天皇制と生活保護
友人のMさんが、すさまじい情熱で作り続けているフリーペーパーの「フェアビジョン」2019年5月号(vol.97)に、天皇制についての短い文章を寄稿した。少し時間が経ったので、若干の加筆修正をして、ここにも転載しておく。書いたのは2019年4月末、天皇の代替わりの直前である。以下、転載。
生活保護をめぐるスティグマ
僕は普段、ソーシャルワーカーと呼ばれる、福祉系の相談支援員の仕事をしている。人からの相談を受けて、その気持ちを受け止めたり、少しでも生活上の困難が解消されるように使える制度を活用するための手助けをしたり、使えるはずの制度が何故か使えないことに対して一緒に怒ったりと、そういうことをしている。
そのような仕事をしていて、時に触れることになるのが、生活保護制度に対する偏見(スティグマ)である。自身も生活に困窮している(あるいはそのおそれがある状態で)相談に来たものの、「でも生活保護は使いたくない」という意見を聞いたりする。あるいは、「いま生活保護を受けているが、それで肩身の狭い気持ちを持っている」といった声も耳にしたりする。そのような意識は、政治家やマスコミ、ネット上の心ない書き込みにも表れており、かれらは二言目には「不正受給」などという言葉を、定義も不明確なまま濫用していたりする。生活保護以下の水準で生活している人のうち、実際に生活保護を受けている人の率が二割程度であるというのも、単に生活保護制度の使い勝手の悪さとは別に、無知や偏見による部分が大きいといえるだろう(※1)
普遍的な権利と特権の対立
ところで、生活保護含む福祉なるものが社会の中で成立するためのベースとなる考え方の一つは、人権とか権利とかいうものである。すなわち、「人間であれば誰でも等しく手にすることができること」を意味する普遍的価値というものである。生活保護法は、憲法25条に保障された生存権(「健康で文化的な最低限度の生活」という有名なアレ)に基づいており、「生活に困れば誰でも制度を利用できる」という意味で、大まかには普遍的な権利の一つであると言える(※2)
そして、そうした普遍性と対立するのは「一部の人にだけ、不均衡に与えられるもの」である。これは特別な権利なので、「特権」と呼ぶべきだろう。そして、特権はその不平等性、不公平性ゆえに問題となりやすい。というか、問題化されるべきものだが、これがなかなかに一筋縄ではいかない。
具体的に考えてみよう。現代日本社会において、この特権なるものを考えた時、真っ先に思い浮かぶのは、天皇(制)である。特定の出自の人物しか天皇になることはできず、その地位は世襲以外の継承を認められていないため、皇室への参入資格は(唯一結婚をのぞいて)ほかの誰にも開かれていない。ある一家に対して、国家によって特別な予算措置が講じられ、東京の一等地が無条件に与えられた状態で保護され(固定資産税とかあるのだろうか)、ニュースでは「陛下/さま付け」で呼ばれ、学校などの式典では「君」(=君主、つまり天皇)を讃える歌が国歌として唱和される。このように、とにかく彼らには様々な意味で一般人とは異なる法的地位が与えられており、それによって僕たち一般市民の中には、皇族とは無条件で尊い存在であるという意識が植え付けられる。このような扱いが特権でないとすれば、何が特権なのか、という気さえする。
普遍的権利と特権の関係。これは、理屈としてはそんなに難しくないはずなのだが、しかし、なぜか少なくない日本人にはしっくり来ないらしく、議論が噛み合わないことが多い。
さきほど述べたように、生活保護に関しては、時にネガティブなイメージが持たれるが、それは、生活保護が「特権」として、庶民の不公平感を刺激しているからでもある。「なんであいつだけが」というやっかみの気持ちだ。しかし、言うなれば「生まれながらの生活保護」とすら言える天皇制については、「別に問題ない(特権ではない。または理由のある特権である)」という情報処理が、各自の脳内でなされてしまう。「伝統だから」「特別な存在だから」「象徴だから」……理屈はともかくとして、とにかく天皇制に問題はないという話になってしまう。いくら税金が投入されても、元号なるものの変更に振り回されても、(多少グチを言うくらいはするのかもしれないが)目立った異論も反論もない。むしろ、お祭り騒ぎに興じる人も目立つ。少なくとも、テレビや新聞上での表立った批判は、ほぼ皆無である。
特権をめぐる倒錯
話をまとめるとこういうことだ。生まれながらにして特別な地位にある人間の、その存在が当然視され、支持される一方で、社会の様々な仕組みのしわ寄せとして貧困にあえいでいる生活保護受給者の、ギリギリの生存が特権扱いされる。これは一体なんなのか。
もっとも、これは生活保護に限った話ではない。たとえば、在日コリアンへのヘイトスピーチで知られる在特会の正式名称は「在日特権を許さない市民の会」だが、ここには(本来マイナーな位置に置かれている)「在日コリアンこそが、むしろ特権を享受しており、その特権を剥奪してやることは正当な行為なのだ」という意識がある。もちろん、日本における多数派は日本人であるので、ここにもマジョリティとマイノリティの転倒がある。
天皇制がマイノリティ差別を肯定する
そして、天皇制が日本社会に存在することと、差別が温存されることは同じコインの表と裏でつながっている。というのも、天皇制は「人間は生まれながらにして平等である(少なくともそれを目指すべきだ)」という人権の普遍性と真っ向から対立する。そして、「特権を持った人間」が認められてしまえば、その反対側に「特別に差別される人間」がいても別段、不思議はないことになってしまうからである。その意味で、天皇制擁護と、マイノリティ差別は無関係の事象ではない。「差別はよくない」と考える僕たちは、しかし同時に「正当な差別」を可能にする思考を裏口から導入してはいないだろうか。
また、言うまでもないことだが、これは構造の話であって、「天皇個人」が善人であるかどうかということとは、さしあたって関係がない。その意味で、「天皇のお人柄」を云々と述べて、なにか肯定的な意味や態度を見出そうとする(「リベラル」を自認する)人々は、あまりに迂闊なのではないかと、個人的には思う (※3)
僕たちは、どうして天皇制を差別の問題として取り上げる思考回路を、「感覚的に」持てないのか。天皇制本体への問題意識ではなく、「小室某みたいなやつが天皇家の人間と結婚するのはおかしいのではないか」などと、妙なやっかみの気持ちを育んでしまうのは何故なのか。皇族への税金投入はよくて、生活保護がダメな理由はなんなのか。僕たちが知らないうちに入れられている、思考の檻を抜け出すにはどうすればよいのか。もっと広い視点から物事を考えたい。
※1 世に言う「不正受給」なるものの比率は、生活保護に関して支出される費用全体のうちの〇.三%程度で、悪質な例はそのうちのさらに一部というのが識者の見解だが、そのようなことを、一般の人はよく知らない。よく知らないまま、偏見を内面化している。
※2 ただし、外国籍の人々は日本に住んでいても、生活保護法の適用対象とはなっていない。そのかわり、権利性のまったくない「行政措置」として、生活保護と同様の保護が、永住外国人などに対して行われている。その意味で「普遍性」なるものがどれだけ効力を持つのか、ということについては議論の余地があるだろう
※3 リベラルを自認する人々が金科玉条とする日本国憲法にこそ、天皇制の法的根拠が書き込まれていることが、彼らの理屈の限界なのかもしれない。
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