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おたねさんちの童話集「八月の公園で」

八月の公園で
 
「ごめんなさいっていわれなかったら、やっぱりちょっと寂しいけれど、ありがとうって言われたら、やっぱりちょっと嬉しいな」
 夕暮れ時の公園で、アブラゼミのコータは、恥ずかしそうに頭をかきました。
「晩ご飯の時間ですよ!」
「はーい!」
 人間の子供たちが、次々にどこかへといなくなっていきます。
「もう!いつまであそんでいるのよ!」
 砂場で遊んでいた最後の男の子が、お母さんに叱られながら、やっぱりどこかへ行ってしまいました。
「やれやれ、これで一安心だね」
 アブラゼミのコータは、隣の木に止まっているアブラゼミに声をかけました。
「さっきは、本当にありがとう」
 隣の木に止まっているアブラゼミは、コータに向かってもう一度お礼を言いました。
 コータがお礼を言われたのは、生まれてからこれで、何回目のことでしょう。
 初めて言われたのは、もう何年も前、まだ土の中のことでした。
 ボクはミミズに襲われそうになっていたセミの幼虫をたすけた時のことがありました。もちろん、ミミズに勝てるわけはありませんから、こっちへ逃げろと大声を出しただけのことでした。たまたまコータの方が大きな体をしていたので、クスノキの根っこのすき間へと、そいつもすぐに逃げることができたのでした。
 「ありがとう」
 小さな声で、そう言った子は、まだ少し震えていました。真っ暗闇で、どんな子だったか、見えなかったけれど、なんだか嬉しい気持ちになりました。
 あの時、「ありがとう」って言われなかったら、もしかしたら、ボクは今、ここにいないかもしれないな。
コータは、なかなか涼しくなってくれない夕暮れの中で、ジージーと小さく鳴きました。
 外の世界へ飛び出したなら、もっとたくさんの嬉しいことに出会えるかもしれません。もっと明るい世界へと飛び出したなら、もっと素晴らしい景色が見えるかもしれません。
 あの時、「ありがとう」って言われた時から、ボクはそんなことばかりを考えて過ごしていました。
 三日前、ボクはついに決心をしました。昼間はあんまり暑かったから、夜になって出発しました。クスノキの根につかまりながら、少しずつ地上へと登っていきました。
 土の上は、今までと、ゼンゼン違う音がしました。風もありました。匂いもやっぱり少し違いました。コータはゆっくりと登って行きました。根っこはいつの間にか太い幹へと変わっていました。
 夜が明けると、朝の光は、今までに想像していた景色よりも、もっともっとキレイなものでした。
 ボクは、今までの自分を脱ぎ捨てて、新しい世界へと飛び立ちました。今までに感じた事のない痛みが、全身をつきぬけましたが、ボクは新しい世界へと飛び立てる喜びしか感じていませんでした。
 新しい世界には、今までにないほど、目まぐるしいスピード感がありました。今まで過ごした幾年の歳月が何だったのかと思う程の充実した時間でした。
「ぼくも、誰かにありがとうって言いたいな」
 コータは、そう呟きました。でも、ずっと独りで生きてきたから、言える相手はいませんでした。コータに近づいてくる連中と言えば、人間の子供や、鳥たちは、クモやアリ。とにかく迷惑な奴らばかりです。ありがとうって言いたくなる奴なんて、どこにもいません。
 「どうして、ボクの廻りには、こんな奴らばかりしかいないんだろう」
 コータは静かになった公園の隅っこで星空を眺めました。
 「どうして、こんなにキレイなのに、昼間はどこかへいっちゃうんだろう」
 コータは、だんだんと悲しい気持ちになってきました。
 「おい、こんなところにアブラゼミがいるぞ!」
 酔っぱらいの人間が、ボクをつまんで、廻りの人間達に見せびらかしています。
「もう、そんなの汚いから、捨ててしまいなよ!」
ちょっと見せて!でも、可哀想!でもなく、汚いからと、ボクは、自由を与えられました。
 ボクは、クスノキにつかまって、樹液を吸いながら一晩中震えていました。震えながら、ボクは大声で鳴きました。悔しくて悔しくて、どうしようもないくらい大きな声で鳴き続けました。
 あんまり大きな声で鳴いたので、喉が渇いて、クスノキの樹液を飲みました。
樹液は、こんな日でもやっぱり美味しく思えます。
「ありがとう」
 コータは、クスノキにそう言いました。
 ……あれ。ボク、ありがとうって言ったの、生まれて初めてかもしれないな。
 そう言えば、生まれてからずっと、ボクはこのクスノキのソバで生きてきたんだ。
 コータはゆっくりとクスノキを見上げました。
 ボクは、このクスノキにさえありがとうって言っていなかったのに、他の誰かに言えるはずもないよね。
 「クスノキさん、ありがとう」
 コータはもう一度、そうつぶやきました。
 「やっぱり、今日もここにいたのね!」
 コータに声をかけてきたのは、昨日コータにありがとうと言ってくれた、あのアブラゼミでした。
 「あのね。お礼を言ったまま、名前もまだ、尋ねていなかったから!私はミーナっているの!あなたは?」
「ボク?ボクは、コータっていんだけど……」
「コータさん!昨日はありがとう!」
 コータは、やっぱり今日も大きな声で鳴き続けました。おわり

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