と、お言葉を下された。
栄治郎は、心もはればれとして、庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津を経て、菅浜に着いたのは、四月二十三日であった。
娘はひどく狂うていた。しかし、両手を合わせて、
なむてんりわうのみこと
と、繰り返し願うているうちに、不思議にも、娘はだんだんと静かになって来た。それで、教祖のお言葉通り、村中ににをいがけをして廻わり、病人の居る家は重ねて何度も廻わって、四十二人の平癒を拝み続けた。
すると、不思議にも、娘はすっかり全快の御守護を頂いた。方々の家々からもお礼に来た。全快した娘には、養子をもろうた。
栄治郎と娘夫婦の三人は、助けて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた。
教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪で茶せんに結うておられ、綺麗な上品なお姿であられた、という。
昔、ずっと疑問に思っていたことがありました。それは、おつとめの地歌のことです。あしきを払ってたすけて下さいと願う人間に対し、ちょいとはなしで、元の理の話をされます。どうして、元の理の話で人間がたすかるのか、私はずっと理解出来ずにいたのでした。私なりに、その答えが出たのは、子供たちにケーキを買って帰った日のことでした。
ケーキを見た子供たちは、大喜びだったのですが、いざ切り分けようとするとケンカがはじまったのです。なんでボクの小さいの!なんでチョコレートがのっていないの!お姉ちゃんだけ、ズルイ!
その子供たちの姿をみて、思わず私はどなりつけました。
「せっかくみんなが喜ぶと思って勝ってきたのに!なんでケンカをするんだ!みんなで美味しい美味しいって、どうして食べられないの!」
その時、はっとして、分かったような気がしたのです。どうして、ちょいとはなしで元の理の話が出るのか。それはせっかく神様が人間を喜ばせようとして、この素晴らしい世界を作り、毎日心を込めて御守護して下さっているのに、子供たちがケーキが大きい小さいとケンカするように、他の人と比べて、ちっとも喜ぼうとしないからです。神様の御心やお働きに気づいたらばば、どれほど人間はしあわせになるか。そのことに気づいたのです。
では、どうして人を救けたら、我が身が救かるのでしょうか。自分でどれほど、人を救けているつもりでも、本当は、全部神様が救けて下さているはずです。神様は救けようとしている人も、されている人も、両方の人間を救けて下さっているのです。ですから、大切なことは、人を救けることによって、人を救けて下さる神様のお心が、少しでも分かるようになることになることなのかもしれません。
83 長々の間 (2019年5月掲載)
宮森与三郎が、お屋敷の田圃で農作業の最中、教祖から急にお呼び出しがあった。急の事であったので、「何事かしら、」と、思いながら、野良着のまま、急いで御前に参上すると、その場で、おさづけの理をお渡し下された。その上、
「長々の間、御苦労であった。」
と、結構なねぎらいのお言葉を下された。
今年に入って、少しずつですが、おさづけの理を拝戴される方が出て来られたそうです。真柱様の体調が、少しでもよくなられて更に大勢のようぼくが誕生することを、願っております。
少し前まで、おさづけの理を頂けることが当たり前のように感じていましたが、今回のことを受けて、決して当たり前のことではないと、改めて考えさせられました。「長々の間、御苦労であった。」
宮森与三郎先生がおさづけの理を戴かれたあと、教祖がお掛け下されたお言葉です。
この御逸話も拝読して、ハッとしました。今まで、長々の間苦労されたから、宮森先生はおさづけを頂かれたのだと、漠然と考えていましたが、そうではなく、本来、おさづけの理を戴くには、長々の苦労が必要だったのではないかと気がついたのです。筆者がアジア一課に勤めている頃、課長であった辻豊雄先生から、別席についてお話し下さったことを思い出しました。別席の話は、決して入門書ではなくて、心の中で何度もおさらいをするための話だそうです。ですから、何回も同じ話を聞くとのこと。おさづけの理をようぼくの免許証にたとえると、決して入学の手続きではなくて、ようぼくになる為の卒業試験に見たいなものだとお聞きしました。
筆者も苦労の苦の字も知らないままにおさづけの理を拝戴した1人です。天理高校生だった昭和64年1月7日、昭和最後の日に同級生のみんなと一緒に頂きました。平成も終わり、新しい時代を迎えるというのに、未だ「長々の間、御苦労であった。」と教祖に言っていただけるようなことはできていません。でも、出来ていないなりに、少しでも近づけるように、努力していきたいと思います。
65 用に使うとて (2019年6月掲載)
明治十二年六月頃のこと。教祖が、毎晩のお話の中で、
「守りが要る、守りが要る。」
と、仰せになるので、取次の仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等が相談の上、秀司に願うたところ、「おりんさんが宜かろう。」という事になった。
そこで、早速、翌日の午前十時頃、秀司、仲田の後に、増井りんがついて、教祖のところへお伺いに行った。秀司から、事の由を申し上げると、教祖は、直ぐに、
「直ぐ、直ぐ、直ぐ、直ぐ。用に使うとて引き寄せた。直ぐ、直ぐ、直ぐ。早く、早く。遅れた、遅れた。さあさあ楽しめ、楽しめ。どんな事するのも、何するも、皆、神様の御用と思うてするのやで。する事、なす事、皆、一粒万倍に受け取るのやで。さあさあ早く、早く、早く。直ぐ、直ぐ、直ぐ。」
と、お言葉を下された。
かくて、りんは、その夜から、明治二十年、教祖が御身をかくされるまで、お側近く、お守役を勤めさせて頂いたのである。
例年なら衣替えの季節ですが、今年は既に猛暑。我が家では、子供たちが毎日の様にガラガラと小さなかき氷機を回しては、父親が水割り用に作っておいた氷をぶんどっております。
さて今回の御逸話は明治12年6月、増井りん先生が教祖のお守りを始められたと時の御逸話です。「どんな事するのも、何するも、皆、神様の御用と思うてするのやで」のお言葉は分かり気がします。でも気になったのはその前のお言葉。「楽しめ、楽しめ」あれ、このフレーズどこかで聞いた事あるかもと思って調べてみました。
ご逸話篇には「楽しめ」というお言葉が4回出てきます。(定めた心、雪の日、先を楽しめ、用に使うとて)全て教祖が増井りん先生に仰られたお言葉でした。増井りん先生の御逸話は全部で七つ。その半数以上で「楽しめ」と仰られていることになります。しかも残りの3つの御逸話(心の皺を、何から何まで、栗の節句)もすべて心の持ち方を諭された御逸話でした。
ドキッとしました。私は今まで、どんなしんどい事があっても、頑張って辛抱してガマンをしていたら、神様から何時かは徳を頂けるものと信じていました。でも、増井りん先生は反対です。どんな状況であっても、楽しんでしかも周囲に心を配って通られています。ガマンだけでは全く意味をなさないのです。子育てを例に考えてみると、分かりやすいかもしれません。自分の子供が喜んでいたら親は安心できますが、嫌な顔をしていたら、親は心配するだけですよね。毎日親を心配させているのに、徳が積めるはずはありませんね。私は申し訳ない気持ちで一杯になりました。これからは家内を見習ってもう少し毎日を楽しんいこうと思います。
さて増井りん先生と言えば「針の芯」というのがあるのですが、ご存じでしょうか。
明治十四年増井りん先生が、山澤ひさ先生と共に教祖の仰せのまま「つとめ人衆」の紋を作られることになりました。その際、教祖が増井りん先生に「針の芯」と仰せになったそうです。以降「つとめ人衆」の紋だけでなく、赤衣やそれから作られる「証拠守り」は、まず増井りん先生が最初の一針を縫われてからで拵えるようになりました。
増井りん先生と聞いて、多くの方が思い浮かべるのは「誠の人」だと思います。誠の人とはつまり、毎日を楽しんで周囲にしっかりと心を配ることができる人なのかもしれませんね。だからこそ、いろんな用に使われる人間になっていくのだと思います。