スリーズブーケの歌詞を読む
スリーズブーケの楽曲、特に歌詞が大好きで、楽曲を聞いたり、歌詞カードを読んでみたり、オタクなりに口ずさんでみたりすると、好きなポイントについて気づきがあったりする。
今回はそのポイントについて、あえて蓮ノ空の物語やキャラクターに踏み込まず、歌詞と楽曲そのものに注目し、なぜこんなにも魅力的に映るのかを考えたい。
また、この文章は作詞者(現実、作中どちらも)の意図を探って的中させることを目的とするものではなく、最終的に出力されたテクストがどう受容され得るのかを分析するものだ。
また、スリーズブーケの楽曲の魅力としていくつかポイントを挙げるが、言うまでもなく他のユニットの楽曲やラブライブシリーズの楽曲が同質の魅力を含んでいないと言っているのではなく、あくまで楽曲単体に注目して話をしているだけだ。みらぱの楽曲もドルケの楽曲も大好きに決まっているので。
ざっくり分けて2つの観点から検討していく。
1.情景描写について
スリーズブーケの楽曲の魅力として頻繁に挙げられる、情景描写がどのように成立しているのかについて、『Holiday∞Holiday』を中心に具体的に考える。
2.言葉の音楽性について
歌詞を構成する言葉そのものが持っている音楽性について考える。
また、タイトルにスリーズブーケの楽曲と書いたが、多数の楽曲について検討し共通点を導くものでなく、個別具体的なポイントについての言及がメインとなることをあらかじめ断っておく。
1.情景描写について
先述の通り、スリーズブーケの楽曲の情景描写は、多くの好き好きクラブのみなさんが魅力として挙げている。
実際、ほぼすべての楽曲で具体的なイメージを伴うストーリーが描かれている。YouTubeで初めて『水彩世界』のMVを見たとき、「筆先を濡らした水がバケツの中濁るように」という一文に、一瞬で心を掴まれたことも記憶に新しい。
スリーズブーケの楽曲において、視覚的なイメージがメインのモチーフとなっていることは、タイトルを並べてみても明らかだ。
『水彩世界』『フォーチュンムービー』『素顔のピクセル』『千変万華』はそれぞれ水彩画、映画、写真、万華鏡と視覚と強く紐づいた芸術がタイトルになっているし、『残陽』『謳歌爛漫』『眩耀夜行』は情景そのものがタイトルとなっている。『アオクハルカ』は青春というモチーフをわざわざ分解した上で色彩としての青を取り出している。ここまで執拗にやっている。
・景と情
いきなり個人的にハマってる別ジャンルの話をして申し訳ないのですが、短歌の話をします。
短歌には、「景」と「情」という概念がある。
ざっくりいうと、歌で描かれる具体的な物や景色を「景」、主体の心情を「情」とし、その組み合わせで歌を構成する考え方だ。この概念に基づき、具体的なイメージが立ち上がらない歌は「景」がわからないと言われたりもする(当然それが必ずしも悪いわけではない。あくまで古いものさしの一つであり、規範ではないと補足しておく)。
31文字の短詩型文学の理屈をそのまま歌詞に流用することはできないが、スリーズブーケの楽曲を考える上の補助線としては有効だろう。
どの楽曲も、強力な視覚的イメージを展開し、そこに重なり合うよう情念を寄り添わせる、あるいは導く構造になっている。
今後、景という言葉を多用するが、このニュアンスが前提となっている。
ただ、歌詞の中で描かれる主体にとって、景がどのように存在しているのかにはついてはバリエーションがある。(※ここでの主体とは乙宗梢や歴代スリーズブーケの先輩ではなく、歌詞そのものに内在する仮想的人物を指す。歌詞中のアバターと言えばわかりやすいだろうか。今後主体という言葉を多用するが、同様の意味である。その主体が具体的に誰なのかという判断は停止している)
例えば、『Kawaii no susume』『素顔のピクセル』『残陽』等は主体にとっての現実として物語が展開される。『水彩世界』は悩んでいる主体が具体的に描写された上で、その比喩ともとれる形で水彩画のイメージが展開される。『シュガーメルト』は一緒に雲を見ているという状況は主体と君にとって現実だが、中盤から雲のイメージは君を表す比喩へと変化する。
・立ち上がる景
前置きが長くなったが、ここからは『Holiday∞Holiday』を中心に、歌詞の具体的な内容を検討してゆく。
タイトルは「休日」を意味する単語を∞(無限)で接続したものであり、先ほど列挙した視覚にまつわるタイトルの例外に当たる。のみならず、この楽曲は、情に対する景、というよりも歌詞のほとんどすべてが比喩で構成されている。
なぜそんなことになっているのだろうか。
冒頭から見ていく。
歌い出しでは、主体にとっての「君」に対して「予想できない一日」という比喩が与えられる。タイトルにもなっているメインテーマであり、サビへとつながる時間的概念としての「一日」が初手で提示されるのは納得だが、この文節は具体的な景を持たない。こうやって立ち止まれば想像し得ないわけではないが、楽曲の進行と同じ速度で、その言葉から導かれた景が心象として展開するわけではない。
同じように、曲名にもなっている「休日」というメインモチーフも、それ自体が直接景を表すものではない。
そこで、景を立ち上げるため、比喩に対してさらに比喩をぶつけてくるという力技が行使される。
すごい歌詞だ。
初手で比喩に比喩を重ねるという、下手すると何の話をしているのかわからなくなりそうな構造だけでもすごいが、特筆すべきは言葉の密度の低さだろう。
音数が制限された作詞という行為では、縛られた文字数の中でどれだけ豊かな世界を展開するかが勝負になる。情景描写を持ち味とするスリーズブーケの楽曲であればなおのことだ。
そんな中、この一節では比喩であることを説明するために過剰に言葉が費やされる。
他の楽曲と比較してみる。
『水彩世界』も、比喩として景を立てるところから始まっている。ここで比喩であることを示すために使用されている言葉は、「ように」の三文字だ。
そんなわけないので、これは比喩だ。
サビで登場する歌詞だが、「君」が雲になぞらえられるのはここが最初だ。しかし、ここでは比喩を説明するために一文字も余計な言葉は費やされていない。
であるにもかかわらず、『Holiday∞Holiday』において「ジェットコースター」は、「たとえるならば」「見てる感じかな」と比喩であることを示すためだけに存在する過剰な言葉で挟まれている。ジェットコースターひとつを提示するために、四小節も消費している。悪く言えば、間延びしているとすら言える。
では、この描写によって、どのような効果が得られているのだろうか。
景の立て方という観点において、この構造は大きな意味を持つ。
密度の低い言葉で一節を埋めつくすことで、核となっている「ジェットコースター」についての情報は、名詞という最小単位に切り詰められる。四小節を通して、修飾されることも、動作を説明されることもなく、「ジェットコースター」という圧倒的な物質性を持つ強い名詞がまじりけなく提示される。
無骨な名詞として存在していることで、この単語が持つ物質性は強調され、巨大な「もの」としてのジェットコースターの姿に重なる。また、言葉によって説明されない、つまりは限定を伴わないことで、「ジェットコースター」という単語が持つ質感やイメージが広がりを持って提供されることになる。
こうして、切り詰められた単語を起点に、強引に景は立ち上げられる。
補足であるが、このフレーズのメロディーは上がって下がる、山の形をしている。「例えるならば」でドの音から始まって上昇し、「ジェットコースター」のラ♭で頂点を迎え、「見てる感じかな」で下降着地する。この上昇下降の形態からジェットコースターそのものの姿を連想することも可能ではあるが、今回言いたいのはそういうことではない。
メロディーの構造すら、「ジェットコースター」というひとつの単語を提供するために最適化される形で、歌詞が当てはめられているということだ。
また、自明であっても「見てる」という視点を提示することは、後述する主体の比喩世界での視点変更を描写するための起点となっている。この点については後で触れる。
先ほど、『Holiday∞Holiday』と同じく比喩から入る楽曲として『水彩世界』の冒頭を引用したが、『水彩世界』の冒頭の比喩と『Holiday∞Holiday』の冒頭の比喩の間には、言葉の密度以外にも大きな違いがある。
『水彩世界』において「筆先を濡らした水がバケツの中濁るように」という比喩は、「一人で悩んでいた放課後のこと」として、比喩の対象に即座に着地する。
だが、『Holiday∞Holiday』ではそうならない。
たとえられる対象、予想できない一日に似ている「君」は比喩に先んじて提示されている。そのため、比喩世界はジェットコースターのフレーズが終わっても自動的に閉じることはない。
それにより、ここに設置されている「ジェットコースター」を源泉として、物語は展開されてゆくこととなる。
続きを読んでいこう。
「急」の四連打とともに、大きな動作を表す動詞が連続する。
揃えられた文頭、「上昇」「下降」の対称性、「展開」「旋回」の固い韻に乗って、意味と音の両面どちらを見てもリズムよく歌詞は進行する。
修飾されることも、動作することもなく、比喩の中で宙づりにされていた「ジェットコースター」は、軽快な歌詞により突然動き出す。
ここで、前節の情報の密度の低さはある種の「フリ」としても機能することになる。聞き手は、文字通りジェットコースターのような文章構造の中で翻弄される。
主体にとって、ジェットコースターは「見てる」対象として現れたが、ここで眼前に搭乗口が突きつけられる。鳴り響くベルとともに、視点として存在していた主体は、ここで当時者であることを迫られる。
この視点変更により、ジェットコースターを中心点とした比喩世界は、サビへ接続できるように変形された。
つまりどういうことか。
サビを読んでいく。
・ねじれる言葉と意味の磁力
サビに突入すると、この楽曲の主題である、君と過ごす特別な毎日について語られる。ジェットコースターの比喩は、ここに到達するための布石である。君と一緒にいることで、平凡な毎日が特別になる。
このAメロ→Bメロ→サビの流れにおいて、ジェットコースターという比喩の階層は微妙にずらされている。
具体的に検討する。
予想できない一日になぞらえられる、「君」の「予想できなさ」についての二重比喩として、縦横無尽に駆け抜けるジェットコースターは登場したはずだ。
しかし先述の通り、Bメロで「搭乗口」を突きつけられ、乗車を促されることで、主体は比喩世界内の当事者となる。ジェットコースターに対する主体の立場の変化、そこに「いる」ことに伴って、動作が予想できない物体として現れたはずのジェットコースターを取り巻く空間的広がり、遊園地という非日常的空間としての側面が照らされる。ジェットコースターを含む時間、空間を手に入れたことで、そこで過ごす休日、非日常的な一日というイメージが導かれ、主体にとっての「特別な祝祭的時間」を描くサビに接続されている。サビが受け止めているジェットコースターの比喩は、核心であった「君」の「予想できなさ」の意味を一要素として引き継ぎつつも、その次元を突き抜けて、「一日」という最初に提示した時間の概念に繋がる。
文章の論理は転倒する。ねじれた構造の中で言葉が持つニュアンス同士が緩く接続されることで、論理的構造をはみ出した意味が共鳴し、詩的空間が形成される。
主体の「君」に対する感情は、分解しきれない質感を伴って聞き手に流れ込む。
一度話を最初に戻す。冒頭の二重比喩は「君」を説明するものであるという前提で話を始めていたが、「予想できない一日」と「君」は「とても似ている」と並列で示されており、意味を無視して構造のみを取り出すと、どちらがどちらの比喩として機能しているのか確定しない。だとすると必然的に、次の文章でジェットコースターに例えられている対象も、構造レベルでは確定しないことになる。
それをひとつの読み筋に固定しているのは、文章を構成する各部品の「意味」だ。
最初から意味という磁力によるゆるやかな繋がりで文章の関係を固定しているため、その接続を離れ、新たに別の位置で新たな意味と役割をまとい再接続されることもごく自然に行われる。
最初から、ねじれる前提で配置された言葉なのだ。
文章の論理を離れたニュアンス同士の接続が、もっと小さい単位でわかりやすく行われている楽曲もある。一例を示す。
声に対する「跳ねる」という形容は一般的だが、「跳ねてゆく」という継続を伴う活用での表現は見慣れない。だが、小さな違和感を残すのはあくまで活用部分のみであり、意味は問題なく理解される。誤った表現でもないので、「跳ねてゆく」は「声」への修飾として文法的に完結している。
しかし、この継続を伴う描写、「跳ねてゆく」は、「水切り」という次節で提示されるモチーフと強く引き合う。川の上を滑る石は、まさに継続的に「跳ねてゆく」ものだ。元々の修飾関係の小さな違和感は、この大きな引力を無視できない。
一度閉じた体系が裂け、響きあうことで、独特の情感を伴う詩的空間としての景が形成される。
また、全文を引用することはしないが、『シュガーメルト』も比喩のスライドや意味同士の接続が興味深い楽曲だ。
景に関する話はここで終わりなので、テーマ的には蛇足であるが、楽曲の途中すぎて気持ち悪いので、もう少し『Holiday∞Holiday』を読んでいく。
・意味になる構造
Cメロ後の落ちサビに跳ぶ。
言うまでもなく、「だって」は因果関係を示す接続詞である。
そこにエクスクラメーションマークが5個もついているということは、さぞかし納得できる理由が提示されるのだろう。
はい。
365日中の7日間という部分集合を提示することで一見なんらかの説明をしているようにも見えるが、この2つの文章はまったく同じことを言っている。どちらも「毎日がHoliday」で文が閉じており、毎日という無限の時間が休日であるという前提がすでに存在している中で、そこから7日を切り取るか、365日を切り取るかの違いのみである。論理は循環する。トートロジーという形で無限は体現され、言葉の意味内容と文章の構造が合致する。
念のために振り返っておくと、この楽曲のタイトルは『Holiday∞Holiday』であり、無限(∞)はあらかじめテーマとして示されている。ついでに言うと、同じ言葉が∞によって接続されているタイトルの構造と、先述したサビの同じ意味内容が接続詞で結ばれる構造は綺麗に一致している。
祈り(あるいは決意)で楽曲は閉じる。主体が、楽曲が提示する通りに無限を素直に信じているのであれば、祈りも決意も必要ないはずなのに。
更に蛇足であるが、『Holiday∞Holiday』と同じように一瞬と永遠を描いた楽曲の、構造と意味内容が共鳴している、印象的な箇所を引用する。
作中世界において、「ピース!」はシャッターが切られた瞬間を示す。この瞬間に時は微分され、写真という形で一瞬に閉じ込められる。
楽曲においてこの合図が示されるのは最後であるため、この言葉に合わせて楽曲の世界も閉じる。作中で発生する永遠としての写真と同じ瞬間に、歌詞という永遠の閉空間が完結する。つまり、作中世界と歌詞の構造において、「ピース!」はまったく同じ役割を果たしている。
「ピース!」を聞いたときに湧き上がるカタルシスの源泉はここにあると感じている。
2.言葉の音楽性について
言語は記号だが、記号の「何かを指し示すこと」という機能が機能単体で存在しているはずもなく、話し言葉であれば音、書き言葉であれば文字という実体が現実世界に存在している。
言葉が音という実体を伴うがゆえに歌詞はそれ単体で音楽性を持つ。歌詞自体の音楽性とメロディーが協働することで、一つの楽曲となる。
・押韻未満の旋律
意味内容から離れた言葉の音楽性を示すものとして、一番わかりやすい例が押韻だろう。
単語や文節の母音をそろえることで、独特のリズム感と旋律、驚異を生み出す。
先ほど引用した『Holiday∞Holiday』の1番Aメロ後半もそうだ。
同じ言葉を重ねている「急」は定義としては韻ではないだろうが、音の機能としては韻と同様である。また、「展開」「旋回」は明確に「e n a i」で踏んでいる。
景の分析で述べたのは主に意味レベルの話だが、音のレベルにおいても言葉がリズム感とスピード感を演出することで、間延びした前半との対応関係が成立している。
水彩世界のサビの、1番と2番で踏んでいる部分(キャンバス、キャンパス)である。ここでは踏んでいる箇所同士の距離が離れすぎているため、韻の役割としては対称性を示すことが中心で、リズム感や旋律への影響は薄いだろう。
この部分を引用したことには別の理由がある。
ここで重要なのは、共通要素ではなく差異である。
この言葉は「バ」と「パ」、つまり濁音、半濁音の違いによって異なる単語となっている。どちらも起点に「ハ」がある。
だから何?
『水彩世界』の1番Aメロ、Bメロを見ていく。
緑色で示しているのは、言葉がハ行で始まる箇所である。
こうやって見ると、文や言葉の頭にハ行が置かれている頻度があまりに高いことがわかるだろう。
揃えられているのは子音なので、韻とは呼べない。
そのため、ここで生きているのは、子音が持つ質感である。
息の擬音が「はー」「ふー」と表現されるように、ハ行は息の音を多く含み、淡く柔らかい印象を持つ。この淡い質感が、「水彩世界」というタイトルが示す水彩画のようなイメージの形成に、音の側面から寄与している。 いきなり「バケツ」の「バ」で例外じゃんと思われるかもしれないが、濁音である「バ」を受け止めている言葉は「濁る」であり、むしろ読みを補強する。清音のハ行で形作られる柔らかい印象の中で、意味内容だけでなく、音においても、主体の不安を演出している。
2番では四季のイメージをそれぞれ色彩に結びつける形で『水彩世界』というタイトルへ向かう。語られる内容が優先されているため、1番のような子音の統一は見られない。
ただ、歌い出しは「春」、しっかり「ハ」の音であり、1番で形成した水彩画のような淡い音の印象を継承するよう設計されている。
・記号という音、音という記号
構造主義の言語学において、言語は、指し示す言葉と指し示される対象(=意味)とのつながりに根拠を持たないとされている。
イヌ(動物)がイヌ(名詞)と呼ばれているのはその文化圏でそう決められているからであって、イヌ(動物)にイヌ(名詞)性が宿っているわけではない、という考え方だ。(※反論もある)
いわゆるオノマトペはその例外と考えられている。(※考えられていないこともある)
どういうことか。
オノマトペのうち、音そのものを模して言語となっている擬声語(例:ワンワン、ザーザー、ドカン)は、言語音が指し示される意味である音との類似性を持っている。
また、音ではないものを表している擬態語(例:キラキラ、ニコニコ、ツルツル)も共感覚的に言語音によって意味を表現している。
突然なんだと思うだろうが、必要があってこんな話をしているので、我慢してほしい。
まず、オノマトペ(擬声語、擬態語)はメロディーと一体化することで、音としての表象が意味をより強力に表現することがある。
先ほど韻について話すために引用した『水彩世界』のサビにも、「パッと咲いた」「シュッと飛んだ」という擬態語の表現がある。
ここで、「パッと」「シュッと」は楽曲の心地よいスタッカートおよび落下するメロディーと一体化することで、意味内容を表す言葉としての役割をはみ出して、またたくような質感を獲得している。
もう一つ例を挙げる。
音数を細かく見ると、二拍目が「て」の音に揃えられているため、促音を含む「キュンっ」までがアップテンポな楽曲の一拍に収納されている。そのため、実際に聞いてみるととても窮屈な印象を受ける。音によって、言葉の意味が示す通り胸が締め付けられるような感覚が得られる。
どちらの事例においても、擬態語の質感が最も生かされるように音楽に当て嵌められていることがわかるだろう。
当たり前すぎるだろうか。そうかもしれない。
次が本題だ。
スリーズブーケの楽曲には、本来オノマトペでも何でもない、意味内容と直接的なつながりを持たないはずの言葉が、特殊な状況を用意することで、音として意味内容と接続されているものがある。
また『Holiday∞Holiday』である。
音源やライブで浴びるこの「Ride on!」の気持ちよさは、好き好きクラブのみなさんであれば誰もが経験したことがあるだろう。
では、どうしてこんなに気持ちいいのだろうか。
語感と言ってしまえばそれまでだが、その語感がどうして立ち上がり、どうして気持ちいいのか、もう少し考えてみる。
言語を音や文字、つまり物質として最も強く意識する瞬間は、言葉が使用者にとって透明な存在ではなくなったときだ。
具体的にいうと、言語が何かを意味し、受け手がその意味を受容するというオートマチックな機能が何らかの理由でエラーを吐いた際に、意味と音は切断され、音のみが立ちはだかる。
多くの日本人にとって、英語は透明な存在ではない。学習によって理解可能だが、脳内での翻訳を経ず、母国語のように言葉を直接意味として受容するためには訓練が必要である。また、仮にその習得が完璧であったとしても、日本語で書かれた文章中に突然英語が現れると、コードの違いから一瞬のラグが発生する。
「Ride on!」(乗って!)は中学英語であり、一般的に意味を理解することに支障は無い。だが、先述のとおり言葉が意味につながるまでのほんの一瞬のラグにより、言葉が純然たる音として立ちはだかる瞬間がある。
そして、「Ride on!」の前には「ベルが鳴り響く」という一節が置かれている。その一節に導かれるように、反復する上下運動のメロディーに乗せて「Ride on!」は現れる。それによって、はじき音から始まるこの言葉は、オノマトペでないにもかかわらず擬声語のように働き、鳴り響くベルの音の質感を纏うこととなる。言葉は意味を伝達する記号を超えて、作中に存在する音のイメージを喚起する。
更に重要なポイントがある。ベルの音は自然音と異なり、人が誰かに特定の観念を伝えるために鳴らされるものだ。つまり、ベルの音という変化した先もまた記号なのだ。今回の場合、ジェットコースターの発車を告げ、乗車や注意を促すために鳴らされるものとしてのベルの音だろう。
この一節において、「Ride on!」は、言語としての記号(ride on:乗って)から音(ベルの音)に姿を変え、当初とは別の記号(ベルの音:発車を合図することで乗車を促す)となる。
角度によって見え方が変化する音という一つの表層から、複数の意味内容を獲得している。
面白いのは、どちらの記号においても乗車を促されていることだ。
主体にとって、「君」がどのような存在として現れたのかがよくわかる。
2番も見ていく。
「Ride on!」の部分は一番と同じ言葉を繰り返している。『水彩世界』のように対応関係を持たせつつ言葉を変えている楽曲も多いが、この楽曲ではそうではない。1番と同じ音が発せられることで、1番で形成したベルの音のイメージを継承する。
ただ、前半部分で「心拍数」が提示されていることにより、ここで新たな意味が重ねられる。上下するメロディーと、規則的な反復運動が生むリズムは、心拍を連想させる。
ここで「Ride on!」の音はベルの音を表現する擬声語であると同時に、心臓の鼓動を共感覚的に示す、擬態語の機能を獲得する。
話は終わらない。
ポーに「告げ口心臓」という短編があるが、心臓は持ち主の思い通りに動かない。いわゆる不随意運動であり、身体の内部にある臓器であるにもかかわらず、意識が先立って発生する動作ではないため、その鼓動は意識に対して到来するものとして現れる。つまり、外部性を持つ。
先ほどから記号という言葉を多用しているが、言語もベルの音も、表象に対して意味を人工的に紐づけた、社会的記号である。
一方で、雲の存在が雨を示すことや、煙の存在が火の存在を示すことなど、示すものと示されるものが約束事ではなく物理的に紐づいた関係性もまた記号である。(指標記号と分類されることもある)。
本人に知覚されるほど強く鼓動する心臓は、自らの内面に特定の大きな感情が存在していることを示す指標記号だ。
つまり、1番で示した音と記号の往復は、2番においても発生している。それも、1番の往復により発生した意味を継承し、重なりあう形で。
これだけの情報量が分化されないまま心地よい歌声に乗って一気に流れ込んでくるのだから、それは気持ちいいに決まっているだろう。
おわりに
視点を2つに分けたが、普通に後悔している。お互いがお互いの論旨に干渉し、行ったり来たりしている。それは語り方が下手だからに他ならないが、意味、構造、音と様々な階層から語り得る要因が重なり合い、多層的なイメージを生み出してゆく楽曲の構造が原因であると言うこともできるだろう。特定の結論を導くことができるような文章ではなかったが、その仕組みについてはどの楽曲についても共通しているように思う。
また、核になる楽曲を絞りつつ雑然と好きな個所を挙げてきたので、当然語れていない部分のほうが圧倒的に多い。
少し触れると、最新曲の「月夜見海月」なんかはもうタイトルから詩である。フェスライブで「ツクヨミクラゲ」という音のみを聞いたときは一瞬ポカンとしたが、終演後に漢字表記を見てひっくり返った。論理的なつながりの外側で、すべての漢字がすべての漢字とゆるやかに意味の磁力で繋がりあい、意味わからんくらいの詩情と情報量を生んでいる。先ほどニュアンス同士のつながりについて例示したパターンをたった五文字でやっている。「タイトルの視覚的な~」とか言ってた頃が懐かしい。タイトルはもはやモチーフを示す看板や説明文ではない。詩そのものだ。スリーズブーケはその段階まで来ています。入口からそうなのだから、本文であるところの歌詞を紐解いていけばさらに豊かな詩的空間が存在していることは自明も自明だろう。
ご本人が徹底して「スリブの作詞はスリブ」という立場を貫いておられることもあってあえて一度もお名前を出さなかったが、これほど素晴らしい歌詞を書いてくださっているケリー先生への感謝が尽きない。文字通り尽きない。無限である。
当然、今回言及した楽曲は蓮ノ空の物語の内部に存在しているものだ。あえてテクストという言葉を使うのであれば、蓮ノ空の物語というテクストの構成要素として存在しているテクストだと言える。
文脈を切断されてもなおこれほどまでに豊かな楽曲たちが、繊細な物語、キャラクターと紐づき、さらなる多様な意味と解釈の幅を持つ。
蓮ノ空の物語を理解するという目的であれば、そのつながりについて分析することは必須だ。
例えば、今回徹底して「主体」の解釈を避けたが、その変数について考えるだけで何倍も面白く楽曲を読めるだろう。
ただ、そこに踏み込む一歩手前であえて一度立ち止まり、当たり前に受容している楽曲の快楽について少し考えてみることで、より魅力的に楽曲を受け取ることができる場合もあるのではないか。
このまとまりのない文章で、その可能性の一片でも提示できていたらうれしい。