天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2024年後半掲載分)

91 踊って去ぬのやで(2024年7月掲載)

 明治十四年頃、岡本シナが、お屋敷へ帰らせて頂いていると、教祖が、
「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ。」
と、仰せられて、一しょにお風呂へ入れて頂いた。勿体ないやら、有難いやら、それは、忘れられない感激であった。
 その後、幾日か経って、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、
「よう、お詣りなされたなあ。さあさあ帯を解いて、着物をお脱ぎ。」
と、仰せになるので、何事かと心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、教祖も同じようにお召物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣のお襦袢を、教祖の温みそのまま、背後からサッと着せて下された。
 その時の勿体なさ、嬉しさ、有難さ、それは、口や筆であらわす事の出来ない感激であった。シナが、そのお襦袢を脱いで丁寧にたたみ、教祖の御前に置くと、教祖は、
「着て去にや。去ぬ時、道々、丹波市の町ん中、着物の上からそれ着て、踊って去ぬのやで。」
と、仰せられた。
 シナは、一瞬、驚いた。そして、嬉しさは遠のいて心配が先に立った。「そんなことをすれば、町の人のよい笑いものになる。」また、おぢばに参拝したと言うては警察へ引っ張られた当時の事とて、「今日は、家へは去ぬことが出来ぬかも知れん。」と、思った。ようやく、覚悟を決めて、「先はどうなってもよし。今日は、たとい家へ去ぬことが出来なくてもよい。」と、教祖から頂いた赤衣の襦袢を着物の上から羽織って、夢中で丹波市の町中をてをどりをしながらかえった。
 気がついてみると、町外れへ出ていたが、思いの外、何事も起こらなかった。シナはホッと安心した。そして、赤衣を頂戴した嬉しさと、御命を果たした喜びが一つとなって、二重の強い感激に打たれ、シナは心から御礼申し上げながら、赤衣を押し頂いたのであった。

 
 
 
 岡本シナ先生の御逸話は二つありますが、両方とも本教のにをいがけに大きな影響を与えています。里親や児童養護施設と関わりのある教会やようぼくはが多いのは「人の子を預かって育ててやる程の大きなたすけはない。」(逸話篇86 大きなたすけ)という教祖のお言葉があることも大きな理由に考えられますし、神名流しや路傍講演をたった一人ではじめようとする人が、まず心に浮かぶ御逸話は、今回の「踊って去ぬのやで」の御逸話のような気がします。
 一人で行う恥ずかしさや心細さも、教祖に喜んで頂きたいという使命感も、神様がご覧になられているという安心感も、一生懸命に道を通っている人ならば、誰もが一度は感じたことのある感覚ではないでしょうか。
 ところで、ふと思ったことがあります。
 筆者も詰所でよく除草ひのきしんをするのですが、亡くなられた中村のおじいちゃんは、いったいどんなことを考えながら、五十年間も毎日一人でコツコツと大教会の草むしりをなさっていたんだろうということです。
 岡本善六、シナ夫妻は、「七人の子供を授かったが、無事成人させて頂いたのは、長男の栄太郎と、末女のカン(註、後の加見ゆき)の二人で、その間の五人は、あるいは夭折したり流産したりであった。」(逸話篇86 大きなたすけ)とあります。
きっと少しでも神様に喜んで頂いて、いんねんを納消したいという願いがご夫妻の信仰の根底にはあったのだと思います。
 私はついつい、自分が頑張ったときだけ、神様に見て頂けた喜んでいただけたと、頑張った気でいます。でも本当に自分の悪因縁を自覚して、納消したいのならばそれだけではいけないと思うようになりました。なかなか難しいことですが、サボっているときも、楽をしているときも、神様がご覧になっていることを忘れずに、毎日コツコツと頑張るしかないのかなあと思うのです。
 
116 自分一人で(2024年8月掲載)
 
 教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか。」などと、居合せた人々が、二、三人連れを誘うて行くと、教祖は、決して快くお話し下さらないのが、常であった。
「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで。」
と、仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話をお聞かせ下され、尚その上に、
「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね。」
と、仰せ下され、いともねんごろにお仕込み下された。

 
 
 今までを振り返ったとき、続けることのできた大半は、自分一人ででしようと決めたことかもしれません。誰かに誘われたり言われたりしかとは、なかなか長続きしていない気がします。
 もしかしたら、自分自身には嘘を使えないので、途中で止める言い訳できないからかもしれませんね。
 御本部に参拝に行くときも、家族や知人をいくときは、あまり大きな悩みやお願いごとがないように思います。反対に誰かの助かりを願ったり悩み事があったりしたときは、一人で参拝しているように思うのです。それはきっと、余計なことを考えなくてすむからかもしれません。拝の長さも自分の心がおちつくまでできますし、なにより、誰もいないと正直に自分の気持ちを神様に伝えることができるように思うのです。もちろん家族でする参拝も楽しいのですが、大切な時は一人で決めることにも意味があるのかもしれません。
 この夏も大勢のこどもたちが、おぢばへと帰ってきました。やがて、この子供たちの中にも、人生の岐路に立ったとき、一人でおぢばへと帰ってきて神様に相談する人も出てくるかもしれませんね。
 みんなと帰ったこどもおぢばがえりの楽しい記憶が、本当の信仰へと誘う、きっかけになればと思います。
 それにしても、どうして誰かに誘われたことって長続きしないのかなぁ?
 すみません、長続きしていないのは、もしかしたら私だけなのかも……。
 あっ!も、ひとつ例外がありました。前会長様にむりやり命令されてはじめた、この教会報は、なぜか20年近くたっても、まだ、なんとか、続いています。そういうことも、たまにはあるみたいです。
 
 
192 トンビトート(2024年9月掲載)
 
 明治十九年頃、梶本宗太郎が、七つ頃の話。教祖が、蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、
「トンビトート、カラスカーカー。」
と、仰っしゃって、
「指を出しや。」
と、仰せられ、指を出すと、その上へ載せて下さる。それを、喜んで頂いた。
 又、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさして、教祖のところへヒヨーッと持って行くと、教祖は、それを召し上がって下さった。

 
 
 九月に入って、久しぶりに詰所には小さな子供連れの修養科生のご夫婦が入ってこられました。やはり小さな子供さんが入ってくると、詰所の中がびっくりするくらい賑やかで明るくなりますね。
 さて、今回の御逸話を聞いて思い出すお話があります。飾東大教会三代会長、紺谷久則先生が、なぜおつとめをするのかと、その理由を考えておられたことがあるそうです。
 ある日、まだ小さかった娘さんをあやされていました。
     「手をたたいてごらん」
     「ばんざいをしてごらん」
 小さな子供は素直ですから、もちろん言われたとおりに手をたたいたり万歳をしたりしました。すると、その様子を見た三代会長様はとても幸せな気持ちになられたとのです。その時、親神様の仰せられることを素直に行うことが、親神様に喜んで頂くう上でとても大切なのだと気づかされたそうなのです。
 もう一つ、親に喜んで頂くことの大切さということでは先日、教養掛の先生から、素晴らしい記事を紹介していただきました。それはある先生が、どうして愛町の教会だけがこんなにも教勢が伸びていくだろうと疑問に思って、愛町につながる方に、その理由をお尋ねしたという話でした。そして、そのお話でもやはり、要となるのは、親に喜んで頂くことの大切さだったそうです。
 ところで、この御逸話に出てこられる梶本宗太郎先生は、明治26年、諸井政一先生等と共に、少年会の萌芽とも言われる「一致幼年会」を組織されたことで知られます。また幼少期の二代真柱様や三代真柱様の教育に関わられたこともあるそうです。 
    「トンビトート、カラスカーカー。」
 小さな梶本宗太郎先生をあやされる教祖の目には、立派になられた先生の姿が見えておられたのかもしれませんね。
 そんなことを考えながら、もう一度読み返してみると、この御逸話が、一層味わいのあるお話に思いてきました。
 
3 内蔵(2024年10月掲載)
 
 
 教祖は、天保九年十月二十六日、月日のやしろとお定まり下されて後、親神様の思召しのまにまに内蔵にこもられる日が多かったが、この年、秀司の足、またまた激しく痛み、戸板に乗って動作する程になった時、御みずからその足に息をかけ紙を貼って置かれたところ、十日程で平癒した。
 内蔵にこもられる事は、その後もなお続き、およそ三年間にわたった、という。

 
 
 若い頃にこの御逸話を読んだときは、それほど何も気づかなかったのですが、結婚して子供ができ子育てするようになってから読み直すと、まったく意味の違う御逸話のように感じたことを覚えています。もしかしたら、それは夫善兵衛様に近い視点でこの御逸話を読んでいたからかもしれません。
 それまで人一倍働き者で、良き妻良き母であった教祖が、立教を境に、ほとんど内蔵にこもられていたというのですから、当時の中山家はいったいどんな様子だったんだろうと想像するわけです。炊事や洗濯はどなたがなさるようになったんだろう。まだ幼いこかん様の面倒は誰がみていたんだろう。善兵衛様や子供たちがなさっておられたんだろうか。そんなことを想像するようになったのです。
 『天保九年十月の立教の時、当時十四才と八才であったおまさ、おきみ(註、後のおはる)の二人は、後日この時の様子を述懐して、「私達は、お言葉のある毎に、余りの怖さに、頭から布団をかぶり、互いに抱き付いてふるえていました。」と述べている。』   (逸話篇2【お言葉のある毎に】)とあるように、月日のやしろとなられて、急変した教祖を小さなお子様たちはどのような思いで見ておられたんだろう。そうして、その変わり果てた有様を善兵衛様は、どのような思いでみておられたんだろうと、考えるわけです。そうして、長男であった当時数え年で17歳だった長男秀司様が、最もその様子に抗っていたであろうことは容易に推測できるわけです。その秀司様に教祖は神様のご守護をお示し下されているんですよね。
 高校生の頃にこの御逸話を読んだ私は、ずっと教祖が内蔵でどんなことをなさっていたんだろう、どんなことを考えたり、或いは神様から聞かされたり見せられたりしていたんだろうと、そんなことばかりを想像していました。でも、ご家族に目を移したとき、このお道は、本当に不安だらけの中で始まったんだと、この御逸話によって、深く考えさせられるようになりました。
 
150 柿(2024年11月掲載)
 
 明治十七年十月、その頃、毎月のようにおぢば帰りをさせて頂いていた土佐卯之助は、三十三名の団参を作って、二十三日に出発、二十七日におぢばへ到着した。
 一同が、教祖にお目通りさせて頂いて退出しようとした時、教祖は、
「一寸お待ち。」
と、土佐をお呼び止めになった。そして、
「おひさ、柿持っておいで。」
と、孫娘の梶本ひさにお言い付けになった。それで、ひさは、大きな籠に、赤々と熟した柿を、沢山運んで来た。すると、教祖は、その一つを取って、みずから皮をおむきになり、二つに割って、
「さあ、お上がり。」
と、その半分を土佐に下され、御自身は、もう一つの半分を、おいしそうに召し上がられた。やがて、土佐も、頂いた柿を食べはじめた。教祖は、満足げにその様子を見ておられたが、土佐が食べ終るより早く、次の柿をおむきになって、
「さあ、もう一つお上がり。私も頂くで。」
と、仰せになって、又、半分を下され、もう一つの半分を御自分がお召し上がりになった。こうして、次々と柿を下されたが、土佐は、御自分もお上がり下さるのは、遠慮させまいとの親心から、と思うと、胸に迫るものがあった。教祖は、つづいて、
「遠慮なくお上がり。」
と、仰せ下されたが、土佐は、「私は、十分に頂きました。宿では、信者が待っておりますから、これを頂いて行って、皆に分けてやります。」と言って、自分が最後に頂いた一切れを、押し頂いて、懐紙に包もうとすると、教祖は、ひさに目くばせなされたので、ひさは、土佐の両の掌に一杯、両の袂にも一杯、柿を入れた。こうして、重たい程の柿を頂戴したのであった。

 
 
 どうして教祖は、最初からたくさんの柿を土佐先生に渡されなかったんだろう。若い頃から人とかかわるのが苦手でひねくれた所のある私は、ついついそんなことを思っていました。
 でも、子供が出来て子育てをするようになると、少し考え方が変わってきました。
 もし、最初から柿を頂いていたら、土佐先生は柿を口になさっただろうかと考えるようになったのです。きっと土佐先生は、どれほど口にしたいと思っていても、反対にそう思うえば思うほど、できるだけたくさん、信者さん方に配りたいとお思いになられたはずなのです。
 資料で確かめたわけではないですが、きっと土佐先生は柿がお好きであったと想像します。だからこそ、教祖は、なんとか喜ばせたいとの思いで、柿の皮をおむきになられたのだと思います。
 大教会長様は常々、まず目の前の方に喜んで頂く努力をすることが大切だと仰せになられていますが、そのためにヒントが、この御逸話にあるような気がします。
 
 
128 教祖のお居間(2024年12月掲載)
 
 教祖は、明治十六年までは、中南の門屋の西側、即ち向かって左の十畳のお部屋に、御起居なさっていた。そのお部屋には、窓の所に、三畳程の台が置いてあって、その上に坐っておられたのである。その台は、二尺五寸程の高さで、その下は物入れになっていた。子供連れでお伺いすると、よく、そこからお菓子などを出して、子供に下された。
 明治十六年以後は、御休息所にお住まい下された。それは、四畳と八畳の二間になっていて、四畳の方が一段と高くなっており、教祖は、この四畳にお住まいになっていた。御休息所の建った当時、人々は、大きなお居間が出来て嬉しい、と語り合った、という。

 
 
 年が明けると、いよいよ年祭活動の三年目を迎えます。が、ここで今更の質問を一つ。年祭活動って、いったいどんな活動をすればいいのでしょうか。
 もちろん、熱心な先生方はすぐに答えられると思うのですが、毎日ボーっとして過ごす私は、なかなか答えるのが難しいです。ふだん、にをいがけも、おたすけも、胸を張れるほど頑張っているとは言い難いので、ついつい目をそらしたくなります。
 でも、一つ考えて頂きたいのは、年祭活動で最も大切なことは、教祖のひながたをたどる努力をするということではないかということです。日々の暮らしの中で、こんな時だったら教祖はどうなさっただろう。どうお考えになっただろう。そんなことを考えながら、想像しながら頑張っていくことが大切なのだと思います。
 その為に、まずすべきことがあります。教祖伝を開くことです。逸話篇を開くことです。そうして少しでも教祖を身近に感じることが、ひながたをたどるうえで、一番大切なことだと思います。
 それからもう一つ、教祖を身近に感じる方法があります。それは、おぢばがえりの際、祖霊殿の北側にある記念建物に訪れることです。ここで、教祖はどんなことをお考えになられたんだろう。先人の先生方にどんなお話をなさったんだろう。そんなことを想像することも、ひながたをたどることの一つの方法だと思うのですが、いかがでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 

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