動きつつも、もやもやすること
いまいち実感がないのだけど、どうやら2019年が終わるということになっているらしい。僕としては「単なる連休」という意識だったけど、どうやらこれは年末の連休だったのだ。実家に帰るとかいうこともなく、忘年会が続いて忙しいということもなく、ただ静かに過ごしている。
今年のことを振り返るに、ここ数年でも本当に特異な年だったなと思う。特に意識したわけでもなく、気づいたらよくわからない激流に飲み込まれて、何度も新聞やテレビで報じられるような出来事になってしまった。もちろん、「ヤジ排除」の話である。これが話題になるように狙って、こちらから仕掛けたこと(作戦)だったらいいのだけど、実際はそうでもなく、場当たり的にヤジって、結果的に話題になったというのがなんとも、という感じである。
来年1月のはじめには、早くも裁判(国賠訴訟)の第一回期日というのがあり、僕も裁判所に出向いて何事かをしゃべることになっている。それはいいのだけど、そのための準備などもあることを考えると、心が休まるヒマがないなとも思う。しかしまあ、乗りかかった船なので、どんな形であれ最後までやろうとは思っている。
独り言
ここからは独り言なのだけど、本当は日々生活していく中でもっと内省的にいろんなこと考えたり、現代思想の本を読んだり、サンプラー(楽器)を叩いて曲を作ったりだとか、そういうことがしたいなと思ったりもする。しかし、この問題について、なんやかんや日々やることがあり、関連する文章などを書いているうちに気づいたらプライベートの時間が終わり、仕事の時間になってる。道警のことを考えるか、仕事のことかを考えるか、という不健康な毎日を送っている。
「ヤジ排除」の出来事が始まる前に数年考えていたのは、社会運動のようなものに伴う微妙な感情だったり戸惑いだったり矛盾だったり、ということである。つまり、なにかの事象に対して瞬間的に行動するよりも、もっと遠回りなところから問題を考える、みたいな態度のとり方である。
しかし、今回のように一定の目的志向型の運動が始まってしまうと、それに向けて思考もシンプルになってしまい、葛藤などが削ぎ落とされてゆく。「立ち止まって(黙って)考えること」よりも、「発言すること」と「行動すること」が、優位にあるゲームが始まる。このゲームにおいては、「問題に優先して取り組むために、他のことは今は置いておく」という思考になりがちだ。それは、どこかラクであると同時に、一定のものごとをあらかじめ排除しているという意味で、思考回路が貧相になるような気もする。
もちろん、安倍も警察も明らかに悪いし、そういうものを放置してる間にどんどん事態は悪化する。「桜を見る会」一つ取っても、政府はまともな答弁をしない。官僚は総ぐるみで公文書を隠蔽し、破棄し、改竄する。物事がブラックボックスの中で処理される。本当に腐敗した連中であるし、道警はある意味で、そのミニチュア版だ。
こうした状況はもちろん問題だ。しかも、モタモタしているうちに疑惑や不祥事はうやむやになって、そして風化していく(やつらはそれを狙っている)。だから、彼らと対峙するこちら側は、彼らの「悪」をわかりやすく指摘せざるをえないのだが、なんというか「日刊ゲンダイ」みたいな文章ばっかり読んだり書いたりするのは、本質ではないゲームに没頭しているようで、少し疲れるのも事実である。
だいたい、そのような活動は、やってるほうの(自分の)「罪」みたいなものを棚上げするような面もある。「敵」の悪事を糾弾することに没頭しているうちに、負の感覚のようなものがじわじわと湧いてきて、自分の精神を蝕んでくるような気もする。国家権力には問題があるけど、そことバトルする自分の立ち位置などについて内省する視点も(ほどほどに)持ってないと、なんだかやっぱりよくない。
「対権力」の直截な議論が悪いわけではないけど、迂遠な議論もしたいじゃないですか。
(最近読み返していてハッとしたのだけど、僕は「排除」される前に書いた下記の文章の中で、「『安倍やめろ』といった大文字の政治のことしか言わない人」について、否定的に言及しているのであった。「安倍辞めろ」と叫んで警察に排除された僕が、このようなことを書いているのは少し笑えるが、自分の中では矛盾していない。特に詳細は書かないが、ここはけっこう重要な点だ)
裁判とか
一定のルールのもとに思考様式が限定されるという意味では、裁判というのは典型的である。そこでは争えるものと争えないものがあり、そのフォーマットにうまく乗らないものは裁けないし、救済されない。自分の主張や言い分も、あくまで裁判というゲームで有利なように翻訳して、裁判用語に乗せていくことが必要になる。言いたいことを直接に、シンプルに伝えるためにヤジを飛ばしに行ったはずなのに、自分の言葉を変換して翻訳し、場合によっては制御することが求められる。「安倍は地獄に落ちるべきだ」とかいうことは裁判では好ましくない、ということになる(たぶん)
ただ、それでも裁判というのが物事を追及するために使える、数少ないカードである時に使わない手はない。また、国家権力を相手取って裁判する経験などというものは一生に一回だろうし、それはそれで社会勉強になるので、ある意味で楽しんでいる部分もある。ともかく、(上でも書いたように)とりあえずやってみることには前向きなんだけど、そこで取りこぼされるものが不可避的にある以上、単に手間がかかるという以外のところで、もやもやする部分は今後もあり続けると思う。
以上、たまにテンション低い文章でも書こうと思って、書いてみた次第である。
※念のために補足しておくと、この文章は、なんの金にもならないこの事件に手弁当で関わってくれている弁護士のみなさんをディスるものではない。個別の話ではなく、フォーマット自体の問題についてである。あとは「日刊ゲンダイ」の仕事についてもリスペクトはしているし、参照することは多い。
サムネイル画像はツイッターで拾った香港のデモ画像。synthwaveみたいで興奮する。
補足(2020年3月7日)
結局、自分の思いを優先した結果、裁判所でも「地獄に落ちろ」と言ってきた。
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