おたねさんちの童話集「蛍のホータ」
蛍のホータ
彦星様はわし座のアルタイル、織り姫様はこと座のベガ。それなら白鳥座のデネブはいったい誰だろう。
緩やかな清流、浮き石の底にすむホタルのホータはつぶやきました。
ホータはまだ夏の夜空を見たことがありません。でも、お母さんが亡くなる前に、夏の夜空がどんなに素晴らしく輝いているのか、ホータに教えてくれていたのでした。あまり明るいところは苦手なホータでしたが、水面に映る星空を眺めるとなんとなく優しい気持ちになる気がしました。
だから、今夜もホータは一人、みんなのいるコロニーから抜け出して星空を長めにきたのでした。
「おーい!でっかいカワニナをたっくさん見つけたよ」
友達のホンルが興奮してやってきました。
カワニナというのは、小川に棲む小さな巻き貝の一種で、ホタルたちの大好物です。
「僕のもちゃんと、残しておいてよー!」
ホータは、さっきまで考えていた難しいことを全部忘れて、ホンルのもとへ一目散に走っていきます。
カワニナの周りにも、もう沢山のホタルの幼虫たちが集まっていました。
「お前も食えよ!」
ホンルが旨そうなカワニナを一匹、ホータに残しておいてくれたのでした。
「サンキュー」
ホータがカワニナにかぶりつこうとした、その時です。
ホータは電撃にうたれたような衝撃を受けました。
「どうした?」
ホンルに尋ねられて、ホータは指さしました。
「ダッピ」
「ダッピってなんだ。あー脱皮か。今度は誰が脱皮しているんだ?」
ホタルの幼虫はサナギになるまでに5遍も6遍も脱皮を繰り返します。
「あれってホーラじゃないか?」
ホータやホンルたち男子は、平気で何処でも脱皮をしますが、女子の幼虫たちはだんだん年頃になると、恥ずかしがって蔭にかくれて脱皮するようになっていました。
「きれいだな」
「うん。きれいだ」
ホータもホンルも、カワニナを忘れて、ホーラを見続けました。
「ちょっと、見ないでよ。脱皮している間は動けないの知っているでしょ。こんな所でホンルがカワニナを見つけるから、恥ずかしいったらありゃしない」
ホーラは真っ赤な顔でホンルに文句をいいました。
「うん。ごめんよ。ホーラがこんなところにいるなんて、知らなかったんだ」
ホンルの声はいつになく上ずっているように聞こえました。
ホータやホンル、ホーラ以外の幼虫も、このコロニーに棲むホタルの幼虫たちはみんな生まれたときから一緒の仲間でした。
でも、その日から、ホータは自分とホンルとホーラの三人が、なんだかもっと別の意味で仲間になったような気がしたのでした。
川の水もだんだんと温かくなってきたような気がします。モロコや沢ガニたちの動きもだんだんと活発になってきました。ホータやホンルも4回目の脱皮が終わり、間もなく立派なホタルとして空を飛び回ることができるでしょう。
「カワニナを捕りに行こう!」
ホータはいつものように、ホンルを誘いにいきました。でも返事がありません。
「ホンル!!」
「ホンル!」
大声で呼んだけど、まったく返事がありません。
「おかしいな……」
ホータがあちらこちらを探していると、ホーラに出会いました。ホーラはホータを見ると、軽く会釈してすぐ、どこかへゆこうとしました。
ホータは、何となくホーラがいつもより綺麗に見えて、少し声を掛けたくなりました。
「ホーラ。ホンルを見かけないんだけど、知らない?」
「えっ。た、たぶん、あっちじゃない。」
ホーラは少し上ずった声で、向こうにいってしまいました。
「僕はホーラと結婚することにした。ホーラもOKしてくれたんだ」
ホンルが嬉しそうに、そう伝えにきたのは、その日の夜のことでした。
ホータは、ホンルが途中から何をいっているのか、分からないくらい、変な気分になってきました。
「おめでとう」
ホータは、無理矢理ホンルに作り笑いを見せると、隠れるように自分の部屋にもどりました。
そうして、またこっそりと水面に映った星空を見にいったのでした。
きっと白鳥座のデネブって僕みたいなやつなんだ。ゆらゆらとゆれる水面にはホータが名前をしらない沢山の星が映っていました。
「どうして、こんなに寂しいんだろう」
ホータはどうしていいか、分からなくなって、一人ぶらぶらと歩き出しました。
星空が届くところまで行けば、なんだか心が晴れるような気がしたのでした。
でも、星空に手が届くはずもありません。
ホータは眠れないままに、あちらこちらを彷徨うように歩きました。
でも、結局コロニーしか帰る場所はありません。
ホータはみんなから少し離れた冷たい石の下で休みました。
次の朝、ホータは出来る限り、何もないような顔をしてホンルに会いにいきました。でも、ホンルはずっと、ホーラと一緒にいて、声を掛けたら悪いような気がするくらい、楽しそうに喋っていました。
ホータが丘の上に上ろうと決めたのは、それから数日が経ってからのことでした。
星空には手は届かなくとも、水面には届くだろう。そして水面を越えたとき、世界が変わるかも知れない。
ホータはゆっくりと歩き出しました。
「こんな遠くまで来たことはないや」
だんだんと水温があがってきた小川は、ホータが水面に塚尽くにつれて、だんだんと明るくなってゆきました。
眼前に広がる、ホータたちとは違って、素早く自由に泳ぎ回る魚たちの世界が、ホータももっと孤独にさせてゆきました。太陽の光が乱反射する水面はあまりにも眩しくて、ホータは段々とくらくらしてきました。
ホータは歩き続けました。
一時間がたち、二時間がたち、太陽も沈んで、辺りはだんだんと暗くなってきました。そうして水面に星明かりが見え始めた頃、ホータも水面に手が届きました。
「なんだ、この世界は!!」
水面をくぐり抜けると、それは水中とはまったく違う世界が広がっていました。
ホータは生まれて初めて地上から水面を眺めました。
山々も蔭や三日月、無数の星空が、ゆるやかな流れの水面に反射してとても美しく思えました。
「僕らはこんなにも美しい世界に棲んでいたんだ」
ホータにとって、地上はそれほど居心地の良い世界に感じられませんでした。
「今日はもう疲れたよ」
ホータは穴を掘って休むことにしました。
それからどれくらい時間が経ったことでしょう。
「雨か……」
ホータ間物音に目を覚ましました。
「ザザザザザザ」
だんだんと雨脚の速くなってゆくことがホータにも分かりました。
「ゴーゴー」
もの凄い音です。ホータはもっと深くもっと深くと急いで穴を掘り続けました。しかし、ホータがどんなに深く穴を掘り続けても、ゴーットいう音はどんどんと大きくなるばかりです。
「ドスン!」
初めて聞く雷鳴に気絶しそうになりましたが、ホータは頑張って穴を掘り続けました。
気がついたとき、物音はやんでいました。
ホータが再び地上へとはい上がったとき、太陽はずいぶんと高いところまで昇っていました。
「みんな大丈夫かな」
ホータはみんなのことが心配になって、コロニーへと向かいました。
ホータは急いで坂道を転げるように下りました。
水面のぬけると、以前よりも身体が動きにくいような気がしましたが、そんなことはいっていられません。
ホータは、ゼイゼイと息を切らせながら、それでも休まずに走り続けました。
「…………。」
それは無惨な光景でした。
ホータ達が暮らしたコロニーの上にあるはずの大きな石はどこかへ流され、誰一人として住んでいる様子はありません。
「おーい、みんな何処にいるの!!」
何度大声で叫び続けても、あたりにむなしく自分の声が響くだけです。
「ホンル!ホンル!」
ホータは狂ったように、あちらこちらを探し続けました。
何日も何日も……。
「もう誰もいないんだ」
ホータはとぼとぼと、また地上に歩き始めました。
「もう誰もいないのなら、生きていてもしかたがない。最後にもう一度、美しいこの世界を地上から眺めて……」
再び地上からみた水面は、やっぱり美しく思えました。
「もう疲れたよ」
ホータはそうつぶやくと、いつの間にか地中で眠ってしまいました。
「おーい!おーい!夢の中でもホータはホンルとホーラを探していました。でもホンルは夢の中にも出てきません。ときどきホーラ一人が現れましたが、なんとなくホンルに悪いような気がして、夢の中のホーラにホータは声を掛けることができませんでした。
それはそれは、ずいぶんと長い夢をホータは見たように思います。
今度気がついたとき、ホータはお父さんやお母さんと同じ姿になっていました。
水面に映る自分の姿に気がついたのでした。
ホータはおそるおそる羽を広げてみました。
「ブーン」
ホータの身体が宙に舞います。
「ホンル!ホンル!」
もしかしたら、どこかからホンルが飛んでくるかもしれない。急にそんな気がして、ホータは叫び続けました。
でも、もちろん誰もいません。
夜になって、辺りがどれほど、静かになっても、ホータは叫び続けました。
「ホンル、ホンル、僕はここにいるよ!」
ホータの身体から美しい光が現れて辺りをてらしました。
「僕はここにいるよ!」
ホータは精一杯に身体を光らせて水面の上を跳び続けました。
「ホータ!」
誰かの呼ぶ声が聞こえたような気がしました。
「どこ!どこにいるの!」
声のする方へ飛んでゆくと、今まで見たこともないような女性が近づいてきました。
「ホータ!生きていたのね……」
「君はだれ?」
「ホータが私のことを知らなくても、ずっと私はホータを見ていたの。でも、
ホータが見ていたのは、ずっとホーラだったから」
その女の子は、ホータが初めて地上へと向かった夜、ホータを追いかけて昇ってきたのでした。「あの……」
ホータは真っ赤になりながら、その女の子に声を掛けました。
「あの星が、わし座のアルタイル、あっちがこと座のベガ。ずっと僕は、その二つを見ている。デネブみたいだと思っていたんだ」
「そんなことを言ったら、私は本当に誰からも気付かれない星になっちゃうよ」
水面の上で小さな光が何時までも瞬いていました。
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