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天理教手柄山分教会報2008年8月号より 「夏の記憶あれこれ」

夏の記憶あれこれ
 
 飾東詰所は、まだまだ忙しい日が続いています。
 こどもおぢばがえりが終わっても、すぐ学生生徒修養会の講師宿舎になるからです。全ての部屋の布団を干してカバーを掛け替えたり、フィルターの掃除をしたり、はたまた講師宿舎用に長机をだしたり、ハンガーの数を揃えたり……。
 決して教会報の作成が手抜きになってきていることを言い訳しているのではありません。('◇')ゞ
 ただ、こどもおぢばがえりも、学生生徒修養会も、そうして教会報も、すべて多くの方々の心に、素晴らしい記憶として残してもらえたらと、願っているのです。……ウソです。忙しくて、そんなこと考える余裕はありません。
 どうも、ワープロの前に座ると、格好のいいことを書こう書こうと、ついついでまかせを書いてしまいます。
 考えてみると、自分の記憶を辿っても夏の風景というのは、なんとなく記憶に残りやすい気がします。それは、普段と違った風景に出会うことが多いからかもしれません。こどもおぢばがえりも海岸でのキャンプファイヤーも、森林での飯盒炊飯も、私が鏡を見ることがほとんど無かったからか、さまざまな記憶が輝いてみえます。
 みなさんの記憶に残る夏の日の風景は、いったいどのようなものでしょうか。
 私の場合、子供の頃の夏の風景といえば、近所に住んでいた友達とアブラゼミを捕りです。夏休みになると毎日千代田町の児童公園や冑山などにセミ取りにいっていました。日常から少し離れた風景で言えば、父に連れられて登った書写山や鰯のサビキ釣り。保之叔父や寿雄叔父が釣れて行ってくださった海岸でのキャンプなどなど。そのせいでしょうか。香港にいたときも、休みをもらうと、よく往年の映画「慕情」で有名なリパルスベイに家内や娘とでかけました。
 大きくなってくるとクラブの合宿や様々なアルバイトの記憶なども浮かんできます。
 天理高校が甲子園で初優勝したときに、汗をかきながらトランペットを吹いていたことも、いくら部活が嫌で途中で辞めたとしても、20年も時間が経つと、懐かしい思い出として輝いてみえます。
 そんな中で、忘れられない思い出がひとつ。上海に留学していた1994年7月8日、北朝鮮に最高実力者金日成が死亡しました。中国は北朝鮮と国交があったので、その頃上海にも北朝鮮からの留学生が大勢暮らしていたのです。その頃私も彼らと同じようにお小遣いをあまり持っていなかったからでしょうか、その中の何名かは私とも仲の良い友達でした。一緒にビリアードをしたり、お酒を飲んだりしていました。が、彼らは金日成が死亡して間もなく、何も言わずに祖国へ帰り、そうして戻ってくることはなかったのでした。
 「中国には自由がある」
 はじめて彼らの言葉を聞いたときには、冗談にしか思えませんでしたが、世界にはいろんな国があることを、あの頃初めて知ったきかしました。
 それまで新聞のトップを飾るような大きなニュースと自分が接点を持つようなことはないと思っていました。まったく関係のない別の世界の出来事のように思っていました。でも、あのときたった一行の言葉に振り回される人々かその行間に多く存在することを知ったのです。
 一つの言葉、一つの数字から、多くの風景を想像し、一枚の写真から多くの物語を想像することの大切さ。気付くことの大切さと、そうして、それが出来ていない自分へのもどかしさを、あれから十数年たった今でも、痛感するのです。
 今年のこどもおぢばがえりが始まってすぐのことです。冷房の調子が悪い部屋があり、帰ってこられた子供たちに、嫌な思いをさせてしまいました。普段からの手入れや事前の確認を怠っていたからです。本当に申し訳ないことをしたと思います。「
 詰所と言うところは、目に見えない所で、本当に手間もお金も必要なんだ」と聞かされます。
 それは親里に帰ってこられる方々に対しても言えることです。教会長さん方が一人の帰参者、一人の修養科生を育てるのに、どれほどのご苦心をされているかを、詰所にいるものは考えなければ、詰所での御用は全てウソになってしまうでしょう。
 御逸話篇をひもとくと教祖は、本当に様々なものを見ていらっしゃいます。雪の中、橋桁を渡る増井先生、海難事故に遭われ縣命に神名を唱える土佐先生、青々と茂った煙草畑など。更には廊下の下を人が行き来し、針金が物言うような世界までご覧になっています。私が見える世界はまだまだ限られていますが、それでも出来る限り多くのものを見て、気づき、そうして感謝していきたいと願うのです。
 

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