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天理教手柄山分教会報2009年10月号より 「初心忘るべからず」

天理教手柄山分教会報『Tegarayama』2009年10月号より

初心忘るべからず

う~ん。眠い……(=_=)
みなさま、お久しぶりです。
またもや教会報に載せる原稿がなくなりました。前回書いたのはいつでしたっけ?(……といいながら調べる。)
……。
「連帆、生玲をいじめたらあかんやろ!生玲も、いちいちビービー泣かんでよろしい」
……えっと去年の8月か。一年以上もサボって……。
 いやいや皆様方にいつも原稿を書いていただいている賜物、本当にありがとうございます。
「だから~!、お母ちゃん。こんなとこに、栄生をおいていかんといてよ!またふすまめくって食べとーで!トッシーも、お母ちゃんのとこにいっときなさい!ぜんぜん、原稿を書くのがすすまないでしょ!!」
 この間に、会長様も代わり、待望の長男も賜り、結婚生活も10年目を迎え……。と、時の経つのが速いと実感するのはきっと年齢を重ねたせいでしょうか。
 そんなことを書くと、もっと年齢を重ねた恐ろしい前会長様のおしこみを受けてしまします。(もちろん恐ろしいのはおしこみであって、前会長様ではありません。……ということにしたかなければ、、)
「お父ちゃん!!幼稚園のバザーの荷物運ぶの手伝って!!」
(一時中断)
 やっと終わった。……気を取り直してっと。
 最初からだらけた文章になってしまいましたが、決して普段の生活がだらけきっているからではありません。…たぶん。
 そうです。詰所での御用も4年目に突入し、いくら叱られても平気でいるとか、初心を忘れてしまっているとか、或いは子供の方がしっかりしてきたとかいうウワサを耳にしたとしても、それらはきっとデマです。決して信じてはいけません。ボーっとしているように見えるときは、原稿が集まらないこと心配しているかもしれません。朝事務所で寝ぼけた顔をしていても、決して二日酔いではなく、子供たちの行く末を案じているに他ならないはずです。
 ……ということにしておこう。
 もちろん、家内に叱られてやけ酒を飲むようなことも決してない……はずです。
 だいたいこの夏、修養科に入られた方々をご存知の方は、如何に詰所の勤務者が日々緊張して過ごしているか想像できることのはずです。専修科を卒業したとか、教校の本科をでたとか。今さら子供の時からいかにおつとめをサボるかを考えてきた詰所青年がお手直しするなんて、出来るはずもありません。まして付添で入らせたのは、飾東の婦人会で中心になられる先生方。いったいどれだけ掌に脂汗が溜まるか。想像に難くないことではないでしょう。
 どう考えても、修練でおてふりや鳴物を教えているというよりは、教え方を教えていただいているという表現が正しく思えます。
 だいたいおてふりというのは、ふる人の性格や勤めてきたものが、全部出てくるので、ごまかしようがないものです。私のように、言っていることと、やっていることとがめちゃくちゃで、大いにかけ離れていると、一人でお勤めをしているときに、やっぱり自然に歌と手振りか乖離してきます。おまけに性格がグニャグニャしてひん曲がっていますから、手振りもグニャグニャしてひん曲がっています。さらに気位だけ高いので、手振りも、どことなく表れていて、バランスが悪いったらありません。
 いや。これは冗談ではなく、このことは本当にそうなんだと、日が経つにしたがってだんだんと理解できてきたことです。詰所に来さして頂いて、いろんな方々のおてふりを拝見することが多いのですが、人それぞれに、いろんな癖がでてくるようです。すぐに親指が離れる方、勇みの手で左右の高さがどうしても違ってしまう方。投げの手などは、本当に十人十色。つい自分の手ぶりはどうなっているかと今すぐ鏡で確かめたい気持ちになります。
 確かめたいことというと、先ほど詰所での生活も4年目となって、初心を忘れていないかと言いましたが、再確認したり反省したりしなければならないことが実にたくさんあります。子供のせいにして部屋で休んでいたり、或いは食事の数を食堂の方々に伝えたつもりで忘れていたり、毎月のことだからと連絡を行っていたりと、数えたらキリがありません。でも初心を忘れていると痛感するのは、やはり修養科生の方々の前で踊らせていただくおてふりなのです。
 「初心忘るべからず」という言葉は、決して最初の頃はよかったのに!とか初めての感動といった意味ではありません。
 若い頃は未熟で、失敗した自分の愚かさをを忘れなければ、将来それが自分の力にかわってゆく。そうして一人前と呼ばれるようになっても、その時々に応じて初めて覚えるようなことも出てくるのだから、どん欲にさまざまなことを覚えてゆかなければならない。更には年をとって、もうもう覚えるものはないように思っても、老後というものは初めて経験することであるし、まだまだ学ぶべきことは残っている。とだいたいこのようなことを教えられたのです。
 と、自分のことは棚にあげて、よくもまあ、偉そうなことがかけるなと自分でも、あきれております、、( ;∀;)
 とふざけていると、すすまないので、ちゃんと書きます。
 初めて教祖がおてふりを私達にお教え下さったのは、慶応二年「あしきはらひ」の節と手振りをお教えくださったと聞かせて頂きます。そうして翌年の慶応三年から、約三年の年月をかけて「十二下り」を教え下さいました。丁度教祖七十才の御年のことです。「ただ踊るのではない。理を振るのや」とのお言葉どおり、自我を捨てて、素直な心で理を振らせて頂くことができれば、自然に綺麗な手振りになるはずです。でも、ついつい余計なことを考えたり、癖性分がでて、変な手振りになってしまします。ですからどれだけおてふりを練習しても、なかなか綺麗なお手にはなりません。様々な出来事を経験して少しずつその意味合いが理解できるもので、いつになっても新しく学べることができてくるものです。
 皆さん方は、おやさまのおてふりはどのようなものだったんだろうと想像することはありませんか。教祖がてをどりをなさる様子を心に描きながら練習すると、綺麗な手振りになるかもしれませんね。
 今、八十才を過ぎた女性の老会長様が付添のため修養科の聴講生として入っておられます。背骨も丸くなって、普段も動作も、ゆっくりとなさっておられます。しかし、いざおてふりをなさると指先までしっかりと伸び、まるで掌が大きくなったような錯覚さえ覚えるほどです。親指が離れることも、左右の手の高さが極端に違うといったことも、もちろんありません。やはり長年の間、こつこつと御用をされてきた先生のおてふりは、こうも違うのかと感動せずにはおられません。
「神さん、見てはるよ!」
小さい頃から何かある度に聞き、そうして今子供に言い聞かせていることばです。
 でもそれは、良いことをしたり、或いは良くない行動を戒めるためだけのことばではないことに、この老会長様のおてふりを見て改めて気付かされました。「おつとめ」こそ、神様に見て貰うためにするものですよね。ですから「てをどり」の練習も神様に見て頂こう或いは、今ご覧になられていると思って頑張らなければなりません。
 「パパ!!明日の運動会、ちゃんと見に来てよね!」
 最後の最後まで、子供たちはお父ちゃんの邪魔をしなければ、気が済まないようです。でも、お父さんやお母さんに自分の成長をみてもらうことこそ、子供にとって一番うれしいことかもしれませんね。
 

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