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海月の歌が届くとき 【月夜見海月の歌詞を読む】
スリーズブーケの『月夜見海月』が大好きで、この楽曲を100パーセントで受け取りたいという理由で3rd愛知の前日に広島からのとじま水族館まで行ったりしていた。
愛知、神奈川のライブを踏まえ、この楽曲について新たに考えることもあったので、今更だが歌詞の読解を試みる
以前投稿したスリーズブーケの歌詞を読む記事と同様に、まずはあえて蓮ノ空の物語と切り離し、楽曲自体を検討するところから始める。
ただし、今回は最終的に楽曲と物語の接続を試みる。
前回の一歩先を示したいという個人的な事情もなくはないが、なにより『月夜見海月』という楽曲自体が構造としてそれを要求するからだ。
この楽曲は主体の位相の変化と、その構造から導かれる意味が興味深いため、そこを中心に読んでいく。
前回と同じように、作詞者の意図を的中させることを目指すものではなく、読み手がテクストから受容できる解釈の一例を示すものであることにご注意ください。
海月の世界(x´)
水の中 蝶が舞った 艶やかで美しい鰭
私にはないものを 欲しがるのは駄目でしょうか
初手で「水の中」と具体的な場面設定が提示される。
聞き手は『月夜見海月』というタイトルをあらかじめ与えられているため、この眼差しの主体が海月であることは直観的に理解できる。
海の世界に没入し、視点を与えられたところから世界は始まる。ここで、視点を提供する主体として現れる海月を主体x´(エックスダッシュ)とする。
今回も、前回の記事と同じように、歌詞の中で動作、視点、情感の基点となっている存在を主体と呼ぶ。
タイトルに含まれる夜という文字から、この海が夜であることが想像できる。真っ暗な海の中で僅かな月光を反射する蝶のイメージが想起され、次に美しい鰭という言葉から海月の眼差しの先にいるのが魚であることがわかる。
「魚に憧れる海月」という、共感に僅かなハードルがある前提が、最初に受け入れた美しい蝶のイメージに誘導され、スッと飲み込めるよう仕組まれている。
また、「駄目でしょうか」と疑問形を取っているが、暗い海の中で発せられるこの言葉は、作中の他者や聞き手への問いかけではなく、あくまで自問自答であるような印象を受ける。
カラフルに彩った 鱗は花びらのドレス
再び海月の眼差しから憧れの対象として美しい魚が描かれる。
ここで気に留めるべきは、先ほど魚に対して与えられた比喩は「蝶」だったが、二段階目として「ドレス」という人間と距離の近い概念が与えられていることだ。
この文言は、次節と強く響き合う。
世界を生むのは(x)
どうして この身体はいつも透明だ
「身体」という海月に対して使用されることのない言葉で、主体について語られる。
表記が「体」でないことも地味に重要だ。
このあたりから、自らを海月に喩え、心情を重ねる人間としての主体の影がちらつき始める。前段で「蝶」→「ドレス」と比喩のための語彙が段階的に人間に近づけられていたことからも、イメージが誘導されている。
この部分だけならば海月を主体として読み下すこともできるが、今後の歌詞も同様に人の姿や生活を前提とした表現が続いてゆくため、擬人的な表現だとしても、人の存在をまったく想像せずに読み続けることは難しくなる。
透明な海月に重なり合う形で、人の姿が見え始める。主体は不定形となる。
この楽曲は、どうぶつさんたちの物語に外部の読み手が比喩的解釈を与えることで寓意を獲得する、童話のような物語ではない。
海月の物語が比喩であることを示す人の視点が、歌詞内部に存在しているのだ。
ここで、比喩世界を生成する存在、海月に自らを喩える主体として見え隠れする歌詞内部の人間を、主体x (エックス)とする。
前段で海月をx´(エックスダッシュ)としたのは、比喩の外側の世界が歌詞内部に存在しているのならば、そちらを一次的世界と捉えるほうが適切だと感じたためだ。
スリーズブーケには他にも楽曲内部で比喩世界を創造し、そこで物語が展開する楽曲がある。ただ、その場合、先に基点となる一次的な視点が提示された上で比喩世界に没入する。
例えば、『Holiday∞Holiday』では「例えるならばジェットコースターを~」という文言でこの先の遊園地の世界が比喩であることが説明されている。
『水彩世界』でも「筆先を濡らした水がバケツの中濁るように 一人で悩んでいた放課後のこと」として、水彩画のイメージが、悩んでいる主体が生成する比喩であることは最初から説明されている。
喩える主体が存在しているにもかかわらず、その存在が隠蔽された地点から世界が始まる点に、『月夜見海月』という楽曲の特殊性がある。
x´→xへの移動を通して、暗い海に沈んでいた主体は、ゆっくりと浮上を始める。
従来のスリーズブーケの楽曲とは逆方向の動きだ。
ただ流れてゆく毎日に サヨナラをしよう
大丈夫 誰より知っている 涙の味なら
以前の記事で単語同士のニュアンスのゆるやかな接続について言及したが、ここでも同じことが行われている。ただ、今回その機能は作中主体を揺らす手段として用いられている。
例えば、「流れてゆく毎日」という一節における「流れてゆく」という言葉が接続される先は揺れている。
「流れてゆく」のが省略されている主語、つまり自分であるとして、「私が流される毎日」と読むならば、日々の生活の中で主体的に行動できないxが周囲に流されていることを表明しているとも、その様の比喩として海月たるx´が波に流される様が描かれているとも取れる。
もしくは「流れてゆく」のが毎日として、「ただ毎日が流れてゆく」と取るならば、その情感の主体はxに強く結びつくだろう。
また、「涙の味」は文字通り失敗や悔しさに伴う涙で、極めて人に近い概念だ。もちろん、ストレートにx自身の涙と解釈してもよい。涙を流す海月というのはいくら詩的幻想だとしてもなんの前提もないと想像しづらいが、先ほどからxの存在が仄めかされていることで、主体のゆらぎを援用して海月の涙を想像できるようになる。ビジュアルを越えた概念として想起を可能にする。
丁寧なことに、涙の味が海水と共鳴する点もイメージの補助線となる。
xとx´は位相が異なっているにもかかわらず、歌詞中でその姿を確定させず、重なり合って進行する。それにより、海月が抱えることのできるイメージの範囲は大きくなる。
このまま一文ずつ歌詞の精読を続けることは魅力的だが、今回の主題は主体の位相についてであるため、関連する箇所に絞って読んでいく。
届かない声だった それでも歌を歌うのは
人魚姫を真似た 馬鹿馬鹿しい事でしょうか
ここで「歌」というモチーフが新たに提供される。
先述の涙と同じように、xとx´が重なり合うことで、声が届かない水中で歌う海月のイメージを想起させる。
さらにここでは、これまで歌われていた劣等感に悩む姿すらも人魚姫の物語の模倣として相対化されてしまう。
浮上と沈下を繰り返し、たゆたうように歌詞は進行する。
そうだね 沈み続けるのは簡単だ
抵抗してみようか 見苦しさも
私らしさなのだから
憧れを抱え、悩みながら進むことが肯定される。
そして、これまで構造から読み取っていた「浮上」のイメージが海月の世界においても具体的に示される。
冷たさも 暗闇も 孤独さえ 超えて
一つ答えを出すなら
ただ流れてゆく毎日に サヨナラをしよう
ラスサビとして1番のサビを繰り返す構造は、J-POPにおいて一般的なものだ。だが、この場合ただ同じ文言を繰り返しているわけではない。「答えを出すなら」とこれまでの語りに対する回答を示しますよという前置きがあった上で1番の歌詞が提示されている。
つまり、葛藤の末に、最初にたどり着いた結論に回帰している。接続詞たるCメロによって、繰り返すことに物語的な意味が与えられている。
では、主体は序盤にたどり着いた場所から前に進んでいないのだろうか?
それ以降の葛藤は、足踏みに過ぎなかったのだろうか?
そうではない。
この楽曲中で最も強いエネルギーが存在している、最後の一節を読んでいく。
裂ける世界と届く歌(X)
ここに至るまで、楽曲中に「私」という一人称は一度しか登場していない。
1番の冒頭の、「私にはないものを」の部分だ。
比喩世界であることが明かされる前に、主体たるx´を示すものとして、最初に提示された海月の姿としての「私」。夜の海の中で自問自答を繰り返していた「私」。
主体は揺れ続けた末、最後にもう一度「私」という言葉が提示される。
届け私の歌
この5文字8音の存在によって、『月夜見海月』は傑出した楽曲となっている。
まずは形式から検討する。
歌詞カードを見ても分かる通り、この歌詞はサビのフレーズの余剰部分として存在している。
曲と重ねてみても、ずっと16小節で完結してきたサビからはみ出している。
また、サビの最後の「月夜見海月」という歌詞に対応するメロディーは、ソドシ♭ソファミ♭ミと上がって下がる構造を持っていたが、この部分は同じモチーフを変形させる形でソドシ♭ソファミ♭ファファソと一度沈んだ音が再び上昇する構造となっている。
このパートは楽曲の最後に置かれている構造的にはみ出した存在であり、歌詞の中で特権的な立ち位置を占めているという前提を踏まえて、言葉の意味内容を検討する。
「届け」も、「私の歌」も、この場面においてはメタな言葉として機能する。
どういうことか。
楽曲の一番最後に、はみ出した特権的な位置から歌詞すべてを包括して示される「私の歌」は、ここまで紡がれてきた『月夜見海月』という歌そのものとして受容される。
そして、海月として内側で自問自答を繰り返していた主体の眼差しは、「届け」という他者に向けた強い言葉とともに外部へ向かう。
「私の歌」がここまで紡がれてきた歌であるとするならば、「届け」という言葉の対象となる外部とは、海月の物語を「歌」として受容してきた、詩的空間の外側の世界、つまり私たちの世界だ。
したがって、この「私」とは『月夜見海月』という歌を生成し、届けようとする主体としての「私」と捉えることができる。
ここで、x´を生み出す作中主体xという構造を包摂するこのメタな主体を、主体X(大文字のエックス)とする。
曲の時系列で辿ると、海月としての主体x´→歌詞内部で比喩として海月の世界を生成する主体x→歌それ自体を生成し、外部へ届ける主体Xとして、主体は詩的空間の外部にまで急速に浮上する。
比喩に潜って自問自答していた主体は、世界を裂いて「私の歌」を届ける。
歌を生成し、届ける主体。
これまで主体に具体的な人物を代入する判断を停止して分析してきたが、歌詞自体が外部と結びついてしまった以上、その解釈は避けられない。
厳密に言うと、歌によって仮構される語り手としてメタを仮置きすることでテクスト内部で処理もできるが、この楽曲は蓮ノ空の物語の内部に存在するテクストなのだから、今回はあえて物語と接続する形で解釈を試みたい。
「私の歌」という言葉は、歌を歌う私、歌をつくる私、どちらも意味することができる。
ここには様々な人物や概念を代入できるだろうが、蓮ノ空の物語においては、この一節を歌っているのも、歌詞を書いているのも、どちらも百生吟子だ。
今回提示した読み方を採用した上で、活動記録などの物語を踏まえて素直に解釈するならば、憧れと劣等感ゆえに自己否定を重ねてしまう百生吟子が葛藤の末に徐々に自己を開示し、叫びへと至る歌だと捉えることができる。
スリーズブーケのメンバーの中でも特に自己肯定感が低い百生吟子は、自らの葛藤を歌にするにあたって、暗い海の底にたゆたう海月として徹底的に主体を隠蔽するところから世界を生み出した(x´)。
先述の通り、比喩世界に没入した視点から楽曲が始まるのはスリーズブーケの楽曲中でも異例だ。また、「蝶が舞った」と比喩世界の中で更に比喩が用いられており、スタート地点の主体の位置は念入りに折りたたまれている。ここまで執拗に隠されている。
次に、前に進む意思を抱くとともに、作中主体として海月に自らを喩える存在を恐る恐る開示する(x)。
ただその開示は、海月のイメージと重なり合う形で、いわばどちらとも取れるような曖昧さをもって行われる。
そして葛藤の末、周囲に憧れ、もがく自分の姿を受け入れた上で、その過程すべてを『月夜見海月』という「私の歌」として包括することで、歌を生み出し、届ける存在としての自己を開示し、歌を聴く人たちに届けるに至った(X)。
みっともなく足掻く姿をそのまま歌として届けることが、いつか誰かの世界を照らすと信じて。
拡散する歌( )
上記のXに百生吟子を代入した解釈は、あくまで物語に沿った読みの一例だ。
同じように素朴に物語から解釈するとしても、この楽曲がスリーズブーケ名義の楽曲である以上、私の歌とはスリーズブーケの歌であるとも読めるし、他メンバーの2人を代入するなど、様々な変奏が可能だ。実際、月夜見海月のカードボイスで乙宗梢はこの楽曲への共鳴を示している。
かけがえのない「私」の記憶と感情を詰め込んだはずの歌が、「私」の手を離れるとき、私が存在していた空白は、第三者たる歌い手や聞き手によって充填される。
それは寂しいことかもしれないが、楽曲が持つ可能性でもある。沙知先輩のことだけを考えながら作詞したはずの「抱きしめる花びら」が一般性を獲得した昨年度末のエピソードを思い出してもよいだろう。
また、蓮ノ空には伝統曲という概念がある。
例えば、『Dream Believers』を作詞したのは過去のスクールアイドルクラブの生徒だ。曲中で歌われている「いま」は過去における「いま」であり、その感情も過去の「いま」を生きる彼女たちのそれであるはずだが、この楽曲は紛れもなくいまこの瞬間に「いま」を生きるスクールアイドルたちの歌として歌われ、受容されることを、私たちはすでに知っている。
104期活動記録11話において、日野下花帆はこの曲を「あたしのための歌」とまで言っていた。
また、『水彩世界』、『AWOKE』、『ド!ド!ド!』という極めて私性の強い楽曲が伝統曲となっていく過程としての104期verを、私たちは受け取ったばかりだ。
蓮ノ空の世界において、『月夜見海月』は今後も伝統曲として歌い続けられる。幕間で語られていた通り、百生吟子もそれを望んでいる。
時が流れ、Xに百生吟子という個人を代入することが不可能になったとしても、この曲の価値は褪せない。「私の歌」を届ける主体は未来のスリーズブーケであったり、そこから想起されるスクールアイドルという概念そのものであったり、様々な形で変奏を繰り返すだろう。
誰の中にもあるありふれた感情を歌う「私の歌」は、誰の歌にもなれる。
そして、少女が残した葛藤の軌跡は、永遠に誰かの心を照らし続ける。