蓮ノ空のオタク、3回目の金沢旅行(後編)
テーマが連続しているので、前編を先に読んでくださるとうれしいです。
今回も伝統をキーワードに、劇中で描かれた場所という意味での聖地に限定せず、金沢という土地と蓮ノ空の物語の重なりを考えていきます。
全然関係ないことも考えます。
3日目
にし茶屋街、ひがし茶屋街について調べていると、かつて金沢には東、西、主計町の他に「北廓」という遊郭が存在していたことがわかります。
東、西、主計町はご存知の通り、三大茶屋街として観光地となっています。
きた茶屋街はありません。
では、かつて存在した北廓はどこへ消えてしまったのでしょうか?
前編からしつこく述べている通り、今回は伝統という概念に強い関心を抱いて旅行しています。金沢という都市が歴史的資源をどれだけ大切にしているのかも学びました。
その中で、消えてしまったものがあることに興味を覚えました。
ともあれ、西から話を進めます。
にし茶屋街
前回も来ているので、2回目の訪問です。
言うまでもなく、せーはす金沢編スリーズブーケの聖地です。手すりで寝そべりを滑らせましょう。
にし茶屋街は、ひがし茶屋街(東廓)と同じく1820年に藩公認の遊郭として設置された西廓が由来となっています。設置当初は石坂(いっさか)新地などと呼ばれていました。
にし茶屋街は、ひがし茶屋街、主計町茶屋街とは異なり、重要伝統的建造物群保存地区には指定されていません。(重伝建については前編を参照)
理由としては、明治時代の火災により多くの建築物が失われていることや、茶屋の廃業が続いたことで街並みとしての連続性に欠けていることがあるようです。(茶屋の廃業が続いたのはひがし茶屋街も共通していますが、ひがし茶屋街の場合、地元の経済団体が売りに出された茶屋を買い取り建物を保持するなどの動きがあり、景観を維持しました。)
ただ、重伝建ではないと言っても単に文化財保護法の対象となっていないだけです。
景観法施行後の金沢市景観計画においては伝統的町並み区域に含まれていますし、それ以前も自主条例である都市景観条例において伝統環境保存区域に含まれています。
つまり、一貫して行政からは守るべき伝統的な景観として認識されていることがわかります。
手すりで寝そべりを滑らせていると、なんかすごそうなものあるなとみんな思ったと思います。
西検番事務所は1922年(大正12年)に建築され、芸姑の稽古場や、管理事務所として使われていました。現在は西料亭事務所と名前を変えていますが、現役で同じ役割を果たしています。すごい。
金沢市史によると、廓で生活する児童に対して金沢市が授業を行う学校としての機能を持っていた時期もあるようです。
隣に建てられていた菅原神社は大戦時に建物疎開していますが、この事務所はずっと本来の姿、役割を貫いて残っており、文字通り、過去から現在まで茶屋街の歴史の傍にあった建物であると言えそうです。
甘納豆かわむらで6分もなかを食べました。抹茶アイスは前回食べたので、今回はマスカルポーネです。アイスのような温度差が無い分、優しい口当たりで餡の風味を強く感じます。ラム酒も効いています。個人的にはアイスより好きかもしれない。
忍者武器ミュージアムに行ったのは前回ですが、せっかくなので触れます。
この展示の前に来た瞬間、聖地巡礼とも何とも言ってないのに、秒でスタッフさんから「どうぞ」ってうい鉄球(花宮初奈さんが持っていた鉄球のこと)をポンと手渡されました。いかにこれを持ちたがっているオタクがたくさん来訪しているかがわかります。(自分が見るからにオタクであることもわかります)
おもしろくて、「何も言ってないのに、よくわからない謎の鉄球を渡された人」の演技をしてしまって、スタッフさんを困惑させてしまいました。本当はうい鉄球渡されてすっげー嬉しかったのに。嬉しかったなら、嬉しかったという気持ちを態度で示すべきだったのに。俺は。
もちろん、スリブに倣って手裏剣体験もしました。
ほぼ全発手裏剣を外したとき、スタッフさんに「嬉野温泉の忍者ショーでは命中したんですけど…」って意味不明な見栄を張ってしまって、後悔しました。
自分に素直になることについて考えさせられたミュージアムでした。
何の話?
話を本題に近づけていきます。今回の目当ては北廓でした。
にし茶屋街の裏にあるこの橋を渡った先に戦後の赤線地帯があるらしいという話は、インターネットでにし茶屋街について調べていた際に見かけていて、興味を持っていました。「石坂地区」と呼ばれているようです。
ここで混乱が発生します。
先述の通り、にし茶屋街(西廓)は1820年に認可された際、石坂新地と呼ばれていました。
だとすると、石坂地区って西廓のことじゃないの?西廓が川の向こうまで広がってたってこと?それが現代のにし茶屋街にあたる部分しか残らなかったこと?という疑問が当然浮かびます。
疑問を抱えたまま、話を北廓に戻します。
金沢市史を当たっていると、北廓についてある程度の概略が掴めてきます。
1885年(明治21年)に認可された遊郭で、かつては市内中心部(栄町、松ヶ枝町)にあったようです。旧地名が今でも残っている松ヶ枝緑地の場所を見ると、本当に街のド真ん中だったことがわかります。近江町市場にも近いです。
しかし認可されたはいいものの、ド真ん中であるがゆえに早々に移転が検討されました。北陸本線が開通する際、地域が商業的に発展する見込みがあることや、近所に小学校があることなどから風紀、教育への悪影響が懸念されたからです。妥当。1899年(明治35年)のことです。
移転先として選ばれたのが、「北石坂新町」です。
あのあたり一帯が石坂○○であることはわかったから結局どこがどこなんだと思いつつ調べていると、クリティカルな資料に当たれました。
金沢市立図書館が、古い地図を大量にインターネットで公開していました。(うれしすぎる)
1934年(昭和9年)編纂の36、37に「北廓」の記述が、1923年(大正12年)編纂の61に「北新地」の記述が確認できます。
いずれもにし茶屋街の対岸を一貫してそう記述しています。
ついでに前編記事と絡めて言うと、泉用水と現存しない謎の水路に挟まれる形の地区になっており、西廓および外界との隔絶に成功しています。
ようやく繋がりました。
この「いしさか2のはし」を渡った先、通称石坂地区こそが、きた茶屋街にならなかった北廓です。
北廓跡
ようやく特定できたところで橋を渡り、散策します。
古い建物や、取り壊された建物の跡地、新しい住宅が並んでいます。
地区に足を踏み入れてすぐ、典型的な遊郭建築の特徴か見られる建物がありました。
曲線で構成された玄関に、目に留まりやすいカラータイルが敷き詰められています。ひがし、にし茶屋街に立ち並ぶ茶屋よりも新しい特徴です。
カラータイルの耐用年数の長さから、当時の雰囲気をそのまま残しています。
ほとんどの茶屋が取り壊されたり、建て替えられて面影を完全に失っている中、喫茶店として改装されているものがありました。こちらもおそらく当時のものであるカラータイルが目を引きます。
解体され、空地になっている場所がとても多いです。
新しい住宅もたくさん建っており、景観としての連続性は全くありません。
地区の姿は更新されています。
愛染明王を祀った古い祠がありました。
愛欲、情欲を司る神で、この地がかつて遊郭だった面影を感じます。
※歴史を辿るという意図ですが、ここから売春が行われていた空間としての遊郭と、赤線地帯に関する言及が増えます。
読みたくない方は次の区切り線まで飛ばしてください。
先ほどから赤線という言葉を前提のように使っていますが、一応解説します。
1946年(昭和21年)にGHQにより公娼制度が廃止されましたが、自由意志で売春業務に従事することは禁止されていませんでした。そのため、1957年(昭和32年)に売春禁止法が成立するまでの間、特殊飲食店として許可を得て存続し、売春行為を行う店舗がありました。その店舗が集まった地区が赤線と呼ばれています。
北廓はその赤線として存続しました。また、売春禁止法の施行後も連れ出しスナックとして営業されていた店舗もあったようです。
健全化し、今では修学旅行生すら訪れるひがし、にし茶屋街と違って、「北」は戦後もかつての遊郭の役割を果たし続けていたことがわかります。
では、どのような違いがあって、そうなったのでしょうか。
1891年(明治24年)の資料に、東、西、北の芸妓、娼妓の数を集計したものがありました。(金沢市史資料編14「金城花の見立」)
一応注釈すると、芸姑は芸を提供すること、娼妓はいわゆる売春を主な業務としています。
1876年(明治9年)に石川県により両者の区別を明確にするよう求められ、芸妓は売春を建前上禁止されました。
ただ、実態として芸妓も娼姑の業務を行っていましたし、そもそも鑑札を2枚持って使い分けていた遊女も多くいたようです(明治から昭和にかけて東廓(現ひがし茶屋街)の上茶屋で働いていた芸妓へのインタビューをまとめたノンフィクション、井上雪「廓のおんな」に記載があります)。
実態と建前の距離感が不明瞭である遊郭という空間で数字を素直に読むことは危険ですが、相対的な比較をするためには有用でしょう。
北新地(北廓)は、東、西と比べて圧倒的に娼姑の割合が高いことがわかります。
ただ、明治期の集計なので、戦後どうなっているか不明ではあります。
推測するしかありませんが、公娼制度廃止に伴い(建前かもしれないが)芸を売るという道があった花街としての東、西に対して、元々娼姑が多い下町という色が強かった北廓は業態を転換できず、赤線として存続したのではないでしょうか。
※飛ばした方はここから読んでください。
北廓跡を歩いていると、当時の茶屋がそのまま残っているものがありました。
玄関上部に、楼名が書かれていた板まで残っています。各所に典型的な遊郭建築の特徴が見られます。
ハイデガーに師事した哲学者の三木清は、伝統(Tradition)と遺物(Ueberreste)を区別しました。
その区別において重要なポイントとなるのが、現在からの主観的な把握です。伝統は現在からの主観的な把握によって貫かれ、伝えられ、未来への関係を含みます。したがって、伝統は過去において創造されたものであるのみでなく、現在における創造を過程として含みます。それに対して、遺物は単に客観的なものであるとしています。
この定義を援用するならば、守られ、整備され、現代の視点から新しい意味付けがなされているにし茶屋街(西廓)の建造物は伝統であり、意味付けを伴う認識がされることなく、物体として存在し、次々と解体されてゆく北廓の建造物の多くは遺物と呼べるでしょう。
一本の水路を挟んで、これほどの違いがあります。
ただ、ここに残るのは遺物ばかりではありません。
先ほどの喫茶店のように茶屋を再利用する店舗もあります(ひとつですが)。
また、町屋をリノベーションして貸し切り宿として運営している業者もあります。街並みとして茶屋街が残っているわけではなく、跡地や解体されゆく建物の中に突然真新しい町屋が現れるため、ちょっと異物感があっておもしろかったりします。
蓮ノ空を考えるというメインの目的から少し逸れましたが、伝統に対置される遺物を感じることは、伝統がどうして伝統たり得るのか考える上での補助線となるでしょう。
寺町寺院群
にし茶屋街を出て東に歩いていると、やたら寺院が並んでいる地区、寺町寺院群があります。
寺がたくさんあるから寺町という地名になり、その寺町にある寺院群だから寺町寺院群です。因果が循環している。
絶対にもっといい撮り方があった。悔しい。
伝わりづらいですが、寺院がめっちゃ並んでします。70軒近くあるそうです。寺がめっちゃ並んでいるという理由で重伝建地区に指定されています。
一枚の写真に収めようとすると難しいのですが、歩いていると、右を見ても左を見ても寺院、寺院で迫力があります。
寺町の真価は歩くことで伝わります。歩きましょう。
にし茶屋街から西に歩いてすぐの場所にあるのですが、ひがし茶屋街の近くにも卯辰山寺院群がありますよね。どちらも自然発生したものでなく、藩の政策により集められたものです。順序としてはどちらも寺院の移動が先なのですが、その近くに茶屋街が設けられたことに理由はあるのでしょうか。わからない。
自遊花人水引ミュージアム
水引とは、ご祝儀の袋に巻いてある赤やら金やらの紐のあれです。
あれがこうなります。
自遊花人水引ミュージアムは水引細工を製作している自遊花人のショップに併設されたミュージアムで、水引細工の作品と嘘みたいに美しい空間が楽しめます。吊るされているランプシェードは自社製の200色以上の水引が使用されており、一つとして同じ色はありません。
水引の発祥は飛鳥時代と言われており、前編含めて今回言及してきた様々な伝統の中でも抜群に古いです。
遣隋使の小野妹子が帰国する際に持たされた献上品に、航路の無事を祈って紅白に染めた麻の紐が結ばれていたことが始まりと言われています。
その後も、贈り物の際に相手への思いを伝えるメッセージとして使われました。
金沢には加賀水引と呼ばれる伝統工芸があります。
一般的に水引は贈答品を「包む」、水引で「結ぶ」、宛名や贈る理由を「書く」という2つの工程を含みますが、知っての通り、基本的に平面的に構成されています。
それに対して、加賀水引の創始者である津田左右吉は、和紙に折り目を付けずふっくらと包み、それを造形的な水引で結ぶ立体的な方法を確立しました。そこから要素としての造形的な水引が独立し、水引細工につながります。水引細工の発祥は加賀水引です。
津田左右吉が加賀水引と呼ばれる手法を生み出したのは、1915年(大正4年)頃であるといわれています。
水引そのものの発祥が飛鳥時代であり1400年程度の歴史があることを考えると、100年前に確立された加賀水引の手法は伝統というよりもむしろ革新であると言えそうなものです。
しかし、ここで行われてたのは断絶や破壊ではなく、伝統の捉えなおしと捉えるべきでしょう。先述の通り、伝統は、現在の主観的な把握を前提とします。旧来の型を、そして「包む」という機能すら変形させ、1400年の伝統に新たな息を吹き込み、その歴史を背負った新たな伝統となったのが加賀水引と言えるでしょう。
ちなみに、津田左右吉が創設した「加賀津田流水引工芸」は代々受け継がれており、現在も四代目、五代目、六代目の職人により次々と新しい作品が生み出されています。
作品を見ていると、水引でアクセサリーを作成する「knot」というシリーズがありました。蓮のオタクとして商品名がどうしたって気になるので覗いてみると、商品紹介ページに興味深い記載がありました。
伝統が継承している核を観取し、あえて否定という言葉を用いながらその核を表現するために実際的要素を再構成しています。
伝統的な形式を否定しつつも、その否定は鮮烈な肯定を内包します。
谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館
みらくら補習室で、櫻井陽菜さんが金沢市の景観政策についてお話しされていました。
櫻井さんが触れていた電線の地中化は無電柱化推進法に基づく無電柱化推進実施計画を根拠に行われていますし、月音さんが触れていたコンビニの色は屋外広告物法に基づく屋外広告物条例を根拠に規制されています。
金沢の景観に関する話題で、個人的に印象に残っていたのが令和4年の屋外広告物条例の改正です。
ざっくりいうと、屋外広告物条例の自主条例部分で規制している屋内広告についてさらに規制を強化するという改正で、法律の後ろ盾がない部分についてさらにやるのか、本気だな~となんとなく眺めており、金沢は景観形成に力を入れているんだなと漠然と思っていました。
甘く見ていた。
そんな改正が小さく見えるほど、金沢の景観形成の取り組みは先進的なものだったことがここでわかりました。
谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館に来ました。
この施設は金沢出身の著名な建築家親子である谷口吉郎、吉生の名を冠していますが、その功績を称える役割にとどまらず、建築とまちづくりを考える施設をコンセプトに設定されています。
ここも目当ては企画展です。
谷口吉郎氏が関わった「金沢診断」と、それを含む金沢市の景観政策について紹介した特別展です。
金沢市のまちづくりの歴史が一望できる非常に貴重な機会なので、可能な方はぜひ開催中に訪れてほしいです。
ここで学んだこと、調べたこと、感じたことを簡単にまとめます。
知っての通り、金沢は非戦災都市です。そのため、歴史的な建造物や街並みが多く残っています。
したがって、戦災復興法の対象となりませんでした。命と町が失われなかったのは当然絶対的に肯定されるべきことなのですが、それは同時に多くの都市が獲得した近代化の財源を得られないことを意味します。
また、都市が旧来の形を維持していることは、修繕に伴うスクラップアンドビルドで近代都市として生まれ変わるという物語を否定します。
非戦災であるがゆえに、金沢市は全国的な近代化の流れから取り残されることとなりました。
私が住んでいる広島市においても、比治山の影に入っていたために原爆の被害を免れた段原地区が開発から取り残されたという話があります。その事象が都市単位で発生していたということでしょう。
そんな中、1962年(昭和37年)に記録的豪雪災害(三八豪雪)が発生しました。交通が完全に麻痺し、都市が機能不全に陥ります。
元々近代化への焦りがあった中でこの災害が発生したことは、抜本的なインフラ整備や都市開発の必要性を市民、行政に強く認識させました。
そして様々な開発計画が提示されます。そこで描かれているのは、産業都市化を是とする、画一的なビルが並んだ街の姿です。
それに異を呈したのが、谷口吉郎です。建築家の立場から、金沢の伝統的建造物と景観の保存の必要性を訴えました。
そして谷口吉郎の市長への直訴により、1967年(昭和42年)に「保存と都市再開発診断」(通称:金沢診断)が実施されます。有識者を招き、金沢の町を視察し、地元の行政、学術、経済界と意見交換を行い、保存すべき要素を検討しました。
ここで、伝統の保存と開発を対立する概念とせず、両輪として進めていく金沢の方向性が決定されました。
その結果、翌年の1968年(昭和43年)には金沢市伝統環境保存条例が制定されます。全国で初めての景観条例です。
国が各自治体の景観計画のための枠組みを設定する景観法を制定したのが2004年(平成16年)だったことを考えると、それがどれだけ先進的な試みであったのかがわかります。というか、景観法制定の際に景観行政に先進的な都市の代表として当時の市長が国会に呼ばれています。
その後金沢市がどのような景観政策を取ってきたのかは、これまで茶屋街、用水などについて言及する中で紹介してきたとおりです。
また、保存がある種の開発であることが、ひがし茶屋街の事例等を通して実践的に理解されていきます。
金沢市には、用水と重伝建に関する条例以外にも、様々な景観条例があります。
金沢市こまちなみ保存条例、金沢市斜面緑地保全条例、金沢の歴史的文化資産である寺社等の風景の保全に関する条例 、金沢市における美しい沿道景観の形成に関する条例 、金沢市における夜間景観の形成に関する条例、金沢市における美しい景観のまちづくり関する条例、金沢市における美しい眺望景観の形成に関する条例などがあります。ほとんどが自主条例です。
法令の話が長くなっているので深く踏み込みませんが、この中では「ちょっとした良い町並み」を保全するための金沢市こまちなみ保存条例が独自性が強く面白いので、今までの話を興味を持って読めた人は調べてみてほしいです。
屋外広告物条例を改正したからすごい、とか言っていた自分がどれだけスケールの小さい言及をしていたのかがわかります。
ひがし茶屋街の話とも重なりますが、金沢の伝統的な景観は「焼けなかったから残った」という単純な話ではありません。「金沢診断」という大きな契機により保存することが主体的に決断され、さらに居住空間としての都市開発と保存のバランスを常に模索し続けており、その模索は今も続いていることがわかります。
繰り返しますが、金沢市のまちづくりの歴史を一望できる最高の機会なので、ぜひ行ってみてほしいです。
金沢市の景観政策については、金沢市が発行している「金沢景観五十年のあゆみ」も参考になります。pdfで公開されています。
他都市と比較して金沢市の政策にどの程度独自性があるのかについては、地方自治研究機構の記事が参考になりました。
鈴木大拙館
そのまま歩いて、谷口吉生(「金沢診断」は父の谷口吉郎です)が設計した鈴木大拙館に行きました。モダニズム建築の傑作で、建物としての評価も高いです。装飾を配した平面的なデザインと構造は機能美を体現しています。
鈴木大拙は金沢出身の仏教哲学者で、禅学を世界に広めた人として知られています。
この施設を訪ねるまで禅の知識は一切無かったのですが、それでも楽しめるよう設計されていました。
「展示空間」、「学習空間」、「思索空間」の3つのエリアで構成されていて、建物の構造が必然的に自分の頭で考えることを求めてきます。
澄んだ池を前にしても、人が多くてあんまり考えられませんでした。残念。
企画展は「無心といふこと」でした。判断を停止するという作業が現象学と共通しているかもしれないと思いました。
鈴木大拙館に向かって歩いている途中に、オヨヨ書林新竪町店がありました。日野下花帆が行ったのは勝手にせせらぎ通り店(閉店済)だと思ってたんですが、ウィズミーツの話し方だと結局どっちの店舗なのかわからないんですよね。もしかするとこっちかもしれない。
外観は撮り忘れました。
旅行先で本を買って荷物を重くするのは愚かだと思いつつ、古雑誌は一期一会だし、なにより花帆ちゃんが行った(暫定)古本屋で本買わんの嘘じゃない?と思って、気になったユリイカを買いました。
買った後に50年前ってちょうど吟子ちゃんのおばあちゃんが芸学部にいたころじゃんって気づいて、読んでいるとその時代の感覚が伝わってくる気がしてラッキーでした。雑誌という性質上、50年前の「いま」がわかる。
金沢21世紀美術館
そのまま歩いて、金沢21世紀美術館に行きました。
伝統の街のド真ん中に現代美術館がある。
前編で引用した、「過去・現在・未来が同時に実感できるまち」としての金沢を強く感じられます。
印象深いのは、建物が透明で、建物外部にも多くの展示があり、どこまでもひらかれた空間として設計されていることです。
広島市の現代美術館もいい施設なので企画展のたびに行ってるのですが、山の頂上に建てられた堅牢な建物で、対照的に感じます。
キャッチーな展示物やフックになる名称も誘因として大きいでしょうが、外部に向けてひらかれた雰囲気もここが観光地として人を集めている理由の一つでしょう。
建設当時の市長の著書によると、名称が「現代美術館」でない理由は金沢に現代美術館を建設することへの反発の声が大きかったからだそうです。反対の理由は複数あるでしょうし、その声がどの程度集団を代表しているのか不明であるため注意する必要がありますが、金沢は伝統の街というアイデンティティが強く根付いているんだなと感じるエピソードでもあります。
やむなく付けられた名前ではありますが、結果的に21世紀という未来を含む時間の概念になっていて、より素晴らしい名称になっているように感じます(ただそれは今が21世紀前半だから受ける印象でしょう)。検証不可能ですが、名称が「現代美術館」だったらどれだけ素晴らしい施設でもここまで賑わってなかったんじゃないでしょうか。フックは大切。
ラブライブ!のオタク的には兼六園と合わせてLiyuuさんのデジタル写真集の撮影場所です。読んでから行きましょう。
ひがし茶屋街
ひがし茶屋街は何回行ってもええ。
金澤烏鶏庵で烏骨鶏ソフトを食べました。
新幹線に乗る前にどうしても食べたかった。烏骨鶏卵をしっかり味わいたいからあえて金箔はトッピングしないという選択肢もある。
公式HPによると、金沢市の山中にある天来烏骨鶏農場センターで育てられている烏骨鶏の卵だそうです。
カステラとバームクーヘンもおいしかったです。たまごがうまい店のカステラとバームクーヘンがおいしくないわけない。
金沢市立安江金箔工芸館
茶屋街のそばにある安江金箔工芸館にも行きました。
せーはすを見た方なら金沢と金箔は結びついていると思います。
金沢箔は、加賀友禅や加賀繍と並んで国の伝統工芸品に指定されています。その金沢箔の生産の歴史を学ぶことができます。
元々駅の西側にあった私設の工芸館が金沢市へ寄贈され、歴史的に金箔の生産により縁深い地域である浅野川沿いに移転されたそうです。
そういえば、せーはすドルケ回のかなざわカタニさんも浅野川沿いでした。
こうして、三日間の金沢観光を終えました。
続いて福井に行ったんですが、今回の記事はここで締めます。
金沢に来て化石掘るようなオタクが恐竜タウンで喜ばないわけない。
まとめ(金沢と蓮ノ空)
たのしい聖地巡礼
今回は作中に登場したスポットが少ない旅行になりましたが、前回までの訪問で一応おおよそ回っています。彼女たちが立った場所でその息遣いを想像することは言うまでもなく最優先事項です。
ただ、劇中に映り込んでいなくとも金沢という土地そのものが彼女たちの生活空間であり、聖地です。
各スポットは点として現れますが、それを文脈で接続することで線、面として街を把握できるようになります。
場所と場所、過去と現在に線を引きながら観光すると、With×MEETSに対する活動記録を読んでいるような気持ちになります。「いま・ここ」として現前する事象はそれ自体が魅力的ですが、その文脈を理解することでより豊かに見えてきます。
ただ、そこが実際の生活空間である以上、外部の人間が好き勝手に文脈をつなげてわかった気になっているだけかもしれないという視点も常に持ったほうがいいとも思います。
結局何が言いたかったの?
蓮ノ空の物語において、百生吟子は伝統の衣装に鋏を入れました。
これまで金沢について話す中で、明言せずとも蓮ノ空を連想してもらうような語り方を心がけてきたので、この一言で終わらせてもいいような気もします。
伝統の都市金沢は、まちづくりも、そこにある文化も、前に進もうとする姿勢と、そこにとどまろうとする姿勢の狭間に存在しています。保存か、変革か、あるいはその二項を対立させること自体が正しいのか否か、常に問いながら進んできた都市であるという印象を持ちました。
伝統を伝統として残すためには、「いま」の視点から捉えることが必要です。伝統を残すためには多くの努力が必要ですし、多くの場合それは文字通りそのまま残るわけではありません。さらに、残すために積極的に変える必要があった事例も見てきました。
「逆さまの歌」のエピソードを思い出してもよいでしょう。
伝統を変化させることは、部分を否定することです。構造的にどうしてもそうです。しかしその否定は、より強力な肯定を内包します。冒頭に引用したとおり、過去は現在における創造を通じて伝統として生き得るのです。
金沢という都市は、単に背景美術として利用されているわけではありません。物語は土地と強く結びつき、共鳴しています。
蓮ノ空は、金沢の物語です。
参考
・金沢市史編さん委員会『金沢市史 資料編7 近世五(商工業と町人)』金沢市
・金沢市史編さん委員会『金沢市史 資料編14 民俗』金沢市
・金沢市史編さん委員会『金沢市史 通史編2(近世)』金沢市
・金沢市史編さん委員会『金沢市史 通史編3(近代)』金沢市
・山出保『まちづくり都市 金沢』岩波書店
・山出保『金沢を歩く』岩波書店
・山出保+金沢まち・ひと会議「金沢らしさとは何か ―まちの個性を磨くためのトークセッション」北國新聞社出版局
・田中優子『遊廓と日本人』 講談社
・佐賀朝、吉田伸之『シリーズ遊廓社会1 (三都と地方都市)』吉川弘文館
・佐賀朝、吉田伸之『シリーズ遊廓社会2 (近世から近代へ)』吉川弘文館
・『日本の伝統工芸6 北陸』ぎょうせい
・「谷口吉郎・谷口吉生記念金沢建築館特別展 谷口吉郎の「金沢診断」ー伝統と創造のまちづくりー パンフレット」
・『金沢景観五十年のあゆみ』金沢市都市整備局 景観政策課
・三木清『哲学ノート』中央公論新社
・金沢市(https://www4.city.kanazawa.lg.jp/index.html)
・津田水引折型(https://mizuhiki.jp/)