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蓮ノ空のオタク、3回目の金沢旅行(前編)

 金沢は「昔があって、今もあるまち」でなければならないのです。単にスクラップ・アンド・ビルドを繰り返すまちではなく、長い時間軸のなかの過去・現在・未来が同時に実感できる――金沢はそんなまちであってほしいのです。

山出保『まちづくり都市 金沢』岩波書店

 三連休を利用して蓮ノ空の聖地、金沢に行ってきました。
 つい先日スタンプラリーに参加したのと、去年の夏にも訪れているので、今回で3回目の訪問です。
 作品に登場した主要な舞台はこれまでの訪問でおおよそ回っているので、金沢という彼女たちが暮らしている街と、そこで物語が紡がれている意味について考えながらの旅行になりました。

 いわゆる聖地とは異なる場所が多いのですが、今回の旅行で、蓮ノ空の物語は金沢という土地の物語と深く共鳴しており、舞台設定に必然性があることを強く実感したので、現地での体験に加えて、調べたことを織り交ぜつつ、まとめます。


 1日目

 退勤後、新幹線に飛び乗り、金曜日の夜に金沢駅に到着しました。

夜の鼓門

 目当ては夜のひがし茶屋街周辺です。近江町市場を経由しつつ、徒歩で向かいます。

夜の近江町市場
市場内にあった、「辰巳用水」と書かれたマンホール。後から大事になります。


 主計町茶屋街

 主計町(かずえまち)茶屋街は、浅野川を挟んでひがし茶屋街の対岸にある茶屋街です。ひがし茶屋街と同じく重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

 ひがし茶屋街、にし茶屋街と合わせて三大茶屋街の一つですが、他2つほど観光に特化はしていません。そのため、昼間に訪れても比較的落ち着いて観光できます。

暗がり坂

 この階段を下ると、町屋が立ち並ぶ茶屋街が広がっています。
 せーはすでは、坂を降りた場所で野中ここなさんがド!ド!ド!を踊っていました。夜に上から見るとこのようになります。

 主計町は意外にも東廓(現在のひがし茶屋街)、西廓(現在のにし茶屋街)と違って藩公認の遊郭だった時期はなく、自然発生的に誕生し、明治2年ごろに確立したものであると言われています。

 「廓」とは囲いに覆われて独立した地域という意味です。そのため、隣接する東廓などのほとんどの遊郭は、地区全体が塀で囲われており、外界から隔離されていました。
 それには様々な理由がありますが、日常から隔絶されたテーマパークのような空間を演出することも大きな目的の一つです。
 しかし、主計町茶屋街に塀はありませんでした。

 異空間へ吸い込まれそうな夜の暗がり坂を前にすると、境界としての塀などなくとも、非日常的な空間への通路として機能していたことがわかります。
 なだらかな斜面と浅野川が、外界と茶屋街とを隔てる役割を果たしていたのでしょう。

暗がり坂を降りてすぐのとこ。綺麗な夜だね。
主計町茶屋街と浅野川。綺麗な夜だね。


 ひがし茶屋街

 浅野川大橋を渡ると、ひがし茶屋街です。

ひがし茶屋街。綺麗な夜だね。

 三味線と、鼓の音が聞こえてきます。

 昼間に見せる賑やかな観光地としての姿とは全く異なる、艶やかかつ静謐な空気に満ちています。

 ひがし茶屋街は、1820年に加賀藩によって設置された遊郭が由来となっています。
 それまで市内に点在していた茶屋が、現在のひがし茶屋街、にし茶屋街にあたる地区に集約されました。かつては地区全体が木塀で囲われていたようです。

 現在では、主計町茶屋街と同じように、重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)に指定されています。
 知っての通り観光地化が進んでおり、昼間はいろんなお店で工芸品を購入したり、お茶とお菓子を楽しんだりできます。もちろんかつてのように芸妓さんがいるお店も残っています。

 これまでひがし茶屋街を訪れた際には、金沢は空襲がなかったから古い建物が残ってるんだな~という理解をしていて、それも事実の一側面ではあるのですが、経緯を調べていくと、その一言では片付けられない様々な事情があることがわかりました。

 文化財保護法が改正され、重伝建地区という制度が生まれたのが1975年です。京都の祇園は発足後すぐ、1976年には重伝建地区に指定されています。
 金沢市も制度発足後すぐ、1975年に指定のための調査を行っていますが、実際に指定されたのは2001年です。25年以上かかっています。
 指定が困難だった理由の一つとして、地元からの強い反対があります。
 重伝建地区に指定されることで、建物の改修には制限が加わります。また、廓という言葉が持つイメージによる地区の印象悪化や、観光客が押し寄せることによる住環境の悪化が懸念されました。いずれも、そこに住む人として当然の権利です。

 そこから継続して取り組まれた保存、修繕事業により町全体の保全への意識が高まったことや、売りに出された茶屋建築が伝統的な雰囲気を残したままショップやレストランとして活用され成功した実績によって「保存」が「開発」とは異なる方向で価値を創出しうると理解され始めたことなどの事情もあり、長期にわたる市と地元との協議を経て、指定に至ります。

 生活空間である地区という単位で伝統的な建造物が残っていることは当たり前のことではなく、そこには様々な人たちの立場と思いがあり、その課題をどうにか乗り越えてぎりぎりのバランスで成立していることがわかります。

 その成果を観光客として享受させていただいていることに感謝しつつ、観光客にとって非日常的な空間でも、そこで暮らす人たちにとっては日常的な空間であるという当たり前のことを忘れないようにしたいものです。


 浅野川

 眩耀夜行のMVでは灯籠流しが描かれています。灯篭流しが行われる川は浅野川です。
 つまり、歌詞にある「川沿い下っていけるとこまで」とは、浅野川沿いを無限に歩けという意味です。

主計町茶屋街に沿って浅野川沿いを下る。
MVの橋と推測されている中の橋。これはさすがに綺麗な夜。
降りられそうな場所もある。水切りするか。


 金沢駅側まで下り、ホテルに到着し、1日目は終了しました。
 昼は昼でいろんなお店を巡れたり楽しすぎるのですが、一方で観光客で埋め尽くされていて風情も何もあったものではないという側面もあるため、節度を守った上での夜の茶屋街観光はおすすめです。


 2日目

 突然ですが、百生吟子が好きです。

 彼女がいたからこそ、金沢を巡る際に「伝統」というキーワードが頭から離れなくなりました。
 前回の金沢訪問時には、彼女の影響で茜やさんで友禅染め体験もしました。
 最初に述べたとおり、今回の旅行は金沢そのものの歴史を辿るという趣旨も大きくあります。

 そうなると、まずはどこに行くのが適切でしょうか。

 犀川上流

 犀川の上流にやってきました。
 地図を見れば一目瞭然ですが、金沢市中心部は北の浅野川、南の犀川に挟まれるように都市が形成されています。
 つまり、昨日たくさん歩いた浅野川の反対側に当たります。

 この場所では、ある意味、金沢の究極の歴史を感じることができます。

 あるのかないのかわからない階段を降り、あるのかないのかわからない道を辿って、河原に辿り着きます。

触れたら皮膚が裂けるタイプの草が生い茂っていてマジで怖かった。

 そこには……

ヨコヤマホタテ(たぶん)

 何の変哲もない貝殻に見えますが、これは約100万年前の貝、つまり化石です。

 犀川の上流には大桑(おんま)層と呼ばれる地層(80万年前〜140万年前)が広がっており、大量の貝やウニ、クジラの化石を観察できます。

 蓮ノ空の聖地巡礼に来て化石を掘る、そういう旅行もある。

 貝そのものすぎて疑ってしまうかもしれませんが、貝塚などではなく本当に化石です。100万年って化石界隈(?)だと比較的新しいので、わかりやすく石化してはいません。
 ただ、ホタテが河原にいることから歴史を感じてほしいところ。

貝の層がめっちゃわかりやすい

 ここでは化石を掘って持ち帰ることが禁止されていません。(※伏見川沿いの山科の大桑層は天然記念物だからだめです)
 また、化石がある層は砂岩であり柔らかいため、ハンマーなどの装備がなくても採集できる箇所があります。
 ただ、化石自体が破損しやすいため、綺麗に持って帰る難易度は高いです。
 岩が滑りやすく、移動中常に川に滑り落ちる危険が伴うため、着替えもあったほうがよいでしょう。
 って書いてるけど、これを読んで化石掘りに行くオタクっているのか?

 川を上がってバス停まで歩いていると、梨畑と梨の直売所が複数あったので、梨目当てで行くのもアリかもしれない。

位置によって化石の状態が異なっていて面白い
甌穴がたくさん。小石が水流によりとてつもない時間をかけて岩をえぐったもの。
吟子ちゃん……100万年前の歴史ある貝だよ……


 究極の伝統を感じましょう。


 加賀繍IMAI

 次に、加賀繍体験を予約していた、加賀繍IMAIさんに行きました。

 化石観察時、川に滑り落ちるとびしょ濡れで加賀繍体験することになってしまうという緊張感もあった。

 6月に金沢に来た際にも気になってはいたものの、なんとなく敷居が高そうで躊躇していたのですが、今回は勇気を出して予約しました。
 実際に行ってみると店内には百生吟子のアクスタが飾ってあり、「あ、オタクが申し込んでも大丈夫な場所だったんだな」って安心しました。
 また、先生にお話を伺ってみると、「蓮ノ空のおかげで若い男性の予約が増えた」ともおっしゃっていました。

 体験の内容としては、加賀繍でキーホルダーやミニ額を作成するもので、模様にもよりますが2時間程度で完成します。
 伝統工芸士の先生が直接指導してくださり、とてもよい体験になりました。
 左手を使い布の下から上に針を刺し、右手を使って布の上から下に針を刺していくという手順で作業を進めます。そのように両手を使って作業する点に加賀繍の特徴があるそうです。だとすると活動記録の作業の描写は……
 ちなみにあまりうまくできなかったので写真は貼りません。吟子ちゃんはすごい。

 ホームページから申し込みができます。

 店内には、販売されている作品、展示されている作品がたくさんあり、それを見ているだけでも楽しいです。

吟子ちゃんのアクスタの隣で売られていた蓮のキーホルダーを買いました。

 展示物の中には加賀繍の刺繍で彩られた、立派な着物がありました。
 それに関連して、以前からずっと気になっていた加賀の着物文化の疑問点について先生に質問することができました。

 順を追って話します。 
 金沢で着物と言えば、蓮ノ空ともコラボしていた加賀友禅があります。

爆音で蓮ノ空楽曲が流れていた加賀友禅会館

 加賀友禅について調べていると、京友禅との差異として、刺繍や金箔による装飾がないという点がよく挙げられています。

 パッと見て、違和感がないですか?
 加賀縫は友禅染が誕生する前から加賀に根付いていた文化です。
 また、せーはすでも紹介されている通り、金沢は金箔の名産地です。
 ここが結びつかないなんてことがあり得るのか?
 確かに、加賀友禅の写実的な図柄を表現するにあたって理に適ってはいます。だとしても不自然すぎない?
 蓮ノ空の加賀友禅コラボのときからずーーっと気になっていて、個人的に調べていました。

 人間国宝の加賀友禅作家、木村雨山監修の、加賀友禅についての解説本があります。1970年に出版されたものです。

 ここでも、最初に加賀友禅と京友禅の違いが紹介されています。
 ただ、刺繍や金箔による後加工の有無を差異としている旨の言及はありません。
 また、「そめとおり」という染織新報社から発行されている着物業界誌のバックナンバーを読んでいると、定期的に加賀友禅の特集が組まれていまいた。ここでも京友禅との違いがいつも語られていますが、70年代、80年代の記事を遡ると、その旨の記述はありません。
 もちろん、「書かれていないから存在しない」なんて言うことはできません。ただ、不自然な手触りは残ります。

 さらに調べていると、京染・精練染色研究会から出版されている「京染と精錬染色」という雑誌に興味深い記事がありました。
 加賀友禅作家であり、当時の加賀友禅技術保存会の会長だった、梶山伸氏によって1988年に書かれた記事です。

 私は昭和41年以後において、加賀友禅をよく知って頂くために、キャッチフレーズとして「加賀友禅五彩」を提唱しました。地元の業者も、あれは江戸時代からあったのではないかというぐらいスンナリ定着し、ポイントとして大きな効果がありました。

梶山伸『加賀友禅の今日とその努力』京染と精練染色39(1) 京染・精練染色研究会

 「加賀五彩」という言葉は、加賀友禅について調べていると最初に突き当たる概念です。
 茜やさんで加賀染め体験をすると最初に受ける説明ですし、実際にその5色を使って染めていきます。

茜やさんで作ったトートバッグ。隙あらば見せびらかしたいので、ここに挿入する。

 しかしその五彩という概念も、比較的最近登場したものであることがここでわかります。もちろん何もないところに突然生まれたわけではなくて、元々頻繁に使われていた色彩があり、それを五色という単位で定義づけしたということなのでしょう。

 ただ、今では当たり前に伝統として語られている事柄でも、文化が受け継がれていく過程で発生した比較的新しいものである場合があることが、ここで判明しました。

 では、刺繍と金箔についてはどうなのでしょうか?

 着物を見ながらお話をさせていただいていたので、関連づけて質問できる流れだったこともあり、「加賀繍という素晴らしい伝統文化が先にあったにもかかわらず、加賀繍と加賀友禅が結びつかないどころか、加賀友禅が刺繍を使わないことを特徴としているのはどうしてなのか」を尋ねてみました。
(文章に起こしていませんが、実際には失礼にならないようかなり周りくどい言い方をしています)

 はっきりと回答をいただくことができました。
 要約すると、
「うちは代々加賀繍をやっている家系だが、昔は加賀友禅の先生がよくうちに来ていた。後加工が無いというのは、加賀友禅の昔からの特徴ではない。実際、木村雨山の作品には刺繍も金箔も多用されている。加賀友禅が国の伝統工芸品に指定された頃(注:1975年)から、京友禅との差別化の必要が生じたために、使わないという流れになっていった」
 とのことです。

 今回お話を伺ったのは加賀繍の先生なので、加賀友禅の関係者の方に聞くと違う答えが返ってくるのかもしれません。
 ただ、調べて推測していた内容とも一致しますし、腑に落ちるものでした。

 強調しておきたいのは、これを示すことで何かを糾弾したりしたいわけではなく、伝統を伝統として残すために尽力した人たちがいることを改めて理解したということです。
 公家文化と紐づいた華やかな京友禅とは対照的に、武家文化と紐づいた加賀友禅は自然を題材に写実的な図柄が描かれることが多いというのは疑いようのない伝統です。その元々存在していた伝統を際立たせるために、新たな特色を生み出したのでしょう。

 歴史ある文化は歴史があるという理由のみで勝手に残るものではありません。
 加賀友禅も、芸術であると同時に市場経済の中に存在しています。先述の着物業界誌「そめとおり」を読んでいても、この先加賀友禅が生き残っていくためにはどうすればいいのか、何十年も作家や問屋の方が頭を捻り続けていることがわかります。

 最後に、先ほどの梶山伸氏の記事から、別の文章を引用します。

 776年前に、方丈記を書かれた鴨長明の言葉に、私は非常に惹かれました。それは、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず…」という文で始まっているものです。
(中略)
 伝統的加賀友禅は伝統という言葉が頭につきますが、伝統はとどまっているものではなく、毎日動いているものであり、川の水のように日々新しく、昨日の水でなく今日の水であるべきだと思います。

梶山伸『加賀友禅の今日とその努力』京染と精練染色39(1) 京染・精練染色研究会


 ニューたぬき

 洋食屋さん、ニューたぬきで昼食を食べました。
 石川県立図書館の近くにあるお店です。

 お昼時でしたがたまたまタイミングがよかったのか、到着してすぐにカウンター席に案内されました。退店時には5組程度待ちがいました。
 メニューや周囲を見渡すと何を食べても美味しそうで、迷った結果、名物らしい焼き飯とタンシチューを注文しました。

焼き飯。黒い。

 肉の旨みが溶けこんだ醤油ベースのタレで香ばしく炒められており、それを干し椎茸の旨みが下支えしていて、絶品でした。

タンシチュー

 トロットロの厚切り牛タンが至高なのは言及するまでもありませんが、香味野菜が香る濃厚爽やかなデミグラスソースが凄まじいです。同じくデミグラスソースがベースとなっている、ハヤシライスも店の名物となっています。

 リピート確定していて、次行ったら何食べようか今からワクワクしているところです。きっとサーモンステーキ定食を食べます。

 実は、蓮ノ空との繋がりもちょっとあります。
 加賀友禅コラボの際の夕霧綴理の振袖が、三島由紀夫の『美しい星』をモチーフとしていることは、コンセプトシートを読んだ方はご存知かと思います。
 夕霧綴理とイメージが重ねられている暁子と、金星人を名乗る美青年竹宮が作中で一緒に訪れたのが、ニューたぬきの前身である狸茶坊です。

 二人は再び香林坊へ戻って、狸茶屋という店で小さいステーキの午餐を摂った。

三島由紀夫『美しい星』新潮社

 小さいステーキ?


 金沢くらしの博物館

 石引町の小立野通りを頑張って歩いて、金沢くらしの博物館に行きました。
 1899年に建てられた石川県第二中学校の旧校舎を利用しており、建物自体が国指定の重要文化財になっています。

 活動記録にも登場していました。

いい写真はないの?ないよ。

 目当ては特別展、「金沢の女学生」です。

 伝統ある女学校であるところの蓮ノ空のオタクとして行かない選択肢はない。
 明治初期から昭和にかけての女性を取り巻く学校制度や、各学校の特色、授業内容について細かく解説されており、当時の写真や生徒たちが実際に使用していた物品などが展示されています。

 たまたまタイミングよく、学芸員さんの解説を聞きながら展示を閲覧することができました。
 展示されている学用品は、ほとんどがご家族の方からお借りしたものだそうです(そのため撮影禁止であり、写真はありません)。
 「良妻賢母」を是とする教育内容は現代の人権感覚を内面化している状態で見ると強い抵抗がありますが、実際の時間割や、裁縫の授業用の小さな着物などを見ていると、その時代の中で生活していた女学生たちの息づかいが伝わってきます。

 特に印象に残ってるのが当時の日記帳で、「いつも裁縫の時間にやかましいと注意されるので、もう少し静かにしたい」などの記述があり、学芸員さんの「病気がちでおとなしい生徒さんだったと聞いている」という話と合わせて、病気がちでおとなしい生徒さんがお友達とおしゃべりするのが楽しくてやかましくして注意されたんだ……という情景が鮮明に浮かび上がりました。
 おすすめです。

 常設展も観ました。
 1階では昭和初期の日用品などが展示されており、2階では方言、料理など、金沢の生活にまつわるローカルな資料が展示されています。 

見覚えがあるだるま


全部百生吟子で再生される


 石川県立歴史博物館

 石川県立歴史博物館に行きました。
 陸軍の兵器庫を改修した施設で、ここも国指定の重要文化財になっています。
 蓮ノ空的には、内部の階段が蓮ノ空歌留多の日野下花帆の背景になってますね。

立派な赤レンガと、辰巳用水の石管

 縄文時代から現代に至るまでの石川県の歴史を学ぶことができます。
 本当は今回金沢市埋蔵文化財センターに行きたかったけど場所と日程的に諦めたので、古代についての展示がここで見れてよかった。

 金沢の様々な施設を解説を読みながら巡っているとなんとなく歴史が掴めてきますが、そのほとんどが前田氏入城以後のものなので、城下町として発展する以前の「百姓の持ちたる国」としての加賀について学べる貴重な施設です。
 ここで最初に歴史の概略を掴んでから各所を観光するのもアリだと思います。

 写真がないのは、歩きすぎて疲れきっていたからです。


 国立工芸館

 隣接する国立工芸館にも行きました。
 この周辺は美術館や博物館が集まっている地区ですが、そのほとんどが県や市の施設である中で、国立工芸館は文字通り国の施設です。2020年に東京から金沢に移転しました。

 目当ては企画展です。

「心象」がテーマの工芸品、アツすぎる。

 先述の通り国の施設であり、金沢にゆかりがある人という縛りを設けているわけではないにも関わらず、企画展に展示されている作品は金沢卯辰山工芸工房金沢美術工芸大学出身の作家によるものが多く、金沢が美術工芸王国と呼ばれる所以を感じました。

 印象に残った作品を2点挙げます。

沖潤子 《水蜜桃》

 沖潤子は、古布に下絵を描くことなく異なる素材を縫い付ける刺繍作品を制作している作家です。
 写真だとわかりづらいですが素材の立体的な質感を活かした作品で、その表面の手触り(想像)が水蜜桃の水々しさを表現していてとても好きでした。

髙橋賢悟 《還る》

 動物の頭蓋骨と花をモチーフとしたアルミニウム製の作品。後ろから見ると、角が何かを包み込む両手のような形をしていることがわかります。
 頭骨、アルミという素材、贈られる花、包み込む両手というモチーフから、テーマである生と死のイメージが想起されます。

 いい企画展だったので、ぜひ開期中に行ってみてほしいです。


 鞍月用水

 せーはすで櫻井陽菜さんが語っていた通り、金沢には多くの用水が現存しています。

 用水について意識しながら街を歩くだけでもかなり楽しくて、今回の旅行の裏テーマとして設定していました。

・鞍月用水
・辰巳用水
・大野庄用水

の三つが金沢の主要な用水とされています。

 鞍月用水は犀川(先ほど化石を掘った川)を水源としている用水です。藩政初期に整備されたといわれています。金沢城の外堀として利用されたり、精米、精油などの水車を回したり、生活に根付いていました。
 よく名前を聞くせせらぎ通りは、鞍月用水をせせらぎとする商店街です。

せせらぎ通り。オシャレな飲食店やアンティークショップが並んでいる。

 櫻井さんがおっしゃっていたように、用水沿いを散歩するだけで楽しいです。
 ただ、調べてみると、ここが現在のようにせせらいだのは最近であることがわかります。

元々、現在のせせらぎ通りにあたる箇所の鞍月用水は暗渠(蓋がされている水路)でした。主に駐車場として利用されていたようです。
 戦後、水路の暗渠化は全国各都市で行われました。生活排水や工業排水で汚染された水路に蓋をするのは公害対策のためにも必要でしたし、蓋をすると広がった陸地を活用できます。金沢もその例に洩れませんでした。

 しかし、金沢ではまちづくりにおける用水の価値が徐々に認められてきます。
 1970年代に入り、金沢経済同友会から金沢特有の景観要素である用水のあり方について検討したレポートが金沢市に提出されました。それをきっかけに、用水の保存、復元が検討されました。

 そして、1995年から金沢市によって、鞍月用水について、一度蓋をした暗渠をこじあける開渠化と、私有橋の整備が進められました。
 当時の市長の著書によると、住民への補償や私橋の整備などの折衝に難航し、竣工まで10年かかったそうです。それはそう、駐車場として使っていたのなら、他に車を停める場所が必要になります。また、私有橋についても市がデザインを統一していることがパッと見ただけでもわかります。最終的に帰属する所有者の自由にはさせていません。それに関しても折衝が必要だったでしょう。

 苦労の甲斐あってその試みは成功し、現在では鞍月用水を中心に開放的な雰囲気を生かしたにぎわいのある地区になっています。

 また、1996年には、金沢の用水を歴史的に貴重な財産として守っていくための金沢市用水保全条例https://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/reiki/reiki_honbun/a400RG00000783.html)が施行されています。

用水というそこにある伝統的資源を活用するためには、能動的な努力が必要だったことがわかります。

用水沿いをどんどん歩く。
日野下花帆が言及していた、オヨヨ書林のせせらぎ通り店跡地。ここは閉店していますが、別店舗(シンタテマチ店)は残っています。
どんどん歩く。

 鞍月用水沿いをひたすら歩くと、金沢駅西口(鼓門がない側)に出ます。
 西口広場の池の水は、鞍月用水より給水されています。

金沢駅西口広場

 その池には、奇麗な蓮の花が咲いていました。

一輪だけ咲いていた蓮の花

 鼓門がある東口が華やかですが、蓮ノ空のオタクは西口も必見スポットかもしれない。

 歩いている途中、うつのみや金沢香林坊店で古本市をやっているところに遭遇しました。去年の花帆ちゃんは一人で行ってたけど、今年は吟子ちゃんと一緒に行ってるのかなって考えたりしました。

 時系列が前後しますが、辰巳用水の話もちょっとだけさせてください。

くらしの博物館のそばで撮っていた写真

辰巳用水は鞍月用水と同じく犀川を水源としている用水で、金沢城や兼六園の池に水を供給しています。
 こちらも藩政初期に金沢城の水利のために建設された用水で、水圧を利用して水を高い位置まで運ぶ逆サイフォンの原理が利用されています。当時相当高度な技術が存在したことがわかります。

 一番最初に近江町市場の辰巳用水のマンホールの写真を貼りましたが、あの場所は金沢市の用水マップを見ると近江町用水と記載されています。ただ、辰巳用水から繋がっている水路であるため、かつては辰巳用水と区別されていなかったことが推測できます。

 辰巳用水に関連する話ですが、前回の金沢訪問時に気になったことがありました。

金沢文芸館の前で撮影した写真

 こんな街中なのにホタルおるんや、すごいな~と思って何気なく写真を撮っていました。
 今回調べていると、この場所が辰巳用水から繋がる兼六園の池を水源としている用水(九人橋川)であることがわかりました。
 つまり、ホタルがこんな街中に生息できているのは、条例を作ってまで用水を綺麗に保全してきた成果であることがわかります。
 同じ場所を見ても視点の有無で感じることが変わるなと思いました。

 金沢市のホームページに「金沢用水めぐり」というパンフレットがあるので、そのマップを見ながら街を歩くだけでも、水路のつながりや関係がわかってかなり楽しいです。

用水・惣構パンフレット集/金沢市公式ホームページ いいね金沢


 おすし

 櫻井陽菜さんも金沢に来たら海鮮を食えとおっしゃっていたことですし、夜はおすしを食べまくりました。

本マグロ
ボタンエビとウニ。こんなことがあっていいのかよ。
カニとまいたけ。もはやカニが舞っていた。


これはおすしやさんの近くで撮った犀川大橋


 前編まとめ

 加賀繍や茶屋街、用水などの歴史を通して、変わってゆくものと変わらないもの、伝統を残すとしたらどう残すのかなど、たくさん考えることがありました。
 この時点でも蓮ノ空のストーリーとリンクするところは多いですし、おぼろげに公約数が見えている気がします。化石はノイズです。

 後編では、きた茶屋街にならなかった地区、幻の北廓を散策しました。
 また、谷口吉郎・吉生記念金沢建築館の企画展、谷口吉郎の「金沢診断」で金沢のまちづくりを学びました。ここでおおよその話が繋がります。
 福井にも行きます。

 後編へ続く。

 参考

・山出保『まちづくり都市 金沢』岩波書店
・山出保『金沢を歩く』岩波書店
・山出保+金沢まち・ひと会議「金沢らしさとは何か ―まちの個性を磨くためのトークセッション」北國新聞社出版局
・田中優子『遊廓と日本人』 講談社
・木村雨山 監修『加賀友禅』北国出版社
・梶山伸「加賀友禅の今日とその努力」『京染と精練染色39(1)』京染・精練染色研究会
・『そめとおり』染織新報社
・笹倉信行 『金沢用水散歩』十月社
・ 吉村生、高山英男 『暗渠マニアック! 増補版』筑摩書房
・「谷口吉郎・谷口吉生記念金沢建築館特別展 谷口吉郎の「金沢診断」ー伝統と創造のまちづくりー パンフレット」
・金沢市(https://www4.city.kanazawa.lg.jp/index.html



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