おたねさんちの童話集「イノシシ・イノ吉」
イノシシ・イノ吉
新しい年の幕開けで、イノシシ村は大騒ぎです。
まだ幼いイノ吉も、忙しそうに村祭の準備を手伝っています。でも一つ、困ったことがありました。
実は、この祭で行われる「猪突猛進レース」にイノ吉も出場しなければならないのです。
イノシシ村では、このレースで良い成績を得られなければ、一人前のイノシシとは、認めてもらえません。
村祭まで、あと三日。でも、イノ吉は、レースのことが心配で、祭の準備も、なかなか手につきませんでした。
「コラーっ!さっさとしろ」
大きな声で怒鳴りつけるのは、イノ吉の兄貴、去年のレースに一等賞をとったイノ蔵です。イノ蔵は去年のレースで認められてから、一気に村の若頭までのし上がって、今では未来の村長候補ナンバーワンです。
「ハイ」と大きな声で返事をして、手だけは忙しそうに動かし始めましたが、頭の中は、やっぱりレースのことが心配でたまりません。
小さな頃から運動が得意だったイノ蔵と違ってイノ吉は、運動が苦手。しかも兄弟で一番臆病なイノシシでした。
いつもイノ蔵の後を「待ってー!」と泣きながら追いかけているような少年だったのです。
もちろん、イノ吉もこの半年ほどイノ蔵についてレースに向けての特訓を続けてきました。毎日河原を走ったり、水泳の練習をしたり。本当に死にものぐるいで頑張りました。
それでも、心配は消えません。なぜならこの「猪突猛進レース」は毎年何をするか始まるまでは誰も知らないからです。また参加していない者はレースを見ることができません。レースに参加したり、また観戦したものも、まだ見ていない若者にはしゃべってはならない掟だったのです。
ただ、分かっていることは、毎年方法が違うということと、一番早くゴールしたからといって、必ず一番になるとは限らないということです。チェックポイントで、しっかりと点数を稼がないといけないからです。
浮かない顔をしているイノ吉に向かって、イノ蔵が声をかけました。
「心配しなくても大丈夫だ。おまえならやれる」
「うん」
そう答えてみたものの全く不安はきえませんでした。
イノ吉は今回出場するメンバーの顔ぶれを想像しましたが、勝てそうな相手は一人もいませんでした。
去年で言うと出場選手47匹のうち合格できなかったのは5匹だけです。
この五匹が今年どれだけみんなから馬鹿にされていたか、イノ吉は知っていました。
悔しさを胸に秘めた彼らに勝つのは、優勝候補のイノンタでも勝つのは難しいだろうとイノ蔵が言っていたのを聞いてイノ吉はなるほどと思ったほどです。
でも、合格と不合格の違いってなんだろう。
時間で決まるのならば分かりやすい。でも、優勝者が時間で決まらなければ、合格、不合格も決して時間では決まらないはず。
イノ蔵も決まりだからと決してレースについての詳細は教えてくれません。
いたたまれない気持ちになって、イノ吉は祭の準備会場を抜け出して、ひとり河原で考えていました。
「どうしたんだい」
振り向くと、イノ丸がやってきました。
イノ丸か去年イノ蔵とともに優勝候補に挙げられたにもかかわらず、なぜか不合格になったイノシシです。
「べ、べつに……」
イノ吉は言葉を濁しました。
「不安なんだろう?」
イノ吉はなぜだか胸の内を悟られているようで、うつむいてしまいました。
「不安な方がいい。不安な気持ちでレースに参加した方が必死になれるから」
「なぜ俺が不合格だったか知っているか?必死さが足りなかったからだ。本当なら優勝を狙えていたかもしれない。でも俺は必死な姿とか無様な格好を見せたくなかった。このレースは、あきらめたヤツが不合格になるんだ。それだけだ。誰もあきらめなければ誰も不合格にならない。最後まであきらめないヤツが優勝する。それだけだ。タイムもどんなことをするかも関係ない。」
「なぜそれを僕に?」
「イノ吉は不思議そうにイノ丸をみました。」
「それはお前が一番、不合格になりそうだから。だってお前の顔はレースの前から諦めてるって顔してるだろ。でも、俺は俺と同じように惨めな気持ちに他のヤツをさせたくないんだ。」
「それに、僕に勝てるはずがないと思っているから」
「いや、今年は誰にも負けないように必死でするだけだ。相手は関係ない。それをこの一年で学んだ。」
イノ丸との会話で、イノ吉は不思議と肩の力がぬけたように思えた。
「でも、どうして僕にこんなことを……」
イノ吉は祭の準備へと戻った。
祭の準備は慌ただしく、イノ吉はイノ丸の言葉をゆっくりと考える余裕がなかった。でもイノ丸の話をきいて、少し気持ちが落ち着いたのは確かだった。
イノ吉は兄のイノ蔵に、イノ丸の話をした。
「そうか、あいつがそんなことを……」
そうなると、今年の優勝候補はまずイノ丸で間違いないともイノ蔵は続けた。なぜなら、去年のイノ丸だったら自分が勝つことしか考えなかった。もちろんスピードもパワーも申し分ない。持久力も抜群だ。
それでも優勝できないどころか不合格だった。
それが「猪突猛進レース」だからだ。
この意味をしっかり考えると猪突猛進レースに合格できるとイノ蔵は最後に付け加えた。
やがて、祭の日がやってきた。イノ吉たちレースに参加する者以外は楽しそうに、ダンスを踊ったり、歌をうたったり。
本当にたのしそうにしていた。
でも、レースは祭りのメインイベント、つまり一番最後。しかもまだレースに参加していない子供たちが寝静まってから行われる。
イノ吉たちは、祭のあいだ中レースのことが気になって仕方がなかった。
しかも、みんなの会話のあちらこちらで、レースの話題が出てくるから気になってしかたがない。
やはり、優勝校のはイノンタで動かないとか、今年は雪辱に燃えるイノ丸じゃないか。イノ丸は去年と違ってかなり成長した、などなど。
でも優勝候補にイノ吉を挙げてる人を見たことはなかった。
そうして、レースの時がやってきた。
参加者はみんなイノ吉よりも強そう思えた。
でも……。
あたりは真っ暗。
ほとんど何も見えない。
「ただ今から競技内容を説明します」
会場にアナウンスが流れる。
「お察しのとおり、この猪突猛進レースは暗闇の中で行われます。
皆さん北の方角、遠くの方に小さなオレンジの点が光っていますよね。まずはあそこを目指して走ってください。そしてオレンジの点を左に曲がりますと、またオレンジの点が見えますので、それを目指してください。つまりずっとオレンジの点を追い続けていけば、やがてゴールにつきます。オレンジの点をいくつ通過すればゴールがみれるのか。それは秘密です。とにかくずっと走り続けてください。」
「それではまもなくスタートです。
「3、2、1、スタート!」
イノ吉は暗闇の中を縣命に走り出しました。
でも、他の参加者たちの足音は、あっという間に闇の中へ消えて行きました。
きっともう一人取り残されたんだろうな。
でも、もしかしたら、疲れてくるイノシシも出てくるかもしれない。せめてあのオレンジの光までは頑張ろう。
「えっ」
イノ吉は驚きました。
足下に変な感覚。
「水?」
「川だ!」
あっという間に水面がお腹について、さらに肩の高さまでせまる。
「あ、あしがとどかない」
イノ吉は手足をバタバタさせて無我夢中で泳いだ。オレンジの光を目指して。
が、流されてなかなか思うように進まない。
イノ吉は焦った。
それでもとにかく泳いだ。
ひたすら泳いだ。
「本当に前へ進んでいるんだろうか」
「溺れたらどうしよう」
イノ吉は不安と戦いながら、それでもオレンジの光を目指して一心不乱に泳いでいった。
「不思議だ・・・」
他の誰の気配も感じない。
疲れて一瞬手足を止めたとき、イノ吉はそうつぶやいた。
どうして誰もいないんだろう。
それでもイノ吉は、泳ぎを再開した。
どれくらい時間がたったのだろう。
イノ吉は足に地面の感触をおぼえた。
だが、オレンジの光はなかなか近づいてはくれない。
川から上がったイノ吉は、再びオレンジの光を目指して走り続けた。
次にイノ吉を襲ったのはドロの沼だった。
だんだんと地面がグジュグジュしてきたと思ったら、「ズボリ、ズボリ」と膝あたりまでドロだらか、走りにくいことこのうえなかった。
ドロに足をとられて、思うようにすすまない。
「もうゆっくり歩こうか」
イノ吉がそう思ったとき、
「このレースは最後まであきらめないことが大切なんだ」
イノ丸に言われたことを思い出した。
イノ吉は無我夢中でオレンジの光を目指した。
ドロの沼を越えたころ、オレンジの光がだいぶん近づいている事にきがついた。
イノ吉はオレンジの光めがけて縣命に走り続けた。
やがてオレンジの光の下に左向きの矢印が見えた。
オレンジの光の下には大勢の観客が手を振っていた。
周囲にはイノ吉以外のイノシシは見あたらなかった。
「ビリでも、これだけ声援をしてくれたんだ。最後まで精一杯走ることだけ考えよう」
イノ吉のこころは不思議に落ち着いていた。
合格、不合格も気にならないことはなかった。
結果は最後まで走りきってからだ。
イノ吉は次のオレンジの光を目指して走り続けた。
二番目の光は、隨分と高いところに見えた。
が、それが不思議に思えないほど急な上り坂が続く。
「ほとんど山登りだよ」
イノ吉は肩で息をしながら、それでも走り続けた。
やがて2番目のオレンジの光も3番目も過ぎて、ゴールが見えてきた。
「まあ、最後まで走り抜いたんだ、たとえビリでも、それが結果だ。」
イノ吉はゴールに倒れ込んだ。観衆のどよめきが聞こえた。
僕の身体はしっかりとゴールラインを越えている。
それだけで十分だった。
兄のイノ蔵が抱きついてきた。
「最後までよく頑張った!!」
よほど感動したらしい。
まあ、これならビリでも、さほど惨めな思いはしないだろう。
「イノ吉、すごいじゃないか。一番大変なコースだったのに、タイムだけでも第3位に入った。コースや他の得点も入れると、優勝してもおかしくない」
……、えっ。なんのこと。
……、ぼく、ビリじゃなかったんだ。
イノ吉は、そのまま意識を失いました。
「それでは、今年度の優勝者を発表します」
イノ蔵に起こされてイノ吉もドキドキしながら、結果を待ちました。
「今年度の優勝者は、歴代のゴールタイムを大幅に更新したイノ丸です」
場内から大きな歓声と拍手がおこりました。
「続いて準優勝者はイノ吉です。こちらも最難関コースを通ったイノシシの中では歴代新記録でした。最後まで優勝をどちらにするか、協議が行われましたが、イノ丸のタイムがあまりによかったため、イノ丸の優勝としましたが、二人とも近年稀に見る好記録です。みなさんどうか、この二匹に暖かい拍手をお願いします。
大歓声の中、イノ蔵にせかされて、イノ吉は舞台の上に上がった。
「そうか。ビリだと思ったのは、みんな違うコースを走ったからなんだ。」
イノ吉はやっと理解できました。
「そう、その通り。去年俺はずっとトップを走っていると勘違いして、途中で気を緩めてしまったんだ。結果不合格、今年一年、雪辱を果たそうと、猛特訓を続けてきたんだ」
イノ丸は誇らしげに、優勝のメダルを握りしめました。
「なお、本年度の参加者48匹のうち、合格者は42匹。棄権1匹を含む不合格者は6匹でした」
ふと見ると、なんと優勝候補のイノンタが不合格になっていました。
きっとイノンタも去年のイノ丸と同じように、途中で油断してしまったのでしょう。悔しそうに目を真っ赤にしていました。
こうして今年の猪突猛進レースも終わり、イノシシの祭もフィナーレを迎えました。
イノ吉も一人前としてみんなから認められ、イノ蔵の片腕としてイノシシ仲間から注目されるようになりました。