天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2023年後半掲載分)

67 かわいそうに (2023年7月掲載)

 抽冬鶴松は、幼少の頃から身体が弱く、持病の胃病が昂じて、明治十二年、十六才の時に、 危篤状態となり、医者も匙を投げてしまった。  この時、遠縁にあたる東尾の伝手で、浅野喜市が、にをいをかけてくれた。そのすすめで、 入信を決意した鶴松は、両親に付き添われ、戸板に乗せてもらって、十二里の山坂を越えて、 初めておぢば帰りをさせて頂き、一泊の上、中山重吉の取次ぎで、特に戸板のお許しを頂いて、 翌朝、教祖にお目通りさせて頂いた。すると、教祖は、 「かわいそうに。」 と、仰せになって、御自身召しておられた赤の肌襦袢を脱いで、鶴松の頭からお着せ下された。  この時、教祖の御肌着の温みを身に感じると同時に、鶴松は夜の明けたような心地がして、 さしもの難病も、それ以来薄紙をはぐように快方に向かい、一週間の滞在で、ふしぎなたす けを頂き、やがて全快させて頂いた。  鶴松は、その時のことを思い出しては、「今も尚、その温みが忘れられない。」と一生口癖 のように言っていた、という。
 
 
 
「かわいそう」という言葉は不思議な言葉ですね。忙しそうは忙しく見える。美味しそうは美味しく見える。というように、〇〇そうは,〇〇にみえるという意味なのに「かわいそう」だけは可愛く見えるにはなりません。「かわいそう」の元となる古語は「顔映(かわはゆし、かおはゆし)」恥ずかしくて顔を赤くする様を表しているのだとか。そこから、見ていられない→不憫である→可愛そうという意味になっていったようです。つまり「かわいい」は可愛いという意味よりも、可哀という意味の方が元々の意味だったようです。不思議な言葉だと思う理由がもう一つ。それは私が、「かわいそう」という言葉を身近な人に対して使ったことがないからです。テレビを見ていて、貧しい国の人々や災害に合われた方々に「かわいそう」と言ったことはあっても、お見舞いに言って「かわいそう」と言ったことはありませんでした。たぶん、同情することが、なんとなく失礼にあたるような気がしたからなのかもしれません。抽冬先生が危篤状態になられたのは大阪の堺市だそうです。一緒に来られたご両親や付き添いの方々は、堺市からずっと戸板を乗られている抽冬先生を担いでお屋敷までこられたんです。そのことだけでも、どれだけ必死な思いでこられたかが想像できます。その必死な思いでおぢばまで帰ってこられた抽冬先生に対して、教祖は「かわいそうに」と仰せられたのです。ついつい私たちは、〇〇の理由でこうなったとか、もっとこうしなさいとか、言いそうになりますが、教祖は「かわいそうに」と私たちの心に寄り添ってくださいます。可哀そうの語源となった「顔映」。不憫な人をみて、言葉にはしないけれど、目をそむけたくなったり、なんとかしたくなったり、同情したりという、そういった気持ちは、自然にでてくる感情です。つまり神様が私達人間に授けて下さった感情だと言えるのではないでしょうか。「人間には、陽気ぐらしをさせたいという親神の思いが込められている。これが、人間の元のいんねんである。」と教典にあるように、陽気ぐらしをさせる為に神様が授けて下さった感情だと思うのです。そう思って、もう一度逸話篇を読み返しました。もしかしたら、陽気ぐらしができていないことに対して「かわいそうに」と教祖は仰せになられているのではないか。そう思うと、この言葉は単に抽冬先生だけに仰せられている言葉ではないかもしれない気がします。いつも私たちのことをご覧になられている教祖は、たとえ病気やけがで苦しんでいなくても、陽気ぐらしのできていない私たちに対して「かわいそうに」と仰せられているかもしれませんそうして、今、この瞬間も陽気ぐらしができるようにと私たちの心に寄り添ってくださっているように思えるのです。教祖から「かわいそうに」ではなく「かわいらしい」と思えるような心で、陽気ぐらしを目指していきたなあと思います。
 
 
 
129 花疥癬のおたすけ (2023年8月掲載)

 明治十六年、今川聖次郎の長女ヤス九才の時、疥癬にかかり、しかも花疥癬と言うて膿を 持つものであった。親に連れられておぢばへ帰り、教祖の御前に出さして頂いたら、「こっちへおいで。」と、仰っしゃった。恐る恐る御前に進むと、「もっとこっち、もっとこっち。」 と、仰っしゃるので、とうとうお膝元まで進まして頂いたら、お口で御自分のお手をお湿しになり、そのお手で全身を、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、三回お撫で下され、つづいて、又、三度、又、三度とお撫で下された。ヤスは、子供心にも、 勿体なくて勿体なくて、胴身に沁みた。
  翌日、起きて見たら、これは不思議、さしもの疥癬も、後跡もなく治ってしまっていた。 ヤスは、子供心にも、「本当に不思議な神様や。」と思った。
  ヤスの、こんな汚いものを、少しもおいといなさらない大きなお慈悲に対する感激は、成 長するに従い、ますます強まり、よふぼくとして御用を勤めさして頂く上に、いつも心に思 い浮かべて、なんでも教祖のお慈悲にお応えさして頂けるようにと思って、勤めさして頂い た、という。

 
 
 こどもおちばがえりが、4年ぶりに開催されました。スーパーへ買い物へ出かけた時も、電車に乗っている時も、以前のようにマスク姿の人ばかりという風景は見なくなったように思います。
 新型コロナに振り回された三年の間、多くの方々がいろんなことを考えたり反省されたりなさったのではないかと思うのですが、そんな中でお道の信仰者が最も深く考えてきたのは「教祖だったら、どうなされれただろうか?」ということではないかと思います。そうして御逸話篇にその答えを求めるとき、教祖のなされたおたすけとして、考えさせられるのは、やはりこの御逸話だと思います。
 「疥癬」はダニの一種である「ヒゼンダニ」がヒトの皮膚に寄生しておこる皮膚の病気で、激しいかゆみを伴う感染症だそうです。直接的に肌から肌、また、衣類や布団、シーツ等を介して間接的にヒトからヒトへ感染するそうです。
想像してください。9歳の女の子が、誰かにうつるかもしれない感染症を患って、しかもそれが皮膚病で、見てすぐそれと分かるほど全身に膿を持っているのです。どれほど心細くて、寂しい思いをしていたかと思うのです。そうして誰かにうつすかも知れないという恐怖心やこんな姿を見られたくないという羞恥心の中で、初めて出会う教祖が「こっちへおいで。」と仰せられてもなかなか御前に進めないでいます。それでも教祖が何度も「もっとこっち、もっとこっち」と仰せになられるので、やっと教祖のお膝元まで進ませて頂いたら、教祖がおさづけを取り次いで下さるのです。「おさづけ」という表現が正しいのかは分かりませんが、私達ようぼくが、今、毎日のように取り次がせて頂いている「あしきはらいのさづけ」と同じ動作を教祖が、9歳のやすさんに取り次がれているのに気づいたときは、びっくりしました。そして教祖は、この難病だけでなく、9歳の女の子の抱いている恐怖心や恥ずかしさや不安といった心のマイナス要素を全部拭われているのです。
 私たちは、なかなか教祖のようなおさづけはできないかもしれません。でも、共感できることがあります。それは、子供の頃、真剣に取り次いでもらったおさづけというのは、大きくなっても覚えているということです。
 そうして、もう一つ。子供の頃、おぢばへ帰った楽しい思い出も、やはり忘れることはないと思います。それは信仰する者だけではありません。信仰はしてなくても、「子供の頃に、こどもおぢばがえりにいったことがあるんだよ」と楽しそうに話す人に出会ったことがる人は、決して少なくないと思います。
 今年、4年ぶりに開催されたこどもおぢばがえりでも、きっと多くのこどもたちが、教祖のぬくもりに触れたのではないかと思っています。
 
 
173 皆、吉い日やで (2023年9月掲載)
 
教祖は、高井直吉に、「不足に思う日はない。皆、吉い日やで。世界では、縁談や棟上げなどには日を選ぶが、 皆の心の勇む日が、一番吉い日やで。」 と、教えられた。
  一日 はじまる
 二日 たっぷり
 三日 身につく
 四日 仕合わせようなる
 五日 りをふく
 六日 六だいおさまる
 七日 何んにも言うことない
 八日 八 方ひろがる
 九日 苦がなくなる
 十日 十ぶん
 十一日 十ぶんはじまる
 十二日 十ぶんたっぷり
 十三日 十ぶん身につく
   ( 以下同 )
 二十日 十ぶんたっぷりたっぷり
 二十一日 十ぶんたっぷりはじまる 
   ( 以下同 )
  三十日 十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり
 三十日は一月、十二カ月は一年、一 年中一日も悪い日はない。

 
 
 まだ暑い日が続いているのに、もうインフルエンザが流行しているとニュースで知って驚きました。新型コロナも、本当に終息したのか分からないし、まだまだ大変な日々が続きそうです。ロシアとウクライナの戦争も終わりが見えず、ガソリンの価格も一向に下がる様子がみえません。
 諭達第四号には、「頻繁する自然災害や疫病の世界的流行も、すべては私たちに心の入れ替えを促される子供可愛い親心の現れであり、てびきである。」とありますが、未熟な私は、なかなか毎日が素晴らしいと思うことが難しいように思います。「水を飲めば水の味がする」と言われても、なんだか無理やりにさせられるひのきしんみたいに、心のどこかで喜べないやせ我慢のようにも思えてきます。
 もちろん、頭では理解できます。毎日が吉い日だというのは、毎日が、神様から十全のご守護を頂いている日々だということだし、かしもの・かりものの教理こそこの御教えの根本だということも、決して分からない訳ではありません。でも、例えば、なかなか学校へ行ってくれない、うちの子を見ていたら、先の不安ばかりを考えてしまうし、熱を出した、ケガをしたと聞けばオロオロとするだけで、神様のてびきだからと喜ぶことは難しいです。
 どうしたら、心から喜べるんだろうかなと考えていたら、隣の部屋から笑い声が聞こえてきました。妻が近所の子供たちに英語を教えているのでした。
「そういえば最近、全然中国語を勉強しなくなったよな」
そう頭を掻いて、思い出したことがあります。私が一番中国を話せていた時は、初めて上海について、たった一人で暮らしていた時だったということです。
 そう考えてみると、これは語学だけの話ではないことに気づきました。自分の自信を支えてくれているのは、自分が頑張ったことだけなんですよね。反対に頑張っていなかったことは、あの時、もっとこうすればよかったと夢にまで出てくるくらいに後悔します。
 心から毎日が吉い日だと思うことは難しいですが、そう信じて頑張っていく日々が、結局は、吉い毎日へと変えてくれるのかもしれませんね。
 
 
158 月のものはな、花やで (2023年10月掲載)
 
 ある時、教祖の御前に、山本利八が侍っていると、
「利八さん、外の方を見ておいで。」
と、仰せになった。その頃は、警察の取締まりの厳しい時であったから、それについての仰せと思い、気を付けて、辺りを見廻わったが、誰も居ない。それで、もどって来て、「神さん、何んにも変わりはありゃしません。向こうのあの畑には、南瓜がなっています。この畑には、茄子が沢山出けました。」と申し上げると、教祖は、膝を打って、
「それそれ、あの南瓜や茄子を見たかえ。大きい実がなっているが、あれは、花が咲くで実が出来るのやで。花が咲かずに実のなるものは、一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上で言うけれども、何も、不浄なことありゃせんで。男も女も、寸分違わぬ神の子や。女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りがあるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。よう、悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。むだ花というものは、何んにでもあるけれどな、花なしに実のるという事はないで。よう思案してみいや。何も不浄やないで。」
と、お教え下された。

 
 今月の教会報で載せる御逸話は、どうしようかなと迷ったので、教養掛の先生に「お好きな御逸話はなんですか?]と尋ねたところ、今月の御逸話を勧められました。愛妻家の先生らしいなあと感心しました。
 山本利八先生は、中河大教会の基礎を作られた山本利三郎先生のお父様です。山本利三郎先生が21歳の頃、村相撲で胸を打った利三郎先生は、三年間病に伏しておられ、命が今日明日とも分からないほどになった時においがかかり、戸板にのって命がけのおぢばがえりをして救けていただいたそうです(逸話篇33 国の架け橋)。ですから、山本利八先生は息子さんを助けていただいたことによって信仰を始められたということになります。おとなしく、真面目でコツコツと働くタイプの先生だったようで、後に本部詰所の生き字引とあだ名されたほどだったそうです(天理教事典より)。文政2年生まれ(1819年)とのことですので、この御逸話は利八先生が60代中ごろのことだと思われます。
 何も考えずに読んでいた時は、教祖はもっと若い先生にこのお話をなさっていると勘違いしてました。ですが、教祖は、若い血気盛りの男性ではなく、非常に真面目で子供思いな年配の男性である利八先生にこのお話をなされたのです。そう考えていくと、なんとなく今までおもっていた、この御逸話の風景は少し違って思えてきました。「めまつをまつわゆ ハんでな」(おふでさき 7:21)との言葉もあるように、男女平等ということを仰せられているのかと思っていましたが、それだけなはない気がしたのです。もう少し違って思えるのです。
子供の成長とともに親として成長するようになり、子供の成長や幸せが自分の幸せになり、子供の成長とともに親として成長することができることを知る年齢や立場になっている先生に、教祖はこのお話をなされたのです。想像ですが、きっと利八先生は子供だけでなく、奥様のことも大切になされていた先生だったと思います。ですからきっと教祖はこの話を利八先生になされたのだろうと思います。
そういえば、冒頭でお尋ねした、教養掛の先生も愛妻家で、子供たちに対しても優しい先生だったと思い返しました。
「女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りがあるで。」
 奥様の「骨折り」のおかげで、きっとお父さんは大切な子供たちから幸せをもらっていることに、気づいておられたのかもしれませんね。
 
 
5 流れる水も同じこと (2023年11月掲載)
 
 教祖が、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉に、「私は、夢中になっていましたら、『流れる水も同じこと、低い所へ落ち込め、落ち込め。表門構え玄関造りでは救けられん。貧乏せ、貧乏せ。』と、仰っしゃりました。」と。

 
 諭達が発布されて一年が過ぎました。御諭達はこれまでに幾度となく発布されているのですが、最も記憶に残っているのは、百年祭前に三代真柱様が御発布下された諭達第三号です。子供の頃、夕づとめの後に毎日みんなで拝読していたからです。中でも記憶に残っている箇所は「百という字の意は、白紙に戻り一より始めるを謂う。」という一文です。多分、子供にも分かりやすい表現だったからかもしれません。
 さて、手柄山分教会も百周年を迎えることになりました。百周年を迎える月報に掲載する御逸話を何にしようと考えていて、この諭達第三号の一節を思い出したのでした。
 教祖の最初のひながたは「貧に落ちきる」であると、修養科やさまざまな講話で耳になされたと思います。でも、どうして、最初のひながたが「貧に落ちきる」なのでしょう。三代真柱様の著書、「万人のひながた」には、このような一文があります。「ひながたの道の最初のひながたである、貧に落ち切る姿というものは、親神様のふところに身も心も任せ切ってしまうという姿である以上、信仰者の最初の心得と、信仰のこれが最初の態度であって、たすけ一条の道の根本精神にほかならない」また、「ひながたを拝しますと、最初の板挟みは家人や近隣の人々との間に起こったのであります。教祖は神のやしろにおわすゆえ、どんなトラブルが起こっても、問題ではありません。物事に当たられることができるのでありましょうが、私たち人間はそうはいかない、何しろ物事の考え方を知らないのであります。そんな人間の心情を始終ご覧になっている教祖は、こういう苦しみの時はこう考えるのだ、こういう悲しみはこうして打ち克つのだ、このなやみはこうすれば解決できるだろうと、ご自分の行動を通して、実際私たちがこの道を通らせて頂ける手本ひながたをお示しになったのであります。」ともあります。
 教祖の五十年のひながたは、世界中の全ての人間を救けたいという神様の親心と周囲の人々との間で板挟みになりつづけた50年間だったとも言えるかもしれません。でも、どんな中であっても親神様のふところに身も心も任せ切ってしまうことが最も大切だと教えられているように思います。
 私たちが生活する上で苦しみや悩みごとの殆どは病気やケガを除くと、その殆どは人間関係です。でもどんなしがらみや板挟みの中であっても、その解決する方法は教祖の五十年のひながたの中にあると思います。それを見つけて懸命に親神様、教祖にお喜び頂こうと努力することが、陽気ぐらしへと歩む道になるのだと思います。
 
46 何から何まで (2023年12月掲載)
 
 ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ。」と言った。出刃はなかったのである。
 りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃庖丁と薄い刺身庖丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで。」と促した。教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、
「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ。」
と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という

 
 逸話篇に苦手な御逸話があります。「七八 長者屋敷」です。詰所での生活を、毎日のように愚痴や不満ばかりで生活している筆者にとって、なかなか「よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。」と素直に思うのは難しいのです。読むたびに至らない自分を卑下しそうになってしまいます。
 今回の御逸話にでてこられる増井りん先生は、「誠の人」と冠されるくらいにすごい先生で、今更説明も必要がないほど。もちろん、それは、この御逸話でもよく分かります。でも、あんまりにもすごい先生ですから、ついつい自分とはレベルが違うというか、あまりにも遠い世界の先生にも思えてしまいます。「何から何まで」心を配ることなんて私には無理と叫びそうになってしまいます。それどころか「ドアはあけたらあけっぱなし、箪笥も押入れも、最後まで閉めてくれへんし!」と家内に叱られている私は「何から何まで」至らないところだらけなので正反対です。きっと何一つしっかりとしたことば身について
いないからなのでしょう。と、ここまで書いて気づきました。増井りん先生は、「何から何まで」することが、身についておられるんですよね。きっと、どんな小さなことでも、最後まで心を込めてなされることがしっかりと習慣になって身についているから、教祖から「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ。」と褒めて頂けるようになれるのだと思います。
 「何から何まで」とはいきませんが、少しでも身につくように、目に前のことを一つ一つ、心を込めて丁寧に行うよう努力していきたいと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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